王朝史と系図

前史

bc50,000-bc35,000 周口店(Zhoukoudianzhen)

bc4,000-bc3,000  黄河(Huang He)

bc3,000-bc2,000  仰韶(Yangshao)龍山(Lungshan)

bc2697?-bc2599?,計99年
黄帝軒轅氏 (Huangdi-Xuanyuan)
.
bc2598?-bc2515?,計84年
少昊金天氏 (Shaohan-Jintian)
.
bc2514?-bc2437?,計78年
高陽氏(Zhuanxu-Gaoyang)
.
bc2436?-bc2367?,計70年
高辛氏 (Diku-Gaoxin)
.
bc2366?-bc2358?,計9年
帝摯高辛氏(Dizhi-Gaoxin)
.
bc2357?-bc2258?,計100年
唐堯(Tangyao)
.
bc2257?-bc2208?,計50年
虞舜(Yushun)

bc2207?-bc1766?,計442年 夏(Xia (Hsia))

禹 -- 太康 - 仲康 - 相 - 少康 - 杼 - 槐 - 芒 - 泄 - 不降 - --孔甲 - 皋 - 發 - 桀(履癸)
黄河文明

 黄河文明は黄河の中・下流域で栄えた古代文明で、新石器時代の仰韶(ヤンシャオ)文化から竜山(ロンシャン)文化をへて、殷・周の青銅器文化に発展していった。 1921年、スェーデンの地質学者・考古学者のアンダーソン(1874〜1960)は河南省の仰韶村で彩文土器を発掘した。翌年の発掘によって竪穴住居跡が発見され、また多くの磨製石斧・彩陶などの土器が出土した。 アンダーソンは周口店洞穴の発見者であり、北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)の発掘の端緒をつくった人物でもある。

 前5000年〜前4000年頃から黄河の中・下流域の黄土地帯でおこったこの中国最初の農耕文化は最初に発見された遺跡にちなんで仰韶(ヤンシャオ)文化と呼ばれる。1954年に発掘された西安の東にある半坡(はんぱ)村の集落遺跡は後期に属するが、仰韶文化の代表的な遺跡である。

 仰韶文化期の人々は粟・黍を栽培し、豚・犬を飼い、また鹿などの狩猟も行った。主として竪穴住居に住み、集落を形成し、石斧・石包丁などの磨製石器や彩陶を使用した。 仰韶文化を代表する出土品は彩陶である。そのため仰韶文化は彩陶文化とも呼ばれる。 彩陶は薄い赤色の地に赤・白・黒などの色を使用して文様が施されている素焼きの土器で甕・鉢・碗型のものが多く、焼成温度は約1000度位である。なお彩陶は西アジア、中央アジアから伝来したものであると言うオリエント伝来説がアンダーソン以来唱えられている。

 1930・31年に山東省歴城県竜山鎮の城子崖遺跡が発掘され、黒陶文化の存在が明らかになった。黒陶文化は代表遺跡の竜山にちなんで竜山文化とも呼ばれる。 黒陶は薄手で精巧に作られた黒色の土器でロクロも使用され、器形は鬲(れき、湯をわかしたり、蒸すのに使う)・鼎(てい、物を煮るのに使う)などの三足土器が特徴的だが多様である。焼成温度は約1000度以上である

 竜山文化期(前2000〜前1500頃)になると農具・農業技術はさらに進歩し、その結果、仰韶文化期よりもはるかに大きな集落(邑)が形成されるようになった。この大集落がのちに都市国家に発展していく。

bc1765?-bc1122?,計644年 殷{商(Shang)}

湯(大乙) - 外丙 - 仲壬 - 太甲 - 沃丁 - 太庚 - 小甲 - 雍己 - 太戊 - 仲丁 - 外壬 - 河亶甲 - 祖乙 - 祖辛 - 沃甲 - 祖丁 - 南庚 - 陽甲 - 盤庚 - 小辛 - 小乙 - 武丁 - 祖庚 - 祖甲 - 廩辛 - 庚丁 - 武乙 - 太丁 - 帝乙 - 紂(帝辛)

殷と周

 黄河中・下流域に多くの都市国家(邑)が出現して争う中から、多くの都市国家を支配する有力な王が出現するが、今日確認されている最古の王朝は殷である。

 中国の漢代の有名な歴史家・司馬遷は「史記」のなかで、中国の歴史を三皇五帝から始め、夏・殷・周・秦・漢王朝の歴史を記述している。三皇五帝(中国史上の伝説の帝王)のうち三皇は伏羲(ふくぎ、漁労の発明者)・神農(農業の発明者)・燧人(すいじん、火食の発明者)の三人の神をさし、この三皇に続いて五帝について記述している。

 五帝は黄帝(漢民族の祖先)・せんぎょく(黄帝の孫)・帝こく(黄帝の曾孫)・尭・舜で、特に尭・舜は理想の聖君主とされ、尭・舜の世は理想的な政治が行われた時代と讃えられた。尭は舜に位を譲り、舜は黄河の治水に功のあった禹に位を譲ったとされている。 禹は黄河の治水に成功して、舜から譲位されて帝位について夏王朝を創始した。

 夏王朝は以後17代450年間続いたが、暴君桀(けつ、殷の紂とならんで暴虐な君主の代名詞となる)があらわれ「酒池肉林」にふけり、暴政を行ったので殷の湯王に滅ぼされたと司馬遷の「史記」には書かれているが現在のところ実在を証明する遺跡等は発見されていない。現在の段階では伝説上の王朝ということになるが、将来実在を証明する遺跡等が発見される可能性はあると思われる。従って現在確認できる中国最古の王朝は殷である。しかしその殷の実在が証明されるようになったのは20世紀に入ってからである。

 1899年、王懿栄という学者がマラリヤの持病に悩まされ、「竜の骨」が特効薬で良く効くと教えられ、薬屋から買ってきた。「竜の骨」は実は地中から掘り出された動物の骨で、よく見ると骨の表面に文字らしきものが刻まれていた。そこで薬屋に行きその出所をやっと聞き出し、「竜の骨」の蒐集に務めた。しかし薬屋は出所の秘密を守るために他所の地を教えていた。

 王氏と友人の劉氏は苦心の末、安陽県の郊外の小屯村(殷の後半の都があった所)を発掘し、そこから甲骨文字(漢字の原型になった文字)を発見した。 王氏と劉氏は甲骨文字を発見したが、その解読は羅振玉・王国維の二人の学者によって行われた。さらに羅振玉は小屯村を発掘し、甲骨のほかに青銅器や玉器、骨角器、石器などを発掘した。

 羅振玉・王国維は辛亥革命(1911)後、京都に亡命し、京都大学の学者らと共に甲骨文字の研究・解読をすすめ、1913年に甲骨文字の解釈に関する本を出版した。発見された約3000の甲骨文字の半数近くが彼らによって解読された。その中で羅氏は甲骨に刻まれた王の名が、司馬遷の「史記」などに残っている殷の系図に出てくる王の名とほぼ一致していること、小屯村が殷の末期の都であることなどを論証した。

 1928年から1937年にかけて殷墟(河南省安陽県小屯村を中心とした殷の都の跡で殷の時代には「大邑商」(大きな町、商)と呼ばれていた)の大発掘が中央研究院によって15回行われ、世界中の注目を集めた。しかし1937年日中戦争の勃発にともない、戦場となったために発掘はすべて中止された。

 殷墟の発掘により宮殿跡の周辺から竪穴式の住居跡、大小1000以上の陵墓をはじめ、甲骨・青銅器・象牙細工・白陶・子安貝(東南アジア産の貝で貨幣として使用された)・鼈甲などが多数出土した。なかでも殷王の墓とされる大型の地下墳墓は約10メートルの地下に掘り下げて作られており、19メートルと14メートルの長方形で、中央に王の棺がその周辺に青銅器、武器、武具が埋められていたが、特に人々を驚かしたのは数100人もの殉死者であった。

 殷王朝は伝説では夏を滅ぼした湯王から30代続き、紂王(ちゅうおう)の時に周に滅ぼされたとなっている。しかし、前半の歴史は不明で、第19代の盤庚(ばんこう)(殷墟に都を移した王)以後の250年間の歴史が発掘によって究明されている。 王位は初めは兄弟相続であったが後に父子相続に変わったこと、殷王は政治・軍事・農業など 国事をすべて占卜によって決定する神権政治を行ったことなどが分かっている。

 殷の王は黄河中流域の諸都市国家連合の盟主として黄河流域を支配したが、次第に専制的となった。最後の紂王は妲己(だつき)という美女を寵愛し、人民から重税を取り立て、宮殿を造営し、広い庭を造営して酒池肉林、連日宴をはり、人民を苦しめた。その頃、西方の陜西省で勢力を持ってきた周の武王が、殷の支配に不満を持つ諸部族と連合して牧野(ぼくや)の戦いで紂王をうち破った。敗れた紂王は自殺し、約500年続いた殷はついに滅亡する。

 殷の文化を代表するのは高度な青銅器である。青銅器は当時とても貴重なものであったので 主に祭器や武器に使用された。殷の青銅器はとても精巧なもので、とても3000年も前に作られたとは思えないほどで、当時の技術の高さが想像できる。 殷は農業を主としているが、農具には貴重な青銅器は使用されず、まだ石器や木器が使われていたので生産力は低かった。

 殷の後半の都は「商」と呼ばれていたが、殷の滅亡後「商」の住民は各地に離散した。そして土地を持たない彼らは物を売買する事で生計を立てる者が多かった。そのため「商」の人々が物を商う人、すなわち商人と呼ばれるようになったと言われている。

 陜西の渭水流域から興った周(前1027頃〜前256)は、はじめ殷に服属していたが、有徳者と伝えられている文王が諸侯の信頼を得て、領土を拡大し、都を鎬京(現在の西安付近)に移し、さらに東進政策を押し進めたが亡くなり、子の武王(姓は姫、名は発)に引き継がれた。

 武王は、渭水のほとりで釣りをしていた太公望呂尚と出会い、彼を軍師・総司令官として牧野の戦いに勝ち殷を滅ぼしたというのは有名な話で、釣りの上手な人を太公望というのはここに由来している。また伯夷・叔斉の兄弟が武王に 「父(文王)の葬りも済ませないうちに戦争を始めるのは孝行といえるか、臣として君を殺そうとするのは仁といえるか」と諫め、周の世になると周の米を食べることを拒み、首陽山に隠れてわらびを採って暮らす中で餓死したというのも有名な話である。

 武王は周王朝を創建し、在位7年で亡くなり、その子成王が後を継いだが、まだ幼少だったので、武王の弟・叔父の周公旦が成王を補佐し、当時東方で起きた殷の反乱及びそれと結びついた東夷(山東省辺りに住む民族)を征討し、領土を東方から長江流域にまで拡大し、東方の統治の拠点として洛邑(現在の洛陽)を建設するなど周の基礎を確立した。また彼は周の封建制度の創始者とされている。

 周の封建制度は、殷の制度を模倣して、一族・功臣や各地の土着の首長を諸侯とし、公・侯・伯・子・男の五等にわけて、この爵位に応じて封土(ほうど)(領地)を与え、その地を支配させるとともに、彼らに軍役(周王のために兵を率いて戦うという軍事的な義務)と貢納の義務を負わせる政治組織をいう。周の王や諸侯のもとには、卿・大夫(上級の家臣)・士と呼ばれる世襲の家臣がいて、それぞれ封土を与えられ、その地の農民を支配した。

 日本やヨーロッパにも封建制度があった。ヨーロッパの場合、主君と家臣の間にある、家臣は主君に忠誠を誓い、主君は家臣を保護するという関係は個人と個人の間での契約(契約だから主君が約束を守らない場合は、家臣も約束を守らなくてもよい)の上に成り立っていた。

 これに対して周の封建制度では、主君と家臣の関係は、本家と分家の関係でつながれているのである。これが周の封建制度の特色である。中国では宗族が重視される。
宗族というのは父系の同族集団、つまり同じ祖先から分かれてきた同じ姓の家で共通の祖先の祭祀を行い団結する、そして同姓不婚(同じ姓のもの同士は結婚しない)という原則があった。そして宗族間では本家が優越し、分家は本家を中心に団結しなければならないという宗法(そうほう)というきまりがあった。

 周の封建制度では周の王(本家)と一族の諸侯(分家)の関係にもそれが当てはめられる、分家の諸侯は本家の周の王を中心に団結しなければならないという社会のきまりを周の支配に利用したということで、氏族的性格が濃いとか血縁関係を重視しているのが特色だといわれる。

 4代目の昭王は東南地方に支配権を確立しようとした。5代目の穆王は西北地方に勢力を拡大しようとして犬戎(けんじゅう、周代に陜西・山西の山地にいた遊牧系の未開民族)を討った。10代目の脂、(れいおう)は都の反乱のため東方に逃亡し、王位は一時空位となった。11代目の王宣王は中興の英主とされるが、次の12代目の幽王は西周を滅ぼした暗君とされる。

 幽王は皇后と太子を廃して、寵愛した絶世の美女褒じが笑わないのでの笑わせるために外敵の進入を知らせる狼煙台ののろしを上げさせた。すわ一大事と四方から諸侯がはせ参じたが何事もないので呆気にとられた。彼らの間抜けな顔がおかしいと褒じが初めて笑った。その笑顔をみたい一心の幽王はその後も何度ものろしを上げた。もちろん諸侯達はのろしを信じなくなった。

 前770年、西北から犬戎が侵入してきた。幽王は必死になってのろしを上げるが諸侯は誰も集まって来ない、幽王は犬戎の手に掛かって殺された。都の鎬京は犬戎の手に落ちた。 諸侯は都を捨てて東に逃げ、洛邑を都とし、前の皇太子を平王として即位させた。以後は東周の時代と呼ばれる。

 周は800年近く続いた王朝であるが、中国史ではこの前770年の出来事を境に、前1027年頃から前770年までの都が鎬京に置かれていた時代を西周、そして都が洛邑に移されてから以後の前770年から前256年までを東周の時代と呼ぶ。さらに東周を前半と後半に分けて、前半の前770年から前403年までを春秋時代、後半の前403年から前221年までを戦国時代と呼ぶ。

bc1121?--bc221,計900年 周(Zhou/Chou)

bc1121?-bc771,計351年 西周(Western Zhou/Chou)

bc1134? 武王即位
bc1121? 商滅
bc1115? 成王
bc1078? 康王
bc1077 甲子年
bc1052? 昭王
bc1017 甲子年
bc1001? 穆王
bc957 甲子年
bc950?佛教釋迦牟尼佛
bc950?(Shakyamuni,bc1029?-bc950?,bc469?-bc390?)逝
bc946?共王
bc934?懿王
bc909?孝王
bc897 甲子年
bc894?夷王
bc878?王(-bc828)
bc841?[史記]年表自本年起
bc837 甲子年
bc827?宣王
bc781?幽王
bc779?褒氏受寵
bc777 甲子年
bc771 西周結束

后稷不窟公劉慶節皇僕差弗毀●

文王古公亶父公叔祖類亜圉高圉公非

1武王 2成王 3康王 4昭王 5穆王
11宣王
10
10
9夷王 8懿王 6共王
12幽王 7孝王

bc770-bc221,計549年 東周(Eastern/Later Zhou/Chou)

bc770-bc476,計294年 春秋(CunChiou/Ch'un-ch'iu)

bc770 平王(宜臼)即位
bc770 各諸侯立國
bc767 鄭滅
bc722 魯隱公元年,[春秋]記載自本年起
bc719 桓王
bc717 甲子年
bc696 莊王
bc685 齊用管仲(-bc645)
bc681 僖王
bc679 齊桓公(小白,-bc643)稱霸
bc676 惠王
bc661 晉滅魏,霍
bc657 甲子年
bc655 晉獻公(-bc651)殺太子申生(-bc655),公子重耳(-bc628)逃狄
bc655 晉滅,虞
bc651 襄王
bc636 重耳即位為晉文公(-bc628)
bc632 城濮之役,晉率諸國敗楚,晉稱霸
bc623 楚滅江
bc618 頃王
bc612 匡王
bc606 定王
bc597 甲子年
bc585 簡王
bc571 靈王
bc557 齊滅
bc551 孔子(Confucius, bc551-bc479)誕生
bc544 景王
bc537 甲子年
bc536 鄭宰相子鑄成文法於鼎
bc520 悼王
bc519 敬王
bc515 王闔閭即位
bc512 孫武(Sun Tzu, bc535-)投效闔閭
bc512 滅徐
bc505 越侵
bc505 曾子(bc505-bc436)生
bc500 齊晏子(-bc500)逝
bc494 王夫差(-bc473)於會稽敗越王勾踐
bc483 子思(bc483?-bc402?)生,著有[中庸]
bc483 顏回(bc514?-bc483?)逝
bc481 孔子(孔丘,bc551-bc479)[春秋]擱筆
bc480 墨子(墨,bc480?-bc390?)生
bc480 子路(仲由,bc542-bc480)被殺
bc477 甲子年
bc476 春秋(bc770-bc476)結束
13平王 14桓王 15荘王 16僖王 17恵王

23靈王 22簡王 21定王

19頃王
18襄王

24景王 25悼王 20匡王

26敬王

古典思想の開花

 春秋末から戦国時代にかけて、中国社会は大きく変化した。そのなかで古い秩序は崩壊し、 新しい時代にあった秩序・思想が求められてくる。また諸侯は各国の富国強兵をはかり、有能な人材を 求めた。さらに実力主義の風潮が広まる中で、多くの思想家・学派が現れ、多くの書物が書かれた。 これらを総称して「諸子百家」と呼ぶ。諸子の子は一家の学説を立てた人の尊称で先生の意味である。 男子の尊称として使用され、日本にも取り入れられた。小野妹子(初めての遣隋使として有名)などは この例である。但し、日本では後に女子の名前に使われるようになった。最近は少なくなったが以前は ほとんどの女子の名前に使用されていた。いつ頃からどのような理由でそうなったかは勉強不足で分からない。 百家の百は多いの意味、家は学派の意味に理解している。諸子百家のなかで特に重要なのが儒家・墨家・ 道家・法家の4つの学派である。

 諸子百家の中で、以後の中国のみならず、朝鮮・日本などの東アジアの歴史に大きな影響を 及ばしたのが儒家である。儒家は有名な孔子を祖とする徳治主義に立つ学派である。

 孔子(前551頃〜前479)は、春秋末の魯(周公の子孫が封じられた国)の曲阜の人である。 孔子は魯の国の祖先である周公旦を理想の人物として尊敬し、魯に伝わる周の制度・文物を学び、 周公がつくった周の制度を復興し、周の礼に帰ることで当時の混乱の世を救おうとした。54歳の時魯の 司寇(司法をつかさどる大臣)となり、国制改革に取り組むが豪族の反対によって失敗に終わり、 前497年頃に衛・陳・蔡・楚などの諸国を巡遊したが、孔子の政治理念は理解されず、実現を断念して 帰国し、以後は弟子の教育と古典の整理に専念した。

 孔子は混乱した社会秩序(礼)を回復するために周の礼に帰ることが必要であり、そのためには 個人の道徳(仁)の修養が必要であると考えた。そして、「修身・斉家・治国・平天下」(天下を 治めるには、まず自分の身を修め、家庭を平和にし、国を治めれば、天下は治まるの意味)を説いた。 平和な天下を実現するもとは、一人一人が身を修め、立派な人間になること、そして「修身」とは、 「仁」という徳を身につけることだと説いた。

 有名な「論語」は、弟子達が孔子の言行を記録した書物である。その中にも「仁」という言葉が 盛んに使われているが、孔子は弟子の質問に対して様々な言葉で説明している。あるところでは 「忠恕」と言う言葉で、また「孝悌」と言う言葉で説明している。忠恕はまごころと思いやりの心、 孝は親孝行、悌は兄または年上の人につかえて従順なこと。つまり、親孝行をし、兄弟仲良くし、 思いやりの心を持つことが仁の徳のもとだということで、一人一人が仁の徳を身につければ、その 集まりである家庭はうまくいく、そうすれば家庭の集まりである国が、そして天下がうまく治まると 説いた。

 孔子の考えは、徳をもって天下を治めるという徳治主義であるが、春秋末から戦国時代と いう軍事力で覇権を握ろうと考えている諸侯に受け入れられなかった。 孔子の弟子は3000人と言われている、これはもちろん誇張であるが、多くの弟子達によって 孔子の思想は受け継がれていった。孔子の弟子の曾子は、その学を子思(孔子の孫)に伝えた。

 その子思の門人に学んだのが、孔子の教えを継承して大成したとされる孟子(前372頃〜前289頃) である。孟子が幼少の頃、厳格な母のしつけを受けたという話は有名である。墓の近くに住んでいた とき、孟子が葬式ごっこばかりして遊ぶので、母親は市場の近くに引っ越した。ところが今度は 商人のまねばかりして遊ぶので、再び引っ越しをし、今度は学校の近くに住んだところ、孟子は熱心に 勉強するようになったという。これが有名な「孟母三遷」の教えである。

 子思の門人に学んだ後、梁・斉・宋などの諸国を遊説し、王道政治を説いたが受け入れられず、晩年は隠退して弟子と政治や人間について問答した。その言行を集めたのが四書の一つの「孟子」である。

 孟子は、人間は誰でも他人の悲しみを見過ごすことの出来ない同情心(人に忍びざるの心)を 持っている、よちよち歩きの子供が井戸に落ちそうになっているのをみたら誰でも助けるであろう、 つまり全ての人間は生まれつきよい心を持って生まれてきていると説く。これが有名な孟子の性善説で ある。そして生まれつき持っている人に忍びざるの心(惻隠の心)、羞恥の心(羞悪の心)、謙遜の 感情(辞譲の心)、善悪を判断する心(是非の心)は、それぞれ仁、義、礼、智の徳のもとである(この思想は四端説と呼ばれる)とし、特に仁・義の徳を重視した。

 孟子は上の思想を発展させ、仁・義の徳を備えた立派な人物が支配者となって政治を行なえば 理想的な政治が実現できるという「王道政治」を唱えた。そして天子(天帝の子の意味、皇帝)は、 天帝(中国人は天帝がこの宇宙を支配していると考えた)の命令によって天下を治めているが、もし その支配者が徳を失えば、別の徳を備えた立派な人物(有徳者)が天命を受けて新しい王朝を開くと いう「易姓革命」の思想を唱えた。

 私たちがよく使う「革命」という言葉はここに由来している。革命は命(天命)が革(あらたまる) の意味である。「易姓」は姓が易(かわる)の意味で、王朝の交替によって支配者(皇帝)の姓が 変わることを意味している。孟子が活躍したのは戦国時代の中頃にあたり、「王道政治」という徳治 主義の思想は当時の諸侯に受け入れられるはずがなかった。しかし、「易姓革命」の思想は以後の 中国の歴史の中で大きな役割を果たすことになる。

 戦国の末期の荀子(前298頃〜前235)は趙の国に生まれ学問修業を続け50歳過ぎて初めて遊説し 斉に仕えた、後には楚に仕えた。荀子は孔子の説を継承したが、孟子の性善説に反対して性悪説を唱えた。 「人の性は悪にしてその善なる者は偽なり(人の生まれつきは悪で、善は後からの作為的な矯正に よるものだ)」と述べ、人間は生まれつき自分の利益を追求する傾向がある、また嫉(ねた)んだり 憎んだりする傾向がある、だからそのままにしておくと必ず争い・奪い合うことになり、世の中は混乱に 陥ると主張した。

 だから礼による教化が必要であり、礼によって社会秩序や道徳を維持し、混乱した社会を再建しないといけないと説いた。荀子が強調する礼は法に近いものを言っており、法家の思想に 大きな影響を及ぼしている。法家の代表的な思想家である韓非・李斯は荀子の門下である。 

 儒家の思想を批判し、儒家から攻撃された墨子(前480頃〜前390頃)を祖とする学派が墨家である。 墨子も孔子と同じ魯の国に生まれた。彼も最初は儒家の思想を学んだが満足せず、儒家を去って一派を 開いた。墨家の墨は入れ墨の意味である。古くは入れ墨は刑罰の1つで徒刑者は顔に入れ墨された。 墨家の思想に勤倹節約がある。彼らはぼろをまとい、夜も昼も休まずに働いた。その有様が徒刑者の ような暮らしだと言うことで墨家と呼ばれるようになったと言われている。墨家の思想の中で特に注目 されるのが「兼愛」と「非攻」である。

 墨子は儒家の仁愛は家族愛であり、自分の親や兄弟に向けられる愛であり、不徹底な愛であり、 差別愛であると批判し、家族愛を越える無差別平等の愛を説いた。これが兼愛である。そして「我が 身を愛するように他人を愛し、我が家を愛するように他家を愛し、我が国を愛するように他国を愛して いけば、世界は平和になる」と説いた。

 兼愛思想は、当然のことながら、国家間の戦争を否定する反戦思想に発展していく。人間を 人間として愛していくと言う兼愛を否定し、人間が人間を殺し合うのが戦争である。一人の人間を 殺しても死刑になるのに、戦争では何千人・何万人と殺して賞賛される、戦争は罪悪だと主張する。 但し、墨子は戦争に反対したが、防御の戦争・自衛のための戦争はやむを得ないものとし、そのための 軍備も認めた。つまり自分の方からは絶対に戦争を仕掛けない、それを「非攻」と名付けた。

 当時にあっては異端とも言うべき、特徴ある思想を展開した墨家は孟子の頃にはとても盛んで あったが、支配者にとっては都合の悪い思想であったなどの理由からか、秦・漢以後は全く衰微して しまった。

 道家は老子を祖とする学派である。老子については孔子と同時代の人と考えられているが実在を 疑う説もある。老子は儒家や墨家の説を人為的な虚礼を説くものとして否定した。

 「大道廃れて仁義有り」(本当の大道がすたれると仁とか義とかがとりざたされる)、「六親和せず して孝慈あり」(親子・兄弟・夫婦の六親の間に不和が生じてくると、初めて親孝行とか慈愛とかが とりざたされる)「国家昏乱して忠臣あり」などの有名な言葉でこのことを述べている。

 老子は孔子のいう親孝行だとか墨子のいう兼愛など人間として当たり前のことではないか、 それをわざわざ「仁」とか「孝」とかと騒ぎ立てることはない、それらはすべてわざとらしい、 人為的なものであるとして否定したのである。

 老子は宇宙の根源・宇宙を動かす力を道と呼んだ。道は知性や感覚ではとらえることの出来ない ものであるとして無とも呼んだ。私たち人間はこの道=無の前ではまったく無力である。だから何事に もこざかしい人為・作為をろうせず、偉大な・絶対的な道に逆らわず、素直に従っていきること、 このことを「無為自然」と言う言葉で表し、これこそが人間の理想的な生き方であると考えた。そして 柔和でへりくだり、人と争わない心を持った少数の人々が住む小国家、「小国寡民」こそが理想の社会であると考えた。

 老子の思想を継承発展させ、道家の思想を確立したのが荘子(前4世紀頃)である。荘子は宇宙を 動かす偉大な力である道は比喩で直感的にとらえるしかないと考えた。「北の冥(うみ)の魚、名は 鯤(こん)、鯤の大きさ幾千里かはかり知れぬ。変じて鳥となる。名を鵬(ほう)という。鵬の背中は 幾千里かはかり知れぬ。」は荘子の著書の「荘子」の中の有名な一説で、かっての大横綱「大鵬」の 名はここから取られている。

 さらに荘子は道は絶対・無差別であると説き、自然のままの世界ではいっさいの対立・差別が なく、すべてが同一であると説いた。「荘子がある時、夢の中で胡蝶となり、楽しく飛び回った。 そして夢から覚めたとき、荘子が夢の中で胡蝶になったのか、胡蝶が夢の中で荘子になったのか分から なくなった」という有名な「胡蝶の夢」でこのことを比喩的に説いている。そしていっさいの欲望や 知から自由になり、無心・無我となり、自然と一体になることが理想的な生き方である説いた。

 道家の思想は老子と荘子の名前を取って老荘思想とも呼ばれ、後に神仙思想や様々な民間信仰と 融合して道教となり、民衆の中に深く浸透し、中国人の思想に大きな影響を及ぼしていくことになる。

 法家は他の学派が説く礼とか道徳は、実際に国家を統治していく上では無力であると考え、法を 重んじ信賞必罰に基づき、君主に権力を集中して国家を統治して行くことを説いた学派である。管仲を 祖とし、秦で改革を行った商鞅や韓非(韓非子)(?〜前233)、李斯らが有名である。

 法家思想を大成したと言われるのが韓非である。彼は韓の王族として生まれ、李斯とともに 荀子に学んだ。韓ではしばしば王を諫めたが用いられず、学問に打ち込み「韓非子」(55編)を 著した。後に秦に使いし、李斯に計られて自殺した。彼は乱世にあっては仁義礼智などの徳では支配で きない、法律や刑罰を重視し、それによって悪人を取り締まらないと世の中は治まらないと主張した。 法家思想は秦の始皇帝に採用され、李斯は宰相として秦の統一事業を実施していくこととなる。

 この儒家・墨家・道家・法家のほかにも多くの学派が現れた。

 兵家は用兵や戦術を説いた。孫子・呉子などが有名である。孫子は呉の闔閭・夫差に仕えた。 「彼を知り己を知れば、百戦殆(あや)うからず」とか「其の疾(はや)きこと風の如く、其の徐 (しず)かなること林の如く、侵掠は火の如く、動かざること山の如し」などの言葉はよく知られている。 後者の言葉から取った「風林火山」は武田信玄が旗印に掲げた言葉として有名である。

 前述した合従策を唱えた蘇秦と連衡策を説いた張儀に代表される外交策を講じた人々は総称して 縦横家と呼ばれる。

 農家の許行は、君主も民も平等に農耕に従事し、勤労により天下平等であるべきことを説いたが、 この平等思想は彼の死後消滅してしまった。

 公孫竜に代表される名家は、名(言葉)と実(実体)の関係を明らかにしようとする論理学派で、 原初的な弁論術や論理思想がみられるが、後には言葉の概念にとらわれ、「白馬は馬にあらず」 (白い馬は白い馬であって馬とは違うの意味)などの詭弁に陥った。

 陰陽家は陰陽五行説を説く派であるり、鄒衍(すうえん)は陰陽説と五行説を集大成した代表的な 陰陽家とされる。陰陽説は自然及び社会のあらゆる現象を陰と陽で説明する説であり、五行説は木・火 ・土・金・水の運行によって万物の変化を説明する説である。

 陰陽家は天文・暦学に通じ、天体の運行によって起きる現象と人間生活の関係を結びつけて 説明しようとしたので迷信や禁忌とも結びついた。特に陰陽五行説は、後世まで中国人の生活・思考に 溶け込んで大きな影響を及ぼすことになる。

 この時代には「詩経」や「楚辞」などの文学作品もまとめられた。

 「詩経」は中国最古の詩集で、後にいわゆる「五経」のひとつとされる。地方の民謡や周の祭祀 ・儀式の歌などから成り、主に黄河流域の歌が集められている。

 戦国時代の楚の王族であった屈原(前340〜前278)は王のもとで内政・外交に活躍していたが 讒言によって退けられ、都を追放された。流浪のうちに祖国の滅亡を前に投身溺死したといわれ、 詩人としても有名だが、この屈原らの詩を集めたのが「楚辞」である。

bc475-bc221,計254年 戰國(ZhanGuo, Chan-kuo)

bc475 元王即位
bc473 越王勾踐圍王夫差(-bc473),越滅
bc468 貞定王
bc447 楚滅蔡
bc445 楚滅杞
bc441 哀王
bc441 思王
bc440 考王
bc431 楚滅筥
bc425 威烈王
bc417 甲子年
bc403 [資治通鑑]編年史自本年開始
bc403 韓,魏,趙三家分晉
bc401 安王
bc380 惠施(Hui Shih, bc380-)生
bc375 烈王
bc375 韓滅鄭
bc372 孟子(Mencius, bc372-bc289)生
bc369 莊子(Chuang-tzu, bc369-bc286)生
bc368 顯王
bc361 秦用商鞅(-bc338)
bc357 甲子年
bc328 秦用張儀(-bc309)
bc320 慎
bc316 秦滅蜀
bc314 赧王
bc300 荀子(Hsun-tzu, bc300-bc230)生
bc299 秦用孟嘗君
bc297 甲子年
bc289 屈原(bc343?-bc289?)投羅江
bc279 田單復齊
bc260 長平之役,秦白起(-bc257)破趙
bc255 惠王
bc221 戰國(bc475-bc221)結束,東周結束
27元王
28貞定王
31考王
32威烈王

29
30
34
33

37
36愼
35
春秋戦国と鉄器の普及

 東周の前半にあたる春秋時代(前770年〜前403年)には、西周時代の封建制度が崩れて周王室の勢力が衰え、実力のある諸侯が互いに争う時代となった。春秋時代の「春秋」は、有名な孔子の書物の名前から来ている。「春秋」は孔子の生国である魯の国の前722年から前481年に至る歴史を書いた書物で、その扱っている時代がほぼ春秋時代と同じであるところから、この時代を春秋時代と呼んだ。

 春秋時代の初めには約200余りの国(小さな都市国家も含む)があったといわれるが、次第に有力な国に併合され、40〜50余りの諸侯国にまとめられていく。このうち特に有力な諸侯を覇者と呼ぶ。春秋時代には周王室の権威は衰えたとはいえ、まだ王として尊ばれていたので、有力諸侯は「尊皇攘夷」(周王室を尊び、周辺の異民族(夷)を討ちはらうの意味)を唱えて諸侯の同盟を指導して秩序を維持し、中原(黄河中・下流域)の支配をめぐって争った。

 覇者のうち代表的な五人は「春秋の五覇」と呼ばれる。誰々を五覇とするかについては諸説あるが、一般的には斉の桓公(位前685〜前643)、晋の文公(位前636〜前628)、楚の荘王(位前613〜前591)、呉王闔閭(こうりょ)(位前514〜前496)、越王勾践(位前496〜前465)をいい、呉と越を除いて秦の穆公(位前659〜前621)と宋の襄公(位前651〜前637)とする説もあり、楚の荘王にかえて呉王夫差(位前495〜前473)とする説もある。

 初めて覇者となったのは斉の桓公である。斉は中原から離れた東方の山東省近くにあったが、斉の国力を発展させたのが桓公を補佐した名宰相として有名な管仲である。彼は商工業を保護奨励するなどの富国強兵策をとって斉の国力を充実させた。桓公は中国の西北部に住む異民族の侵入から中原を守り、また南方の楚の北上阻止に努め覇者となった。しかし、桓公の死後、斉は内乱のため衰えていった。

 斉にかわって盟主となったのが山西省を本拠とした晋である。晋は武王(周の初代の王)の子が建てた国で前7世紀前半頃から強力となった。しかし、後継者の相続をめぐる内乱が絶えず起きていた。文公も公子のときこの内乱を避けて腹心の部下とともに19年間も諸国を渡り歩き、秦の援助のもとにやっと帰国し、62歳で即位した。そして前632年に中原に侵入してきた楚軍を城濮の戦いで撃破し、覇者となった。

 春秋時代の中期以後は晋を中心とする北方と楚を中心とする南方の国々の対立・抗争という様相を呈してくる。 中国文明はもちろん黄河流域から興り、殷から周の初め頃までは漢民族の勢力範囲はほぼ黄河流域に限られていた。

 漢民族が長江流域に進出し、長江流域が中国民族の文化的領域に入ってくるのが春秋時代からである。楚は古くから蛮夷の国とされ、楚の人々は中原の人々とは風俗習慣を異にしていたし、後に出てくる越を建てた越人は入れ墨・断髪の風習があり、当時華南からヴェトナムに分布していた南方系民族の一派であった。春秋時代は中国文化圏が長江流域を含む南方に拡大していった時代でもあった。

 前述した蛮夷の国で長江の中流域を本拠とした楚は、前632年に城濮の戦いで敗れたが荘王(位前613〜前591)の時代に再び中原に進出して洛陽に入り、前597年に 晋を破り、荘王は覇者となった。

 楚と晋の対立はその後も続いたが、勝敗はつかず、前545年に和議を結んだ。その頃長江下流域の江蘇省の蘇州を中心にまず呉が興り、次いで浙江省の紹興を中心に越が興った。呉王闔閭(位前514〜前496)は、前506年に覇者となったが、越王勾践との戦いに敗れ、臨終の床に子の夫差を呼んで「 勾践がお前の父を殺したことを忘れるな」と言い残して亡くなった。夫差は毎夜、薪の中に臥し復讐を誓った。そして2年目に越に攻め込んで越軍をうち破った。

 勾践は降伏し、西施(中国四大美人の一人)を夫差にさしだし、属国となることを誓った。このとき夫差の謀臣であった伍子胥(ごししょ)は 勾践を滅ぼすよう進言したが、夫差は聞き入れずその降伏を許した。許された勾践は座右に胆をおき、座ったり、寝る度ににがい胆を嘗めて夫差に対する復讐を誓った。そして夫差が中原に出て晋と覇を争っている隙をついて蘇州を攻めた。 そして知らせを聞いて急遽帰国してきた夫差の軍勢をうち破った。敗れた夫差は自殺した。

 これが有名な「臥薪嘗胆」(復讐の志を抱いて長い間艱難辛苦することの意味)の復讐の物語である。また呉と越の抗争にからんで「呉越同舟」という言葉も生まれ、現在もよく使われている。

 呉を滅ぼした越王勾践は勢いに乗じて中原に進出して春秋時代最後の覇者となった。呉と越の激しい抗争は、次第に実力抗争の時代になったことを示している。時代は戦国時代へと変わっていく。

戦国時代がいつからかについても諸説があるが、一般的には春秋時代の強国であった晋の六卿(六つの大臣の家)であった韓氏、魏氏、趙氏が晋を3分して自立し、周王室から正式に諸侯として認められた前403年から前221年までを戦国時代と呼んでいる。戦国の名称は「戦国策」という書物に書かれている時代と言うことに由来している。

 戦国時代になると、春秋時代までは衰えたとはいえまだ尊ばれていた周王室は全く有名無実化し、周辺の諸侯が強大化し、彼らは公然と王と称して、覇権をめぐって抗争するようになった。各国は自国の領土の拡大を目指して富国強兵に努め、そのために優れた人材を集めようとした。このため実力主義の時代へ、そして下剋上の時代へと移り変わっていった。前述の晋が3人の有力な家臣に国を奪われた出来事はまさに下剋上の典型である。

 こうした状況のなかで、春秋時代には200もあった国が、次第に併合され、戦国時代には7つの有力な国家に統合されていった。7つの有力な諸侯国を「戦国の七雄」と呼ぶ。東の方から燕、斉、韓、魏、趙、楚、秦の7カ国である。

 七雄を中心とする激しい抗争の中で、前4世紀に入ると、まず魏・韓・斉などが強盛となり、さらに前4世紀中頃からは秦が勃興してきた。

 秦は、はじめ甘粛省の東部にあり、前8世紀に周の諸侯となり、その後渭水(黄河の支流)に沿って東方に進出していくが文化も遅れていた後進国であった。その後進国の秦が、前4世紀の孝公(位前361〜前338)の時代に、逃亡してきた衛の国の公子商鞅(しょうおう)を用いて改革(変法)を行い富国強兵に成功し、一躍強国にのし上がった。

 商鞅は国の経済のもとを農業におき、農地の開拓を押し進め、人民を5家・10家の単位に分け、治安維持に共同責任をとらせた(什伍の制)。郡県制を採用し、従来の貴族による土地所有・支配を廃止して国の土地とし、中央政府の官吏を派遣して統治させることとし、中央集権化を進めた。またこれらの政策を実施するために厳しい刑法を定めた。

 孝公の死後、商鞅は反対派に反乱を企んでいると訴えられ追われる身となった。国境の関所の宿屋に泊まろうとしたが、「商君(商鞅のこと)の法によると、旅券のない者を泊めると、私も同罪になりますので」とことわられた。商鞅は「ああ、新法の弊害は、ついにこの身に及んだか」とため息をついて立ち去り、後に捕らえられて車裂きの刑(左右の手足を2台の車に結びつけ、その車を左右に走らせて四肢を引き裂く極刑)に処せられた。

 秦の強大化・東方への進出は、中原の諸国にとっては脅威であった。中原の六国が互いに争っていたのでは、秦に対抗できないことは明らかだった。この時、六国が連合して秦にあたろうという政策、合従(がっしょう、縦に連合する意味)策をもって諸侯を説いたのが蘇秦(?〜前317)である。彼は洛陽の人で若いとき雄弁術を学んだが、貧乏して郷里に帰り、親戚から嘲笑された。発憤した彼は「錐股(すいこ)」(眠気を覚ますために、錐をもって股を刺して一心に勉強すること)して勉強を続けた。

 そして六国の諸侯に 「六国が連合すれば、国土の面積は秦の5倍になり、軍隊の数は10倍になる。連合して秦を攻めれば必ず勝てる。それなのに秦に臣として仕えているのは何事ですか」と説いて、ついに前333年に六国の連合を成立させ、六国の宰相となったが、後に張儀の連衡策が成立すると、斉で刺殺された。

 蘇秦の合従策を破り、連衡(横に連なるの意味)策を成立させたのが張儀(?〜前309)である。彼は魏の人で若いとき蘇秦と同じ先生に学んだ。諸侯に遊説して回ったが、楚の大臣の家でご馳走になったとき、宝玉がなくなった。粗末ななりをしていた張儀が疑われさんざん鞭打たれた。家に帰ると妻から「あなたが本ばかり読んで勉強したり、遊説しなければ、こんな辱めを受けることがなかったのに」と嫌みをいわれたが、彼は「俺の舌を見てくれ、まだあるか」と尋ね、妻が「まだある」と返事すると、 「舌さえあれば十分だ」と答え、また遊説に飛び出した。

 張儀は「六国が同盟しても秦には勝てないでしょう。それより秦と同盟を結び、その援助を受けるほうがよろしい」と蘇秦の合従策を壊していった(前311)。そして秦の大臣となったが、後に連衡も破れて失脚し、魏に逃れて死んだ。

 戦国時代になると戦闘の様子も大きく変わってきた。従来は貴族を主とする戦車戦が中心であったが、戦国時代には歩兵の占める役割が増大した。武器も鉄製の武器が広まり、大きな弩(いしゆみ、ねじのような仕掛けで弓を引き絞って発射するので、貫通力が高まった)も発明された。さらに趙の武霊王が北方の遊牧民と戦う中で、北方遊牧民族の騎馬戦術を取り入れたが、これにより戦争の様相が一変してくる。そして各国が動員する兵力も30万人を越えてくる。春秋時代では大国の兵力が15万人位で、 普通は2,3万人といわれている。当然死傷者の数も飛躍的に増加していった。

 前259年、秦は趙を攻めて、40万人の趙兵を穴埋めにした。秦はますます強盛となり、前256年に周を滅ぼした。その後、秦が韓・趙・魏・楚・燕・斉の順に六国を滅ぼし、前221年に初めて中国全土を統一したのは始皇帝の時のことであった。

 春秋時代の末期から戦国時代にかけては中国の社会が大きく変化した時期であった。中国史の上で、社会が大きく変化する時期が3回ある。1回目は春秋時代の末期から戦国時代にかけてであり、2回目は唐末から五代十国の時代(8世紀後半から10世紀前半)にかけてである。そして3回目は20世紀の初め清朝の滅亡から中華民国の成立の時期である。

 春秋時代の末期から戦国時代にかけて中国社会が大きく変化した最大の理由は、中国で鉄器が使用されるようになったことである。中国では錫の産出が少なく、銅と錫の合金である青銅器は貴重品で、主に祭器・武器に使われ、農具としては使用されなかった。従って春秋時代になっても農具は石器・木器であった。ところが前6世紀から前5世紀頃、鉄の製法が西方から伝わると、鉄の生産は急激に増大していく。しかし、鉄の生産には大量の木炭が必要なため、多くの木が切られたために華北一帯の緑が失われていったといわれている。 ともあれ鉄の生産が行われるようになり、しかも初期の鋳鉄はもろくて武器に適さなかったため農具に使われた。

 戦国時代には鉄製農具が一般に普及するようになり、また牛に犂(すき)をひかせる牛耕農法が発明されたことと相まって、農業生産力が急速に増大した。鉄製農具の使用により、1つは従来よりはるかに土地を深く耕すことが可能となり、深耕によって作物の出来がよくなり、単位面積あたりの収穫量が増えたこと、2つ目は大規模な荒れ地の開墾や治水・灌漑用水路を引くことが容易になり、耕地が飛躍的に増大した、これによって農業生産力がおおいに高まったのである。多くの農作物が取れるようになると、余剰が出てくる、 この余剰農産物は当然自分の必要な物と交換されるようになり、交換経済が始まってくる。最初は小規模で物々交換であったろうが、やがて規模が大きくなり、商業が盛んとなり、交換の手段として貨幣が使われるようになってくる。

 貨幣経済の発展はますます商業を、そして鍬・鎌などの農具や陶器を生産して販売して生計を立てる手工業者も現れてくる。さらには商人や手工業者の住む都市が発展をしてくる。このように中国社会は大きく変化してきた。

 貨幣としては古くは貝貨(東南アジアで取れる子安貝など)が使われてきた。 そのため経済に関係のある漢字には貝扁の文字が多い。貨・債・財・賃・買・貯・費・預など、まだまだ沢山あるので思い出してほしい。ところが貨幣経済の発展とともに、大量の貨幣が必要となり、新しく青銅貨幣が登場してくる。特に有名なのが刀の形をした刀貨と農具の犂を形取った布貨である。刀貨は主として燕・斉などで使用され、布貨は韓・魏・趙などで使われた。その他に楚で使われた蟻鼻銭(ぎびせん)や秦などで造られた中央に丸い孔(のちに四角の孔になる)のあいた環銭などがある。

 商工業や貨幣経済の発展は王侯とならぶほどの富を持った富豪を生み出した。従来の農業を中心とする社会では土地が最大の財産であったが、商工業の発達は貨幣という新しい財産形態を生み出した。また各地に大都市が出現してくる。春秋時代の大都市は人口5万人程度であったが、戦国時代になると商工業の発達により農村の人口が都市に集中し、斉の都の臨しは人口50万人以上の世界的な大都市であった。趙の都の邯鄲(かんたん)も大都市として有名である。

 こうした社会の変化の中で、周代の封建制度を初めとする古い制度は崩壊し、それまで公有であった土地は私有となり、後に大土地所有者である豪族を生み出すことになる。

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