ところでこれは漢方理論になってしまうのだが「骨の髄に染みる」という言葉がある。骨の髄には何があるのかというと、腎臓から供給された‘精(せい)’がある。精は生体維持の中核である。精が発した生命反応を‘神(しん)’という。神は生命活動の中枢である。精神という言葉はここから生まれた。
 一般認識の‘神’と「生命活動の中枢」という説明とではずいぶん違うものととれる。‘神’という言葉は、人が作業として発揮した能力の最も高度な内容を言っていたのではないかと思っている。
 どうもなかなか医学へと話の筋が戻れないでいるが、漢方における‘証’という非常に合理的な治療形態の話をしたいのがこうなっている。そこで合理というものが、人の習性かそれよりも生理ではないかという私的解釈に基づいた説明をすすめる。
 5000年前に起きた四大文明は全て農耕から建ち上がっている。特に中国が農耕から自然観察へとむいたその内容の独自性は、四季の変化と内陸であったことの影響が特徴である。内陸であったことから食料は農作物が中心であった。しかし四季の恩恵から多彩な作物を授かったため、決して貧相な食生活ではなかったようである。ただ必ずしも生産供給は安定しているとはいえず、洪水や干ばつの打撃は受けていた。そして常に生産量の増大が命題であった。この安定供給と増量生産に人知が果たした役割は、易と農耕技術である。たった一つの農産物の種をまく時期を誤れば、その翌年の食糧確保はままならない。なぜなら連係して種をまく時期がずれていってしまうからである。なんの天災がなかったとしても生産量が落ち込めば、多くの人命を脅かす。そこでまずは農耕技術全般に、合理という精神が介在してくるのである。つまり少ない手間で多くの好結果を生むことは良いことだという事である。そのアイデアとノウハウを持った人間に‘神’を見たようだ。収穫予想を立てるために発達した易と干支はすでに殷の時代にはあったのだが、伝説では伏羲や神農という神が作ったとされている。
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