古典での咳の臨床 平成14年11月17日 加藤秀郎

人体が表す症状の代表的なものとして「咳」「下痢」「発熱」「痛み」「嘔吐」等があります。
これらの症状は、人体が外的侵害の対処として防衛的に始まります。
そのため古典にはこれらの症状について、様々な形で記載があります。
臨床というと、現場の対応についての話が多いですが、古典記載について各論的な話をしてみたいと思います。
たとえば「咳」の場合、素問の咳論篇第三十八のように、わざわざ一つの篇を割いて書かれています。
その内容は、
第一章
黄帝問曰: 肺之令人咳, 何也.
黄帝が問いて曰く、肺の令(令+A(人)+B(動詞)「AをしてBせしむ」)人咳(人をして咳せしむ)は何か。
岐伯對曰: 五藏六府, 皆令人咳, 非獨肺也.
岐伯が對(対)して曰く、五藏六府は皆、人をして咳せしみ肺の獨(ひとり;独)に非(あら)ず。
黄帝曰: 願聞其状.
黄帝が曰く、願くは其の状を聞きたい。
岐伯曰: 皮毛者, 肺之合也, 皮毛先受邪氣, 邪氣以從其合也.
岐伯が曰く皮毛は肺の合なりて、皮毛が先ず邪氣を受け邪氣を以っては其の合に從うなり。
咳は肺が病むことかという問いに対して、肺だけに非ずとしながら「先ず」つまり、その肺が病むプロセスを初期防衛の観点から話が始まります。
「皮毛の合である肺が先ず邪氣を受け」で初期の防衛ラインの損傷と、次行の「肺が寒すは則ち外内の邪が合し」の「外」の説明を同時にしています。ちなみに「合」とは「道理にあっている」の意。
皮毛とは皮膚と体毛のことですが、この場合「邪氣を受け」とあることから、皮膚や体毛という組織の損傷ではなく機能の損傷を言っています。つまり例えば寒さを受けたときに、体表では毛穴を閉じて冷気の進入と体温の放出をさけ、さらには立毛筋により体毛を逆立たせて空気の層を作ります。
この状態が一次防衛となります。
「邪氣を受け」とは、この一次防衛ラインの働きが、受けた刺激(例えば寒さ)に対して不十分であった状態を言います。
なぜ不十分だったかというと、
一つは、一次防衛ラインが対応できる以上の刺激(例えば寒さ)であったと言うこと。もう一つは、受けた刺激(例えば寒さ)に対応できるほどの防衛能力がなかったと言うこと。さらにこの両方であったと言うこと。
この時に「邪氣を受け」となり「其の合に從う」で「肺が病む」に近づくわけです。
ところがこの一次防衛ラインが損傷するたびに必ず咳が出るわけではなく、もう一つ、生体側が咳という反応を起こす条件が必要です。
その説明が次行です。
其寒飲食入胃, 從肺脈上至於肺, 則肺寒, 肺寒則外内合邪, 因而客之, 則為肺咳.
其の寒を飲食し胃に入れば從いて肺脈を上り肺に於いて至り則ち肺を寒す。肺が寒すは則ち外内の邪が合し、因って而(しかるのち)客し則ち肺咳を為す。
「寒を飲食し」たことによってその生体が「肺を寒す」の状態になっていて、そのうえで「皮毛が邪氣を受け」たときに「肺咳を為す」のです。ところで「寒を飲食し」ですが、これは冷たいものを食べたという意味ではありません。この時代、おそらくは病理的データとして理論に上るほど、冷たい食べ物が普及してはいませんでした。食べ物の影響で体が寒の状態になったと言う意味です。
すると当然ですが「肺が寒すは則ち外内の邪が合し」とは、寒さに当たったうえで冷たいものを食べたからと言う意味ではありません。
「肺が寒す」ような外的刺激にさらされた上で内的要因を持っていた、という意味です。さらには内的要因の具体化のために「飲食し」としただけで、疲れや元々の体質でも内的要因でよいとは思うのですが、疲れや寒しやすい体質は飲食の影響でより寒すことを念頭に置いての、文章の簡略化ではないかと思われます。
五藏各以其時受病, 非其時, 各傳以與之.
五藏は各に以って其の時に病を受け、其の時に非(あら)ずとも各に傳え以って之(これ)を与える。
この行は「寒す」ための「外内の邪」の状態を概略的に言って次行へとつなげます。
人與天地相參, 故五藏各以治時, 感於寒, 則受病, 微則為咳, 甚者為泄為痛.
人が天地に相(あい)參じてあたえられ、故に五藏は各の治める時を以って寒に於いて感じ則(すぐさま)病を受け、微に則っとれば咳と為し、甚しければ泄や痛と為す。
「人が天地に相(あい)參じて」とは、前行の「其の時に病を受け」からの「外内の邪」の「外」の説明です。これ以降この篇には「内」の邪についての直接の記載はありません。「外の邪」とは自然環境からの影響で、と言う意味です。そして「五藏六府は皆、人をして咳せしみ肺の獨に非ず」の説明として「五藏は各の治める時を以って寒に於いて感じ則(すぐさま)病を受け」としています。
「微に則っとれば咳と為し、甚しければ泄や痛と為す」は「外の邪」の影響から「内の邪」への以降です。
次行からは「五藏は各の治める時を以って寒に於いて感じ」の説明です。
乘秋則肺先受邪,
秋に乘りては則ち先ず肺に邪を受け、
乘春則肝先受之,
春に乘りては則ち先ず肝に邪を受け、
乘夏則心先受之,
夏に乘りては則ち先ず心に邪を受け、
乘至陰則脾先受之,
至陰(土用?)にては則ち先ず脾に邪を受け、
乘冬則腎先受之.
冬に乘りては則ち先ず腎に邪を受ける。
「秋は肺に、春は肝に、夏は心に」とそれぞれの時期に対応する五臓が「外の邪」で「寒」したとき、つまり暑くても寒くても「寒す」と「咳」の発症要因となるわけです。
ここで‘内の寒’と‘外の寒’の違いについて、確認しておきたいと思います。
この篇のこの部分では、すでに「内の邪」の直接記載を省略した形で取っています。理由は五臓とその対応時期という考え方の導入で、外部観察しやすい「外の邪」に季節という考えで重点を置きつつ五臓と連結することで、内外同時に邪の様相を語ろうとしているためです。
ですから読み込んでいくためには、内外を分離する必要があります。その分離するためのキーワードが「寒」です。
‘外の寒’が体に‘邪’として影響するのは、寒さを不快に感じたためです。寒さを不快に感じているとき生体はどうしているかというと、体温を生産し毛穴を閉じてその寒さに対抗します。この状態を‘熱’といい現代用語では機能抗進とも言われ、体は‘急’という表現を脈や皮膚に作ります。生体は‘外の寒’に‘邪’すると‘熱’になります。
‘内の寒’はというと「外の邪」を受ける以前から、すでに体が‘寒’つまり機能低下をしている状態です。しかし体の表現が‘緩’かというと、そういうときもあり、そうでないときもあります。
ここで表層的な疑問として、‘寒’の体が‘外の寒’によって‘熱’になったら治るのではないか?となります。
ところが細かく分けると「内の邪」で‘寒’したのは生体機能であり、「外の邪」で‘熱’したのは生体反応です。
つまり生体は、機能低下した状態のまま‘外の寒’によって、対抗しなければならない‘熱’の反応を無理矢理したわけです。
疲れてぐったりしているときに、突発的な異変で慌ててしまったのと同じです。
私的には‘生体機能’を‘血’、‘生体反応’を‘気’としています。
さて‘機能低下した状態で外の寒の対抗による熱の反応’では「肺が寒すは則ち外内の邪が合し」の説明にはまだ遠く、外内の邪が合した結果、肺が‘寒’していなければなりません。
‘機能低下した状態で外の寒の対抗による熱の反応’でもおそらく咳は出るわけですが、医療を必要とする程の咳になるのは、無理に‘熱’の反応をした以降があるためです。生体機能が低下しているときというのは、機能を発動させるためのエネルギーがないか(私的には血虚)、機能自体がうまく動作していないか(私的には血)のどちらかです。どちらであるにしろ、低下した状態での‘熱’の反応は持続できず、無理をしたためさらなる機能低下を招きます。それが「外内の邪が合し」であり二次防衛のラインの損傷です。このプロセスを念頭に置いて、季節と五臓をつなげます。
ところでこの季節と五臓の部分では、邪気の名前を挙げていません。単に「先ず〜に邪を受け」としています。ですからその季節に応じた自然環境において、その季節に対応した五臓が邪を受けそして「先ず」であることから、未だ‘寒’する手前の各五臓の一次防衛ラインの損傷を言っています。つまり飲食によって‘寒’していた体が無理に‘熱’の反応をしているとき、もしくは‘寒’に移行する手前の段階です。
ようやこの部分の主題である季節と五臓の説明ができそうですが、この文では原典との符合を考えて便宜上‘五臓’としています。しかし実際には五行機能とした方が解りは良いかと思います。そしてこの咳論篇は素問の中で特に新しい部類に入ります。黄帝内径の特に素問は、各篇の書かれた時期に500年くらいひらきがあると言われています。素問の編纂段階で、時に採用条件として重要視された部分が‘天人感応’の思想と‘五行論’による分析と整理でした。
古い記載でも特に各論めいた篇は、わざわざこの二つの条件に合わせて解釈を加えてあるようです。ところが新しいと言われている篇は、素問編纂のために書かれたようです。素問に載るべく投稿した人たちは、採用基準をクリアするよう条件に則って論を組み立てています。そのためこの篇でも「人が天地に相(あい)參じて」や「五藏は各の治める時を以って」等の書き方をしたとも考えられます。
また「皮毛は肺の合なりて」とありますが、陰陽応象大論に則って五主と五臓がこの篇では一致していると考えます。
それらをふまえて
「秋に乗りて先ず肺に」とは、寒くなっていく季節では生体の入力系統に損傷が受けやすく、その主たるものとして皮毛の損傷が顕著である。
「春に乘りて先ず肝に」とは、暖かくなっていく季節では生体の出力系統に損傷が受けやすく、その主たるものとして筋の損傷が顕著である。
「夏に乘りて先ず心に」とは、暑い季節では生体の体表表現の損傷が受けやすく、その主たるものとして血脈の損傷が顕著である。
「至陰(土用?)にて先ず脾に」とは、季節の変わり目では生体の変容機能に損傷が受けやすく、その主たるものとして肉の損傷が顕著である。
「冬に乘りて先ず腎に」とは、寒い季節では生体の基本体質に損傷が受けやすく、その主たるものとして骨髄の損傷が顕著である。
乘とは機会につけこむの意。
第二章
第一節
黄帝曰: 何以異之.
黄帝が曰く、何を以って異か。
岐伯曰:
岐伯が曰く、
肺咳之状, 咳而喘息有音, 甚則唾血.
肺の咳の状は咳にして喘息にて有音し、甚しきに則すれば唾血す。
心咳之状, 咳則心痛. 喉中介介如梗状, 甚則咽腫喉痺.
心の咳の状は咳して則ち心痛す。喉中に梗状(きょうじょう;かたいとげ)の如く介(かい;はさまる)し、甚しきに則すれば咽が腫れ喉が痺す。
肝咳之状,咳則兩脅下痛, 甚則不可以轉, 轉則兩(月+去)下滿.
肝の咳の状は咳して則ち両脅(脇腹)の下が痛み、甚しきに則すれば轉(てん;ねがえり)するは不可にて轉は則ち両(これも脇腹)のが下が滿つ。
脾咳之状,咳則右脅下痛, 陰陰引肩背, 甚則不可以動, 動則咳劇.
脾の咳の状は咳して則ち右脅(わきばら)の下が痛み、陰陰(重く奥へ)と肩背を引く。甚しきに則すれば動くは不可にて動けば則ち咳は劇す。
腎咳之状, 咳則腰背相引而痛, 甚則咳涎.
腎の咳の状は咳して則ち腰と背が相引し而(しかも)痛む。甚しきに則すれば咳して涎(涎を垂らす)
第二節
黄帝曰: 六府之奈何, 安所受病.
黄帝が曰く、六府のは何か。安(なぜ)その所が病を受けるのか。
岐伯曰: 五藏之久咳, 乃移於六府,
岐伯が曰く、五藏の久(長引いた)咳は六府に移る。
脾咳不已, 則胃受之, 胃咳之状,咳而嘔, 嘔甚則長蟲出.
脾咳が不已(やまざれば)則ち胃が受け、胃咳の状は咳にして嘔し、嘔すこと甚しければ則ち長蟲を出す。
肝咳不已, 則膽受之, 膽咳之状,咳嘔膽汁,
肝咳が不已(やまざれば)則ち膽が受け、膽咳の状は咳して膽汁を嘔す。
肺咳不已, 則大腸受之, 大腸咳状,咳而遺失.
肺咳が不已(やまざれば)則ち大腸が受け、大腸咳の状は咳にして遺失(便を漏らす)
心咳不已, 則小腸受之, 小腸咳状,咳而失氣, 氣與咳倶失.
心咳が不已(やまざれば)則ち小腸が受け、小腸咳の状は咳にして失氣(おならを出す)。 氣と與(共に)咳を倶(同時に)失す
腎咳不已, 則膀胱受之, 膀胱咳状,咳而遺溺,
腎咳が不已(やまざれば)則ち膀胱が受け、膀胱咳の状は咳にして遺溺(尿を漏らす)
久咳不已, 則三焦受之, 三焦咳状,咳而腹滿, 不欲食飲, 此皆聚於胃, 關於肺, 使人多涕唾而面浮腫氣逆也.
久咳が不已(やまざれば)則ち三焦が受け、三焦咳の状は咳にして腹が滿ちる。食飲を欲せず此れ皆、胃に於いて聚(しゅう;集まる)し肺に於いて關(かん;かんぬき、とざす)す。使(使+(人)+動詞の形ならば(人)をして…せしむ)人多涕(涙と鼻水とあるがこの場合は鼻水)(人をして多く鼻水とヨダレを垂らし)(また)(顔)が浮腫し氣逆なり。
第三節
黄帝曰: 治之奈何.
黄帝が曰く、治は何か。
岐伯曰: 治藏者, 治其兪, 治府者, 治其合. 浮腫者, 治其經.
岐伯が曰く、藏の治は其の兪を治し、府の治は其の合を治し、浮腫は其の經を治す。
黄帝曰: 善.
黄帝曰く善(よし)

「肺咳之状, 咳而喘息有音」で、
‘咳’‘喘’と言う言葉があります。違いは、
咳はガイでせきをする。そのほか、幼児がのどを詰まらせてわらう。
喘でゼンであえぐ、はあはあと短い息づかいをする。       

喘については、素問、經脈別論篇第二十一の第一章

黄帝問曰: 人之居處動靜勇怯, 脈亦為之變乎.
黄帝問いて曰く、人の居処や動静や勇怯、脈の変を為すのか。
岐伯對曰: 凡人之驚恐恚勞動靜, 皆為變也.
岐伯對いて曰く、凡(おおよそ)の人は驚恐怒や労や動静、 皆変を為すなり。
是以夜行則喘出於腎,
是れ以て夜行の喘は腎に於いて出るに則す。
淫氣病肺. 有所墮恐, 喘出於肝,
淫気が肺を病し、所に有りて墮恐せしは、喘肝に於いて出る。
淫氣害脾. 有所驚恐, 喘出於肺,
淫気が脾を害し、所に有りて驚恐せしは、喘肺に於いて出る。
淫氣傷心. 度水跌仆, 喘出於腎與骨,
淫気が心を傷し、水を度(わたる)して跌(足をすべらせる)して仆(たおれる)せば、喘は腎与えた骨に於いて出る。
當是之時, 勇者氣行則已, 怯者則著而為病也.
是れの時に当り、勇なる者は気が行きて已むに則す。怯なる者は病為してまた著(着)すに則すなり。