06-9/17 古典の読み方と世界観 加藤秀郎

中国の古典

東洋医学の基盤にはおよそ3000年前から始まった、今で言う中国の古典があります。それが元になって中国哲学が生まれ、大きく儒学、老荘の二つのタイプに分かれます。
「管子」を筆頭に‘諸子百家’と言われる様々な考え方が出てきて2500年前位には、儒学になった「孔子」や老荘になった「老子」「荘子」が現れ、同じ頃にプラトンや釈迦がいます。
儒学は人と社会の在り方についてで、老荘は人の自然との在り方について。東洋医学は多くが老荘の影響を受けていますが、人の在り方については社会という要素も大切なため、儒学の影響もあります。

では、我々が読む古典はというと、

「黄帝内径」と「難経」で、黄帝内径は「素問」と「霊枢」で構成され、「素問」「霊枢」「難経」はそれぞれ81編から成ります。
「素問」は自然と人体の在り方から書かれた基礎医学的な内容。
「霊枢」は人体や経絡が中心に書かれた治療に則した内容。
「難経」は黄帝内径をさらに発展させた、具体的な脈や五臓の虚実や治療法が書かれた内容。
いま現在の‘東洋医学’はこれらの書物の内容が混ざった形で出来上がっています。それぞれの書物の目指す所が違うため‘治療のため’という目的だけで集約しますと矛盾や食違いが生じ、それが我々が学ぶ東洋医学のちぐはぐさになってしまっています。
難経に書かれた‘六十九難’‘七十五難’の解明が、この医学の目標と考えています。そのためにはこの両難を難経の内容から検討し、その難経からの検討内容を霊枢で検討し、さらにその霊枢からの検討内容を素問で検討するという道筋が、この医学の古典研究のセオリーかと思います。
例えば脈診の方法は、
素問では‘寸口’‘人迎-寸口’‘三部九候’があり、
霊枢では‘人迎-寸口’のみ、
難経では全ての脈法を‘寸口’のみで、まかなえる所まで発展させています。
特に‘三部九候’という脈法は素問という書物を編纂するにあたって、人体と自然との関わりから死生を判別するために考えられたこの書物特有なものです。しかし難経では寸口の部だけでこの‘三部九候’ができるよう発展し、それが現在の六部定位脈診の元になっています。
西暦 / 何年前?
中国の歴史
日本の歴史
世界の歴史
備考

770年/2770年前
幽王,周を洛邑(ラクユウ)(東周)
春秋時代
(諸候乱立)
神武天皇,橿原宮で即位(BC660:伝説) ギリシアの都市国家
襄公が秦を建てる。
『史記』の扁鵲
『管子』もこの頃

481年/2481年前
孔子『春秋』
BC479死去70才
(諸子百家)
BC492ペルシア戦争
(勝国ギリシア)
BC425プラトン生まれる
孔子はBC551年に魯で生まれる
『道徳経(老子)』
BC497から13年間の遊説

403年/2403年前
周王朝の崩壊
(戦国時代突入)
BC399ソクラテス死ぬ 三晋(魏・趙・韓)分裂
『論語(孔子)』の成立

369年/2369年前
荘子(宋の領地蒙の漆園役人で名は周)生まれる 定説の弥生時代
(稲作文化)始まる。
BC336アレキサンダー大王即位 BC390墨子死去
BC386『春秋左氏伝(左伝)』五材という言葉がある。

246年/2246年前
秦31代・政,即位 朝鮮半島経由で青銅器や鉄器が伝わる BC225年?鄒衍(すうえん)の終始五徳論

221年/2221年前
秦の中国統一
31代・政,始皇帝を名乗る
BC218ローマ×カルタゴの第2次ポエニ戦争 伏生の『尚書大傅』

206年/2206年前
秦が滅びる

202年/2202年前
劉邦(高祖)長安に漢(前漢)王朝開 BC202ポエニ戦争でローマ勝利

180年/2180年前
文帝が皇帝に 『史記』の倉公

157年/2157年前
景帝が皇帝に BC175-145馬王堆

141年/2141年前
武帝が皇帝に 鍼法の発明?
『韓詩外伝』五神の原形

136年/2136年前
武帝が儒教を国の学問とする ローマ地中海へ進出 BC120『淮南子』
医療機具出土

104年/2104年前
太初暦施行
(新年は1月から:それまでは十月歳首)
『漢書』藝文志に出てくる黄帝内経初期の記述が始まる?

87年/2087年前
武帝が死ぬ 司馬遷の『史記』

33年/2033年前
成帝が皇帝に BC30ローマのエジプト征服 BC31『本草』
「神農本草經」の原形?

7年/2007年前
哀帝が皇帝に BC4キリスト誕生 (りゅうきん)が『七略』

紀元
8年/1992年前

王莽(もう)新の建国



現存する黄帝内経の記述が始まる?

18年/1982年前
赤眉の乱

23年/1977年前
新が滅びる キリスト教の始まり?

25年/1975年前
光武帝,洛陽に漢(後漢)復活

37年/1963年前
後漢の統一 57年倭国の使者,光武帝から金印を受ける ローマ帝政時代

82年/1918年前
班固の『漢書』

88年/1912年前
和帝が皇帝に ローマ五賢帝時代 現存する黄帝内経の記述が終わる?

105年/1895年前
蔡倫が紙を発明 107年倭国,漢に160人の奴隷を献上 ローマはトラヤヌス帝時代 『難経』

184年/1816年前
黄巾の乱 『後漢書』倭国大乱 『周礼』

220年/1780年前
後漢が終り 三国時代
曹丕が魏王を受け文帝となり魏王朝を建てる
邪馬台国建国? 200年頃?
『傷寒雑病論』

素問・陰陽應象大論篇第五・第四章・第四節

故善治者治皮毛, 其次治肌膚, 其次治筋脈, 其次治六府, 其次治五藏. 治五藏者, 半死半生也. 故天之邪氣, 感則害人五藏; 水穀之寒熱, 感則害於六府.
故に善(よろしく)治するは皮毛を治し、其の次に肌膚(きふ)を治し、其の次に筋脈を治し、其の次に六府を治し、其の次に五藏を治す。五藏を治するは、半死半生なり。故に天の邪氣、感じれば則ち人の五藏を害す。水穀の寒熱、感ずれば則ち六腑に於いて害す。
善とは
「じょうずな。巧みな」という意味で、本来は‘譱’と言う字形です。これは裁判を現した文字ですが、公的に誰もが良いという意味になります。
つまり、公的に誰もがよいとする治療とは、皮毛に対して治療行為を施し、その次に肌膚に対して治療行為を施し、その次に筋脈に対して治療行為を施し、その次に六腑に対して治療行為を施し、その次に五臓に対して治療行為を施す。五臓に治療行為を施すときはすでに死ぬか生きるかである。

この下りは‘予防医学’という観点も含まれています。善(よろしく)治する〜公的に良いという治療〜とは、治療を受ける側と施す側の両方の側面を、同時に語っています。

治療を受ける側の場合で例えば、

皮毛を治し
寒さを感じたならまず治療を受け
其の次に
肌膚を治し
悪寒を感じたなら治療を受け
其の次に
筋脈(経絡含む)を治し
だるさや節々の痛さがあったなら治療を受け
‘受け’を‘施し’に
代えると、
治療を施す側に
なります。
五藏を治するは、半死半生なり
五臓を治療するという行為は、すでに死にかけている人への治療であると提言しています。
つまりこの2000年前の時代であっても、何が何でも根元治療を施せば良いんだという発想はあって、その戒めのようだと思います。
其の次に
六府を治し
嘔吐下痢、多汗頻尿、もしくは喘息や発熱などの治療を受け
其の次に
五藏を治す
精神や身体機能が不全に近いための治療を受ける

治療行為そのものの最良パターンを説いているわけですが、ここで認識しておきたいのは、黄帝内径の時代の良い医者は皆この様にやっていたんだなと思うのは間違いだということです。
皆ではなく一部の本当によい医者がそのように考えていたことで、なぜそう言い切れるかというと、わざわざ書いてあるからなんです。

古典全体に言えることは、つまり「特殊なことだから書かれている」ということです。逆に返せば当たり前のことは書いていないと言うことです。

ここが古典を読む上での困難な所です。

何故なら2000年前当時は当たり前だったことが、今では全く知られてもいないことだったりするからです。
その‘当時の常識’を読み解いていくことが古典研究の中核にあります。
上記は、おそらく‘予防医学’という観点が、人の健康維持として非常に効率のいい考え方であって、そのことの提唱が編纂作業の水面下ではあったのだろうと推測できます。それと同時に単なる医療作業の効率性のための根元治療に、その危険性をメッセージしていたのかとも思われます。そのうえで五臓の治療の重要性を説くわけです。
そう考えた上で、
皮毛を治し(寒さを感じたならまず治療を受け)ー具体的な方法は書かれていません
厚着をしてくださいとかの、指導ではなかったのかと考えられます。
肌膚を治し(悪寒を感じたなら治療を受け)ー具体的な方法は書かれていません
さすったりとか、体が温まるものを飲むなどの指導?
筋脈(経絡含む)を治し(だるさや節々の痛さがあったなら治療を受け)ー体表部位の名前としての経穴名
按摩やお灸など。この状態が五臓への損傷にならないための予防認識の促しとして、経絡や経穴の記載がある。
六府を治し(嘔吐下痢、多汗頻尿、もしくは喘息や発熱などの治療を受け)ー発病理由や治療例の記載が多い。
素問の後半の各論的な記載。しかし五行論で紐解く記載が少ない。
五藏を治す(精神や身体機能が不全に近いための治療を受ける)ー基本的にはこの治療のために黄帝内径や難経がある
死にかけている人からデータを得るために、脈や尺膚、腹や顔などを診察し、そこからの情報を分析するため陰陽五行論に基づいて、医学を発展させた。

だから、天がごく当然に起こす作用のうちの、その正常でない場合を感じとっていくうちに、人は五藏に傷害を及ぼす事になる。食物から必要以上の影響を受けた場合は、身体機能が亢進や衰退をしてしまう。そのことが感じとれたときには、六腑が傷害している。

‘天が地表に及ぼす作用’で最も顕著なものが四季の移ろいです。
これが五臓に影響するというのです。水穀と言う‘飲食物’が六腑に影響するのは解りますが、四季と五臓というのは、五行論を展開する上でのこじつけの様な感じすらあります。
しかし考えられることの一つに、冬の寒さも夏の暑さも『体は慣れる』という事を繰り返して、毎年その一年を乗り切ります。寒さや暑さに慣れると言うことは、例えば冬の27度は暑く、夏の27度は涼しく感じますが、これは身体がその季節に常に適応して行っていると言うことです。
この適応している様子を理論化したものが、三焦論ですモ

体表
 水を下げるヨ
季節の終りに次の季節へと
水の方向を変える
ユ水を上げる
体内

夏に暑さに慣れるのは
体表まで水分に満たされて冷えやすい状態になるためで、
冬に寒さに慣れるのは
体の奥へと水分を留めて冷えにくい状態になるためです。
しかし季節は順当に変わっていくわけではないので、三焦の水分移動だけでは急激な気候の変化に間に合いません。その場合、筋脈の体温生産能力や、肌膚の毛穴の開閉に依存します。三焦の水分移動と気候の変化が一致していないことを感じ分けるセンサーが皮毛です。
だから
皮毛が異常を感じたときに治療を施せば、肌膚はむやみな毛穴の開閉をしなくて済み、
肌膚の毛穴の開閉で対応している段階で治療を施せば、筋脈はむやみな体温生産をしなくて済み、
筋脈の体温生産で対応時に治療を施せば、六腑はむやみな口渇や食欲に駆らせることはない。
ただ皮毛が外気を感じ取ることによって、生体は必要範囲内での毛穴の開閉や体温生産量の変化を起こして、季節の移ろいに備えます。涼しくなれば体温生産量が増えるため、つまりカロリー消費が増えるため食欲が増します。暑くなれば水分を体表まで満たし蒸散量が増えるため、喉が渇きます。この様な六腑の働きというのが、五臓が季節と対応する手前にあるわけです。
この六腑の働きで飲食の摂り方を誤ると身体機能の抗進や衰退を招き、嘔吐下痢や多汗頻尿、もしくは喘息や発熱などを発症します。それが

「食物から必要以上の影響を受けた場合は、身体機能が亢進や衰退をし、六腑が傷害する」になります。

しかしこれらは、気候の変化に対しての適応反応です。身体が生きていくと言うことの正常動作として外気と対応し、基本的には五臓の、三焦論による季節適応への水分の移動を、サポートするために起こります。

ところが五臓の傷害というのは
この三焦論による季節適応が起こらなくなってくることを言います。
原文に「天之邪氣」とありますが単に暑い寒いの邪気ではなく、間違いのない正常動作が、出来なくなってきたことからの影響という意味です。天とは太陽の運行から受ける働きを意味します。間違いなく毎朝東から日が昇り、毎年同じ日に春分が来ます。この間違いなく同じ事をすると言うことが‘天’と言う意味になります。
人体が季節の移ろいの中で生きていく、普遍的な適応能力というのが五臓の三焦論による水分の移動です。
精神を患って、真冬なのにほとんど裸で水分を摂り続けている人や、真夏にコートを着て炎天下にいる人。末期のガンを患い、飲食を口にしないで下痢をし続ける状態。これらは三焦機能が壊れてしまった様子の一つです。
普遍的な生体機能の損なわれた状態が、五臓の傷害です。
別の見方をすると、人は体内に‘天’を持っています。外界の天の運行と体内の天の運行が一致していれば健康、ずれてきたならば病気とも言えます。
この‘ずれ’が長い間の外界対応との食違いから生ずることもあれば、何かの拍子に五臓が損傷を受けてずれてしまう場合もあります。少なくとも「長い間の外界対応との食違い」によるずれには、皮毛から治療を施すことで予防が出来るわけです。