10-06/20 古典の科学性とその臨床応用〜六腑編・病理、臨床論〜 加藤秀郎

六腑の病理とは?
〜六腑を主に消化器としたならば、その病症は‘嘔吐’‘下痢’‘腹痛’なのか?〜

『素問・陰陽應象大論篇第五』に、
治五藏者, 半死半生也. 故天之邪氣, 感則害人五藏; 水穀之寒熱, 感則害於六府.
五臓を治するは、半死半生なり。故に天の邪気、感じれば則ち人は五臓を害す。水穀の寒熱、感ずれば則ち六腑に於いて害す。
水穀の寒熱が六腑を害す
とあり、この寒熱は 身体のエネルギー消費の様相
を言います。
その生体が置かれている状況に対して、内部環境維持のための対応が寒熱です。大きくは左表→の3つの状況に対応します。この3つは同時に生体を刺激する事が常で、外気温は暑くそれは不快でさらに炎天下で運動をしていれば‘寒’‘熱’‘熱’となります。
(的環境)気温が 心状が 肉体動作が
暑い 寒い 快適 不快 休息 運動
身体のエネルギーの消費様相は複雑ですが、その
消費様相に水穀の摂取がそぐわなければ
六腑を害する
のです。
ところが『難経・九難』に、
九難曰.何以別知藏府之病耶.
九難に曰く.何を以って藏府の病の別を知るか。
然.數者府也.遲者藏也.數則爲熱.遲則爲寒.諸陽爲熱.諸陰爲寒.故以別知藏府之病也.
然るに、数は腑なり、遅は臓なり。数は則ち熱を為し、遅は則ち寒を為す。諸陽は熱を為し、諸陰は寒を為す。
故に以って臓腑の病の別を知るなり。
数は腑、則ち数は熱を為し、諸陽は熱を為す
腑=数=熱=諸陽
ということですが、
素問の陰陽應象大論は六腑を害する条件の話であり、九難は害した後の話となります。その理由は‘諸陽’という言葉に集約されます。
諸陽とは?難経;六十二難に
六十二難曰.藏井有五.府獨有六者.何謂也.
六十二難に曰く、臓に井と有るは五つ。腑は独り有るは六つ。何を謂うか。
然.府者.陽也.三焦行於諸陽.故置一兪.名曰原.府有六者.亦與三焦共一氣也.
然るに腑は陽なり。三焦の行くは諸陽に於いて。故に置くは一兪、名を曰く原。腑が有る六つはまた三焦に一気を共に與えるなり。
「三焦の行くは諸陽に於いて」とは、『三焦という機能は諸陽という形で働く』。つまり「三焦が生体の生理」とするなら‘諸陽’とは、生体がその状態を維持するための様々な外界交流とその対応を示している。
腑は生理活動の源泉である養水分の受給を、五臓司令の下で行う。
生体維持のための体表活動が『素問・陰陽應象大論』の寒熱ならば、『難経・九難』の寒熱は生体の維持が壊れ始めた病理の様相と言える。
壊れた生体であってもギリギリの維持を可能にするため、六腑は懸命に養水分の供給に勤める。その様が『腑=数=熱=諸陽』である。
他覚、自覚で
認識は可能
 なので→陽
 ↑↑
←働き→
六 腑
理論予想のみで
認識は不可
 だから→陰
↑指令↑
五 臓

では、腑の病理確認“数は腑なり”とは?
“数”とは一般的に脈の名前とされていますが、それ以前に生体の病理反応を示しています。何の病理反応かと言えば、それは‘壊れかけた生体がギリギリの維持を可能にするための六腑による懸命な養水分の供給’と言う状態の様相です。
この“数”と言う様相は、身体の生活環境における疲労や寝不足、食事や生活パターンの乱れから五臓の指令や経からの情報に六腑の純粋対応が出来なくて、養水分の供給が適切に行えなくなったと言う内部環境の乱れの始まりを現します。もしかしたら血液成分などに数値的変化が確認出来るかもしれませんが、細胞や臓器の養水分の受要能力が低下している事も考えられます。そのとき生体は血流を増やして対応します。心臓や動脈の収集力が増大します。その収縮力の増大が‘熱’ですが、そこから“数”という様相が脈に現れるのは、心臓と動脈の神経支配が若干違うからです。
神経支配の若干の違いとは、心臓は上顎神経節、中顎神経節、星状神経節から連絡された交感神経支配で、心拍数や収縮力が増大します。副交感神経である迷走神経の支配ではその逆がおこりますが、洞房結節を中心とした刺激伝導系による心臓独自の動きを持ちます。
動脈は灰白交通枝経由の交感神経支配によって収縮をし、拡張は交感神経の場合は骨格筋の血管平滑筋を、副交感神経の場合は唾液腺や脳の軟膜の血管に作用をします。
また動脈の中膜は平滑筋繊維が豊富で、交感神経支配により拍動をおこします。しかし心臓から出たばかりの大動脈の中膜は平滑筋が少なく弾性繊維が多い。これは血管自体の拍動力をこの部分では持たないようにして、心臓の拍動と動脈の拍動が互いに干渉しないようにして受け取ります。その後、動脈中膜の平滑筋量が増えて、心臓拍出の補助として動脈の拍動をおこします。
心臓が収縮した時の血管内部の陽圧化に動脈は拡張で、心臓が弛緩した時の陰圧には収縮でサポートします。つまり動脈は心臓の動きに適応しつつも個別に動作するため、例えば橈骨動脈拍動部で‘脈が飛ぶ’などと言う事が確認できても、実際に心臓の拍動を計ると不整脈が見つからない場合があるのです。

つまり‘六腑の病理’とは?

六腑の基本動作である養水分の供給が、五臓の指令や経からの情報に対して、適切に行えなくなったと言う内部環境の乱れを言います。その時に生体は心臓や動脈の収集力を増大させ血流を増やすという対応を起こすため、この時に六腑の病理状態が“数”という様相で解ります。
それが橈骨動脈拍動部に“数脈”という形で表れるのです。
“数脈”とは、右図の黒い線の様に脈動が引き下がりきらないうちに、押し上がりが始まってしまう脈です。これは心臓と動脈の拍動の歩調の差で起こります。生体は体内環境の安定をギリギリで維持するため、心臓も動脈も懸命に養水分の供給つまり血流量が増大します。その懸命さが心臓と動脈それぞれの収縮タイミングを若干乱すため、動脈が収縮しきらないうちに心臓が収縮して突出させた血流が入って来るので、脈が早めに押し上げられた形になってしまいます。
その収縮優先の体内動作が、病理への対応機能の亢進という意味で‘熱’となります。
この‘熱’は体内環境を守るための生理的反応ではなく、体内環境を正常化させる病理対応としての作動です。
なぜ収縮を優先させ血流量を増やすと言う「病理対応の‘熱’」をするのかと言うと、
六腑の養水分の供給能力がすでに落ちていて、内容の薄さを量でカバーしようとしているからです。

“数脈”を診たらどうするのか?〜病理から臨床展開へ〜

‘数脈を診た=腑が病んでいる’と考えます。
下痢、嘔吐、腹痛が無くても数脈が出ている事で腑の病理展開でその生体と対峙します。
それは“数脈”が腑の供給能力低下を血流量を増やして対応させている状態の現れだからです。
腑の病理様相は生体生理の実在表現である‘三焦’で考えます。それが六腑の病理と臨床の展開です。
三焦で考える病理展開は、
難経;十八難に
脉有三部九候.各何所主之.
脈に三部九候が有るは各所の主は何か。
然.三部者.寸關尺也.九候者.浮中沈也.
然り、三部は寸と関と尺也。九候は浮中沈なり。
上部法天.主胸以上至頭之有疾也.
上部は天に法し胸以上で頭に至るの疾の有るを主るなり。
中部法人.主膈以下至齊之有疾也.
中部は人に法し膈以下で臍に至るの疾の有るを主るなり。
下部法地.主齊以下至足之有疾也.
下部は地に法し臍以下で足に至るの疾有るを主るなり。
審而刺之者也.
(細かく見きわめる)し而(そう)して刺する者なり。
と、あってこれを表にして
三部 寸口 関上 尺中
九候
三焦 上焦 中焦 下焦
脈状 数脈

三焦の循環機能

三焦の位置
上焦
心・肺
中焦
下焦
肝・腎
六十九難の補瀉論の選穴を当てはめると、
寸口は上焦、関上は中焦、尺中は下焦と考え、
三部のどこに特徴があるかを診る。

寸口であれば上焦に上がってしまっているという病理状態と考え、
三焦の‘上がる能力を抑える’か‘下げる能力を亢ぶらせる’。
関上であれば三焦全体よりも脾胃の問題と診て、
脈が強ければ脾を経金穴の‘商丘’で瀉し、
弱ければ栄火穴の‘太都’で補す。
尺中であれば下焦に下がってしまっている病理状態で、
三焦の‘下げる能力を抑える’か
‘上がる能力を亢ぶらせる’。
-
(浮)
上がる能力を抑制
行間
肝-瀉(栄火穴)
(沈)
下げる能力を亢進
太淵
肺-補(兪土穴)
-
(浮)
脾の治療をする
(軽い腑病か臓病になる手前)
商丘
脾-瀉(経金穴)
(沈)
太都
脾-補(栄火穴)
-
(浮)
下げる能力を抑制
尺沢
肺-瀉(合水穴)
(沈)
上がる能力を亢進
曲線
肝-補(合水穴)
まず脈状を診て“数脈”であれば腑病と診断する。
つぎに三部を診て寸関尺のいずれかの特徴を診別ける。診別けた後の対応と選穴は上表の通りである。

臨床内容

74才、女性、転倒により腰痛。
治療を受ける3日ほど前に高い所の物を取ろうとして踏み台に脚をかけ、その台が前方へと滑ってしまいそのまま尻餅を突く。
往診した時は激痛で、寝返りすら困難でベッドから出る事も出来ない。
痛みは右臀部から腰椎1番の右脇へと放散。
脈状は“数”。腑病と判断し、三部を診ると‘寸口’が‘沈’のため太淵穴。脈状を診ながら左右の太淵を触ると左の方が“数脈”が弛むため左の太淵穴を使用。最後に右の太淵穴で微調節して終了。
治療後、痛みが緩解し自力でトイレに行く。しかし独居であり、食事も思う様にならないため入院を勧める。
本人が入院を決めたため、その時に付き添っていた人が二人で着替えを手伝うが、その最中に痛みが悪化しまた自立不能になる。
腰に散鍼をして緩和措置をとり自家用車にて付き添ってくれてる人と病院に行った。
5日後に入院先へ往診。自立歩行は可能になっていたが、微熱と嘔吐下痢を発症。それと全身の関節痛。病院側は院内感染を懸念したが本人は冷えただけだと主張。そのため病院には内緒で鍼治療を希望した。
5日間でかなり痩せている。レントゲン所見では軽度の圧迫骨折。しかし今回の転倒が原因かは不明。
脈状は相変わらずの“数”。三部も‘寸口’が‘沈’。左の太淵穴を使用後に右の太淵穴で微調節。
治療中に大きく腹中が鳴動し関節痛は軽減。顔色も赤みを帯びる。
治療後にこの方と初めて会話をする。
5日前に最初の治療を受けるまで、3日間ほとんど何も食べていなかった。
実はまだまだ現役の薬剤師で、薬事法の改正から新たに試験を受け直すため、毎晩4時過ぎまでの勉強を二週間以上続けていた。
老化現象の不安から体力低下を懸念して、週に三回ほど夜に5キロのウォーキングを3ヶ月ほどしていて勉強中も休まなかった。
パソコンが好きで、20年間のMacintoshのユーザーであったが、職場の都合でWindowsマシンを自費購入し、使い方の練習もかねて職場の住所録2万件の正誤確認と修正もやっていた。
市全体の婦人会の会長で、仕事とは別に市役所に会議で行く事が多い。
漢方薬を専門に処方する職種で、服用薬どころか食品添加物や農薬、現代医療の治療体制にも問題意識を持たれていて、婦人会を通じて環境問題の訴えとその対策や指導もしている。

腰痛患者がなぜ腑病なのか?
それはたまたま鍼治療を希望した症状が、腰痛だったからです。
腰痛をおこさせた転倒は、この方でしたら普段はおそらくやらないようなことでした。知性が高く高齢である事も自覚されていて、危険の予知は的確にさせていると考えられます。それを怠ってしまうほどの過労状態だったのです。もし良好な体調で同じような転倒をされても、ここまでは悪くはならなかったかと思います。過労のための過反応で筋が硬縮をして、より激しい痛みとなりました。

治療に必要なのは「転倒が原因の腰痛」ではなく、腰痛という形に「悪化させた要因が何か」と言う事。

もし転倒する前に脈を診たとしても、その時はもう“数脈”であったろうと思います。
つまり激務と生活パターンの乱れから、六腑を病んでいたのだと思います。すでに「腑病であった事が要因」でありその腑病の原因が過労なのです。

過労からなぜ腑病になったのかというと「飲食摂取の乱れ」と「体温生産の不的確さ」があります。

「飲食摂取の乱れ」とは、
その生体がその時点で必要としている内容の養水分を、的確なタイミングでとれていないと言う事です。
よく体を温める食べ物と冷やす物という言い方があります。食物を単に物として考えるならば、カロリーの高い食品は体を温め水分の多い物は冷やします。しかし生体はおかれている環境とその状態によっては、多量の水分を含む食品であっても体は冷えなかったり、せっかく高カロリーでも脂肪や糖分の消化吸収が出来ないコンディションであれば、暖まる事は出来ません。
その瞬間に体が要求している物を程良く摂取する事が望ましいのです。しかし飲食の摂取が一時的に乱れた程度であれば、食べて下痢にはなっても腑病への発展はありません。その場合は食後に体がだるくなって休養したり、尿や汗を多くして調整します。
しかしもう一つの要因である「体温生産の不的確さ」
つまり〈疲れの重なり〉があって腑病へ発展します。
生体には一日のうちに活動期と休息期があります。基本的には昼間に活動し夜に休みます。体温生産は活動期に増え休息期に減ります。また活動期の中にも動作と休養があって、運動すれば体温生産は増し休んだり食事をとれば減ります。この体温生産が毎日一定の増減振幅ならば、疲れは軽くその日の休息だけで解消します。

ところが人は生きて暮らす事で‘身体状況とは合致しない都合’が発生します。
その都合が生活パターンの乱れや不的確な食事内容になります。
それは野生にはない‘文明社会が内に持つ落ち度’です。
仕事の都合で起床が早くなったり夜が遅くなったり、慣れない力仕事があったり休めなかったり。長時間の緊張を強いられしかもなかなか食事が出来なかったりなど、こういった不規則さが続くと常に生体は活動機能を上げたままにしてます。そして生体は休まなければならないので、機能の上がりっぱなしが続くと勝手に下がってしまいます。それが『素問・陰陽應象大論篇』の「水穀の寒熱が六腑を害す」つまり〈心状〉と〈肉体動作動〉の寒熱です。‘水穀’は単に飲食だけではなく‘食べていくための所行’全体を指します。さらに身体状況とは関係なく〈外的環境の気温の暑い、寒い〉にも常に晒されています。こうして体温生産の周期が乱れているうちに『九難』の〈数は腑〉へと病理展開します。

つまりこの方は、
損傷以前の過労から‘腑病’の状態にあり、主訴である腰痛は転倒という刺激をきっかけにした過剰反応による自覚症状と言えます。この方の身体がなぜ過剰に反応したかと言えば、それは腑病という内部環境の乱れで体が衰弱しつつあるため必要以上の防御反応をしました。
その後、飲食と排泄の不自由さで症状が悪化して施術を希望されました。入院後は良好な環境変化とそのことの安心感から生体機能が一気に低下したため体を冷やし、嘔吐下痢を発症しました。
‘過労’は過剰な自覚行動の結果です。
意志や行動を興すというのは、体内から社会へとその形を現す事です。内→外、つまり陰→陽。これは“木”です。木は“肝”ですが疲れは肝が受けるというのはこのためです。労働による疲労は陰→陽という方向のみを過大に使用します。全力疾走した後は食欲が失せたり、何かに夢中になっていると周囲の事に気が回らなくなったりなど、陰→陽の過大さは、逆に情報や飲食の受け入れという陽→陰の働きを小さくします。
よって食生活が乱れ環境変化への対応も失敗します。さらには陰→陽の過大使用は、その発生源である“肝”を酷使し“木”系統の働きが乱れ“胆の中正の判断”の正常さが低下していきます。

治療による改善は、
“数脈”の解消ですが、橈骨動脈拍動部上の数脈が平常化したからといって、その時の治療で腑病が治癒したわけではありません。より自然治癒力が働きやすい状態になっただけです。依然として懸命な養水分の供給のための心臓と動脈の収縮優先の体内動作は続いています。治療の施しでその懸命さ故の余ってしまった勢いが緩み、拍動する心臓と動脈の歩調の差によるタイミングの乱れが整って“数脈”が解消します。
そのことで余分なエネレギーの消費を抑え、治癒能力の効率が上がります。
ただし“数脈”の解消には幾度かの治療行為が必要です。
毎回の治療後の改善確認は、橈骨動脈拍動部上の三部で診ます。
三焦の上焦に水分が上がれば皮下の蓄水量が増え、表皮と動脈の間が広がって寸口部以外の診察点が不明瞭になり、結果的に寸口部が目立ちます。
下焦に水分が下がれば皮下の蓄水量が減って、表皮と動脈の間が狭まります。橈骨動脈は手関節を通過する手前で直径が細くなり、通過後に分岐します。そのため表皮が動脈に近づくと、直径の太い尺中の部が目立ちます。
その時の体調の違いからの収縮力の差が‘強(浮)’‘弱(沈)’です。
皮下の増減した蓄水量が平常化する事で、脈の目立ちが解消します。
蓄水量の平常化からも治癒効率は上がります。その時の気候に対して水分の量と配置が適切であれば、冬は冷えにくく夏はのぼせづらい身体として、余計な動作のない=疲労しづらい=養生し易い、になるからです。
この方は過労で胆の判断と水穀と外部情報の供給が低下した“腑病”という状態時に転倒し傷害しました。
このことは受診までの生活内容と治療の証と治療後の変化で解る事で、なぜなら
漢方医学は生体がどの様な状態かを把握して、バランスという理念でどの様に対応するかが目的。
だから治療後に原因や予後が解る事が多い。
現代医学は人体を解明して、その解明経過の順序を追って理論だてた治療手段を病名にあてがう事が目的。
だから原因に対する処置が主流。予後はバックデータより判断。

〜おまけ〜{何故、米を主食としてるのか?}
素問;湯液醪醴論篇第十四.
黄帝問曰.爲五穀湯液及醪醴奈何.
黄帝が問いて曰く、五穀が為すは湯液及び醪醴(ろうれい;醸造してまだ濾過してない、どろどろした酒)とは何か。
岐伯對曰.必以稻米.炊之稻薪.稻米者完.稻薪者堅.
岐伯が對(=対)して曰く、必ず稻米(いなごめ)を以(もちい;使用する)る。
炊を之うは稻薪(どうしん;稲藁を燃料に使う)。稻米は完、稻薪は堅。
黄帝曰.何以然.
黄帝が曰く、何を以って然すか。
岐伯曰.此得天地之和.高下之宜.故能至完.伐取得時.故能至堅也.
岐伯が曰く、此れ得るは天地の和。高下の宜(ぎ;ちょうど適当)、故に能は完に至る。
伐取(はっしゅ;収穫)は時を得、故に能は堅に至るなり。
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