心構えといえば「医は仁術」という言葉が浮かぶ。
 これは内から外を見たときの言葉である。もしくは外のものを内に入れた言葉であるが、禅の精神に於いては自らの皮膚より内側に限っていて、いまここではそれより外の話はしていない。つまり対人対社会といった話ではなく治療家個人の内部処理についてである。
 私たちは術者である。
 自分自身の存在は、自分自身の技量に依存している。その技量は少しの身体能力と、そのぶん唐の時代頃に抽出された禅に近いような精神性が多い。というような構造的特徴を持つ。その禅に近いような精神は五感を入力感知器という道具に変える。さらに入力情報を無私のまま処理させ六感付近にまで立ち上げていく。このときの分析結果をはじめて漢方理論といういわば通常精神の思考に乗せ‘証(しょう・あかし)’を決定する。
 証とは治療内容を多分に含んだ手段である。
 言葉だけ取れば使用経絡を特定しただけになる。
 肝虚証、脾虚証、肺虚証、腎虚証とあって、それぞれに足厥陰肝経、足太陰脾経、手太陰肺経、足少陰腎経を使う。五臓のうちの‘心’が無い理由は理論になってしまうためここでは避ける。経絡治療は大きくこの4つの治療法しか持たない。
 そしてかく経絡を使う意義に、症状緩和の目的はない。
 いまその身体がどうなっているのか、に最終的に対応する。そのどうなっているのかを知る目的に陰陽論を使い、手段として五行という分析方法を採る。それは、禅に近い精神が五感から入力感知した情報を六感付近にまで立ち上げた以降、いわば通常精神の思考が行うことである。
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