つまり陰陽論がベースになったいるため、いま目の前に起こっている現象をどの角度から考えるか、と言うことから分析や考察がスタ−トします。陰陽論にはいくつかの法則性があるのですが、そのときの対峙した現象の状態に合わせて、最も論説がスムーズに通るようにその法則性を組み合わせて考えます。ところがこの場合、人の主観が入りやすいと言う欠点があります。そのため声高で権威のある人の意見に流される可能性が出てきます。しかし周囲の環境にその論説の正当性をジャジメント出来る能力があれば、単なる主観の介在を回避できるわけです。
古代中国では知恵のある人を尊重したという経緯は、こんなところからも推察できます。ところが、単に知っているとか理屈を並べるのがうまいとかでは、権威者の主観にまみれた論説を打破するのに弱くて、そのときの全体気分を推察する能力が必要となってきます。つまり‘社会や世相のその時を知る人’や‘民衆の感情の底辺を知る人’なわけですが、そこに神仙思想の必要性があったのだと思います。

ここに東洋の曖昧さがあるのですが、こと医学だけ取ってみれば、人が生きるということも踏まえて全体把握は、漢方の方がうまいようです。

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