この合理の介在はべつに農耕に限ったことではない。
例えば腕っぷしが強いというのもそうである。農耕という生活基盤は自然の猛威にさらされているため飢饉などは頻繁にあったらしく、食料がなければ暴動が起き盗賊も現れる。腕っぷしが強ければ野盗となって集落を襲うことで食糧確保にもつながるし、逆に各集落では武芸の達つものを安全策として重宝し羨望した。この事が卓越した能力を崇拝するという精神を育んでいく。これは後に王を置くという社会機構へと発展する土台にもなった。この崇拝は直接的にはその優れた能力にむくが、崇拝理由は合理主義である。こういった少ないエネルギーで大きな成果を望むのは、肉体の持つ生理機構から発していると言える。
 だが人の持つ能力には限りがある。
いくら何人かの勇者を剣客として持とうとも、多勢の野盗にかなうはずもなく、いくら的確な農耕技術があったとしても、突発的な災害には対処するすべがない。まして人の心は揺らぎくじけるのである。そこで大自然の仕組みの中に尊大な意志を見たてて、崇拝を信仰へと移行していった。つまり人類は、合理主義という精神から信仰心を発見して、神という崇拝対象を発明したと言える。端的に言えば人類最初の信仰は合理主義なのである。あとは合理をはたす努力に疲れた心が神秘を生んだ。その空想も捨てきれない合理への望みから出たのである。

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