『杉山流三部書』の内容構成
(1)『療治の大概集』
・全体は上中下3巻からなり、三つの内容から構成されている。
・第1は、鍼治療の基本となる常識――〔補瀉の事、押手の事、撚りの事、四季の鍼の事、男女立様の事、鍼折れたる時の事、抜けざる鍼の事、鍼立て違いの事、鍼立てざる人の事、禁穴の事、尺寸を定むる事、髪際を定むる事、大椎を定むる事、血支日の事、十二支人神あり所の事、十二時人神の事、四季の人神の事、長病日の事、男女に灸を禁ずる日の事、病人初めて医師に遇う吉日の事〕。
・第2は、鍼治療であつかう病症54種の簡明な解説と主治穴――〔中風の事、傷寒、がい瘧、痢病、嘔吐、泄瀉、霍乱、大便秘結、咳嗽、痰飲、喘急、翻胃、癆さい、えつ逆、頭痛、心痛、眩暈、腰痛、脚気、黄疸、淋病、消渇、赤白濁、水腫、脹満、積聚、自汗、癲癇、吐血、下血、脱肛、遺尿、遺精、上気、腹痛、諸虫門、口中門、眼目、耳門、婦人門(産前、胞衣下りざる事、産後、その他)、小児門(小児死する者の見様の事、急驚風、慢驚風、疳、癖疾、咳嗽、嘔吐、泄瀉、夜啼客忤、痘瘡)〕。
・第3は、東洋医学理論の常識および経穴概論――〔五行の事、五臓六腑の事、五臓主りの事、陰陽の事、栄衛の事、七情の事、六淫の事、十五絡の事、穴寸法の事(肺経の内、大腸経の内、胃経の内、脾経の内、心経の内、小腸経の内、膀胱経の内、腎経の内、心包経の内、三焦経の内、胆経の内、肝経の内、督脈経の内、任脈経の内)、気付鍼の事〕。

(2)『選鍼三要集』
・全体は上下2巻からなり、三つの内容から構成されている。
・第1は、鍼灸理論の重要な問題点についての和一の自論解説――
〔補瀉迎随を論ずる第一、井栄兪経合を論ずる第二、虚実を論ずる第三、謬鍼を論ずる第四〕。
・第2は、和一の最新の研究内容として『類経』と『類経図翼』から鍼灸と関わる重要な内容を抜粋整理したもの――
〔腹経穴(任脈経、腎経、胃経、脾経、胆経、肝経)、九鍼の図、十五絡脈、十四経穴並びに分寸、鍼灸要穴の論(傷寒、汗出でず、陰症、腹脹、舌捲き嚢縮まる、中風不省人事、半身不遂、口眼か斜、口つぐんで開かず、いんあ、なんかん、虚癆、盗汗、血症吐血、衂血、便血、尿血、水腫、脹満、虚癆浮腫、積聚痞塊、肺積、心積、脾積、肝積、腎積、気塊、膈、咳嗽、寒痰、熱痰、諸喘息、嘔吐気逆、霍乱、乾霍乱、喜んで大息す、喜んで悲しむ、気短、瘧疾、久瘧疾、黄疸、消渇、瀉痢、脾泄、胃泄、大腸泄、癲癇、眼目疼痛、耳聾、鼻塞って香臭を聞かず、歯牙痛む、喉痺、手痛んで挙がらず、脚気、転筋、脱肛、五淋、小便不利、小便不禁、大便秘結、疝気、痔、屍鬼、)、婦人病(血結ぼれ月事不調、血崩止まず、淋帯の赤白、ちょうか、孕むこと成らず、産難横生、胞衣下りず、死胎を下す、胎を取らんと欲せば)、小児病(急慢驚風、慢驚、臍風撮口、泄瀉、霍乱、夜啼き、疳眼)、禁鍼穴歌、禁灸穴歌〕。
・第3は、和一の自序および跋文――

(3)『医学節用集』
・全1巻。東洋医学理論のうち、諸説紛々たる問題に対し、自説を平易に論じたもの。
〔先天の事、後天の事、腹の見様の事、食物を胃の腑へ受けて消化する道理の事、三焦の事、井栄兪経合の事、五臓に五臭五声五色五味五液を主る事、脈の事〕。

三部書全体から和一の治療を探る。

 井栄兪経合は、いずれにも詳しく取り上げられている。
 補寫は、大概集では、呼吸と開口のみ、三要集では、霊枢等から引用している。
 腹診についての記載はあるが、脈診の記載が少ない。(医学節用集の最後にあり。)
 弁証論知として見るものがない。本に残したものと、実技の上で説明されたものがあるからだろうか?
 選鍼三要集の末に、この時代の鍼氏を批判している。経絡を知らないとか、腹に鍼しても、手足に刺さないなど。和一の時代でも好ましくないような治療が多かったのだろうか?
 できれば難経との繋がりで進めたいと思っていたが、、やはり霊枢が中心になると思われる。
 3ヶ月あるので、3冊を1回ずつとしようと思ったが、療治の大概集にはあまり取るべきものがない。選鍼三要集を中心に中国古典との繋がりを考えようと思う。
また、医学節用集には、先天後天の気や三焦の元気など和一の生命力に関する考えが特徴的なので取り上げたい。

選鍼三要集   序
私は、生まれつき愚かな身をも省みず鍼の道を志し、多くの月日を費やした。縁あって入江先生の下で学ぶ機会を得、その講義を拝聴することができた。
先生の道は軒轅・岐伯を宗としておられた。そのため「医学書において見るべきものは《内経》である。鍼法においては表現しにくいものが多いけれども、その要点は補瀉と要穴の理解だけである。虚実を分ち補瀉を用い、井・栄・兪・経・合を中心として要穴をよく理解しなければならない。」と常に語られていた。
また「余力があるときは経穴を暗唱せよ。鍼の道はこれで終る。臨機応変に構えよ、医は意なりと言うではないか。」とも言われた。
私は、その言の精妙さに惹かれ、その大意を文章にして述べることとした。これはただ門人および初学の人々のためを思ってなしたことである。よく学問を積んでいる人々にとってはこれは余分なことであろう。
《内経》に、『一に曰く神を治め、二に曰く身を養うを知り、三に曰く毒薬の真たるところを知り、四に曰く・石の小と大との使い分けを制し、五に曰く腑臓血気の診を知るなり。この五法は倶に用いられ、各々に長所がある。』云々、とある。私はこのことについていつもよく考えている。

素問;寳命全形論篇第二十五.
一曰治神.二曰知養身.三曰知毒藥爲眞.四曰制(石+乏;へん)石小大.五曰知府藏血氣之診.五法倶立.各有所先.今末世之刺也.

《霊枢・玉版》に、『黄帝が言われた、あなたが鍼について語る言葉は非常に広大である。しかし、生きている者を殺し死にかかっているものを復活させることはできないであろう、あなたはそうではないのか?
岐伯は答えた、妄りに鍼を施すなら、生きている者をも殺し、死にかかっている者も復活させることはできません。
黄帝は言われた、私がこれについて問うことは仁の道にもとることだろうが、よろしかったら鍼の道について御教えいただき、人に対して妄りに施すことをしないようにしたいのだが。
岐伯は答えた、鍼の道は非常に明解であります。刀剣が人を殺すもでき、飲酒が人を泥酔させることもできるように、鍼で人を殺すこともできるのです。これを人に施すことはなくとも、やはり知りおかれた方がよいでしょう。』とある。
玉版第六十.
黄帝曰.余以小鍼爲細物也.夫子乃言.上合之于天.下合之于地.中合之于人.余以爲過鍼之意矣.願聞其故.
岐伯曰.何物大於天乎.夫大于鍼者.惟五兵者焉.五兵者.死之備也.非生之具.且夫人者.天地之鎭塞也※.其不可不參乎.夫治民者.亦唯鍼焉.夫鍼之與五兵.其孰小乎.
黄帝曰.病之生時.有喜怒不測.飮食不節.陰氣不足.陽氣有餘.營氣不行.乃發爲癰疽.陰陽不通.兩熱相搏.乃化爲膿.小鍼能取之乎.
岐伯曰.聖人不能使化者.爲之邪不可留也.故兩軍相當.旗幟相望.白刃陳于中野者.此非/*非此*/一日之謀也※.能使其民.令行禁止.士卒無白刃之難者.非一日之教也.須臾之得也.夫至使身被癰疽之病.膿血之聚者.不亦離道遠乎.夫癰疽之生.膿血之成也.不從天下.不從地出.積微之所生也.故聖人自治于未有形也.愚者遭其已成也.
黄帝曰.其以形不予遭.膿已成不予見.爲之奈何.
岐伯曰.膿已成.十死一生.故聖人弗使以成.而明爲良方.著之竹帛.使能者踵而傳之.後世.無有終時者.爲其不予遭也.
黄帝曰.其已有膿血.而後遭乎.不道之/*乎*/※.以小鍼治乎.
岐伯曰.以小治小者.其功小.以大治大者.多害.故其已成膿血者.其唯(石+乏;へん)石(金+皮;ひ)鋒之所取也.
黄帝曰.多害者.其不可全乎.
岐伯曰.其在逆順焉.
黄帝曰.願聞逆順.
岐伯曰.以爲傷者.其白眼青.黒眼小.是一逆也.内藥而嘔者.是二逆也.腹痛渇甚.是三逆也.肩項中不便.是四逆也.音嘶色脱.是五逆也.除此五者爲順矣.
黄帝曰.諸病皆有逆順.可得聞乎.
岐伯曰.腹脹.身熱.脉大.是一逆也.腹鳴而滿.四肢清.泄.其脉大.是二逆也.衄而不止.脉大.是三逆也.咳.且溲血.脱形.其脉小勁.是四逆也.咳.脱形.身熱.脉小以疾.是謂五逆也.如是者.不過十五日而死矣.其腹大脹.四末清.脱形.泄甚.是一逆也.腹脹.便血.其脉大時絶.是二逆也.咳.溲血.形肉脱.脉搏.是三逆也.嘔血.胸滿引背.脉小而疾.是四逆也.咳.嘔.腹脹.且(歹+食)泄.其脉絶.是五逆也.如是者.不及一時而死矣.工不察此者.而刺之.是謂逆治.
黄帝曰.夫子之言鍼甚駿.以配天地.上數天文.下度地紀.内別五藏.外次六府.經脉二十八會.盡有周紀.能殺生人.不能起死者.子能反之乎.
岐伯曰.能殺生人.不能起死者也.
黄帝曰.余聞之.則爲不仁.然願聞其道.弗行於人.
岐伯曰.是明道也.其必然也.其如刀劔之可以殺人.如飮酒使人醉也.雖勿診.猶可知矣.
黄帝曰.願卒聞之.
岐伯曰.人之所受氣者.穀也.穀之所注者.胃也.胃者.水穀氣血之海也.海之所行雲氣者.天下也.胃之所出氣血者.經隧也.經隧者.五藏六府之大絡也.迎而奪之而已矣.
黄帝曰.上下有數乎.
岐伯曰.迎之五里.中道而止.五至而已.五往而藏之氣盡矣.故五五二十五.而竭其輸矣.此所謂奪其天氣者也.非能絶其命而傾其壽者也.
黄帝曰.願卒聞之.
岐伯曰.(門+規;き)門而刺之者.死于家中.入門而刺之者.死于堂上.
黄帝曰.善乎方.明哉道.請著之玉版.以爲重寳.傳之後世.以爲刺禁.令民勿敢犯也.

経の意味するところは非常に深い。しかるに唐の王?はこの経の深意を悟ることができず、鍼の道を捨ててしまった。そしてその後、彼に従った愚かな人々は、王?の言に驚いて鍼の道を捨てるようになった。
しかし、その何と愚かなことであろうか。この経の言葉は、ただ鍼についてのみ言っているわけではない。どのような治療法であっても妄りにそれを用いるときは、薬であれ灸であれ、人を殺すことになるのは当然ではないか。そのような文脉の中でさらに、鍼についてだけ《内経》で言及されているということをこそ、よく考えてみるべきではないだろうか。
《素問・宝命全形論篇》に、『深い渕に臨み手で虎を握るように意識を集中させ、他のことに惑わされてはいけない。』とある。これは王冰が言うところの、鍼を施すには巧みな技工を用いるべきであって、妄りに用いてはいけないとする基になっている。

如臨深淵.手如握虎.神無營於衆物.

《医統》には扁鵲の言葉として、『病がそう理にある場合は熨炳{温湿布}の及ぶところ、病が血脉にあれば鍼石の及ぶところ、病が腸胃にあれば酒醪の及ぶところ、この鍼灸薬の三種類を兼ね備える者をこそ、始めて医と言うべきである。』とある。
曩武(のうぶ)はこれを誤って理解して、活人の術はただ薬だけであるとして鍼と灸とを捨て、これについて解説することをしなかった。しかし、傷寒の熱が血室に入って引き吊るように痛むものは薬では治すことができず、鍼によってその熱が除かれることによって始めて癒すことができるものである。
張介賓はその著《類経》においてこのことを論じている、『一婦人、傷寒の熱が血室に入ったために病気となっていた。医者は誰もこれを理解できなかった。許学士が、「小柴胡湯を用いるにはもう手遅れである、肝の募穴である期門[肝募]を刺さねばなるまい。しかし私は鍼をすることはできない、誰か鍼の上手なものに頼んで、鍼をしてもらおう。」と言い、その通りにして癒えた。
これらのことは、鍼による治療がいかに重要な位置を占めるものであるかを説いているのではないだろうか。私もまた、源を澄ましその根本を整えんと思うのだが、豊蔀(ほうぶ){分厚い敷物}の上に座っているようなかんじである。
ああ、それにしても、鍼とは何と素晴らしいものではないか。これを二氏はなぜ乱暴にも捨て去ったのであろうか。

謬鍼を論ずる 第四
世の中には鍼灸を業としているにもかかわらず経絡さえも知らない人々がいる。また、鍼を用いるときには薬を用いない人々・天地の理を人身に集約させて考えていくことができない人々・施鍼する場合に浅く鍼することのみで治療していく人々・全ての病気はただ腹を治療すれば治るとばかりに経絡について考えてみようともしないような治療法を代々伝えている人々がいる。愚かな人々はこのような治療を貴ぶので、鍼の道は非常に簡単であると、いいかげんに鍼を施すものが非常に多い。私はそのことによって起こる弊害を非常に憂えるものである。医学の大本はそもそも《内経》に始まっている。鍼経九巻すなわち《霊枢》に始まっている。そこに描かれている鍼の道には、鍼を用いるときは薬を用いてはいけないとか・経絡を理解せずに天地の理を行なうことができるとか・浅い鍼を用い深い鍼は用いないとか・腹部にのみ鍼し四肢には鍼しないといったことは、書かれてはいない。このような治療を行なうのは、奇異なことを行なって人々に媚びようとしているに過ぎないのではないだろうか。医の道は本来生の道である。にもかかわらず、なんと愚かなことがなされているのだろう。
経に、『五法ともにあるが、そのそれぞれに長所がある。』とあるのはこのことだろうか。
天道を知るということは、道に明るいということである。これを人の身体に集約させて考えていけなければ、どうやって病気を治療していくというのであろうか。

経に、『人は地から生じ、命を天に懸ける。天地の気を合しているので名付けて人というのである。天には陰陽があり、人には十二節がある。』とある。
この十二節とはなんだろうか。十二経のことである。経絡を知らないものが天道を人身に集約することなどできようはずがないとは、このことを言っているのである。
全ての病気は経絡を通じてなるものであるのに、経絡を理解せずにどうして病気を治すことができよう。
浅鍼の術は、虚労の人に最も適したものである。しかし虚している人に鍼をしてはいけないということは前にも述べたとおりである。薬を用いて補うべきである。
元気な人が病気になった場合に浅鍼を用いるのは、変気に対して用いる術であり、主体として用いるべき方法ではない。
変気の論によると、内は五臓骨髄まで侵され、外は五官や皮膚を傷る。このため、軽い場合でもすぐ重病になり、重症の場合は必ず死ぬ。ゆえにこれを神に祈っても治すことはできない、とある。
ではなぜ病気を変移させる必要があるのだろうか。こうは言っても私も浅鍼の術を用いないわけではない。医は意なり、鍼刺の方法を一種類に固定する必要はない。
また腹部のみに刺鍼して四肢には鍼を刺す必要はないという説などは、まさに井の中の蛙大海を知らざるの類にすぎない。
そもそも《内経》には、腹部の鍼のみを用いるなどという説はない。古人の鍼はもともと井・栄・兪・経・合を用いることを中心にしている。私の師は、「至妙は四肢にあり。」と言われている。
そもそも病気というものは五臓にあるに過ぎない。その五臓の経脉の気は、四肢に満ちて溢れているのである。
人体における父母は、心と肺である。その心肺は、横隔膜より上にある。生命はこの二臓を中心に営まれているのである。にもかかわらず、腹部のみに刺鍼せよと言う者は、灸する場合でも腹部にのみ灸せよと言うのであろうか。考えのなんと浅いことであろう。 そうは言っても、私もやはり腹部にはいつも注目して治療している。
ある人が聞いた、「病気というものは樹木のようなもので、その枝葉は四肢に現われ、その根は腹部にあると思います。その根である腹部に処置すれば、枝葉である四肢の病気は自然に治っていくのではないでしょうか。」
私は答えた、「私の師がいつも言っておられたことをお話しましょう。腹部に注目してその根本を治療し、四肢に注目してその枝葉を治療する。このようにすれば、非常に種類が多く千変万化する病気であっても、必ず治っていくものです。
樹木に例えるとよく判ると思いますが、大木の場合、その根を切ったとしても枝葉はまだみずみずしく生きている場合があるでしょう。根が無くなっているのでいずれは枯れていく運命にはあるのですが、完全に枯れきるまでの間は、やはり元気を害していくではありませんか。そのため、私の師は、その根である腹部を治療し、さらにその枝葉をも治療していくのです。このようにするので、大病であっても速やかに治っていくわけです。鍼に補法なしとよく言いますけれども、病気を速やかに治していけば、元気も自然に旺盛になるものです。」
また私は言った、「腕が未熟な医者は、こういった標本関係を理解していないため、四肢を本として治療して腹部を標としたり、腹部を本として治療して四肢を標とするものがいるのです。どうしてこのように一概に決めていってしまうことができるのでしょうか。」
私もまた腹を分ち、このことを同志に語ろうと思う。

選鍼三要集  跋
《易》に、『天行は健なり、君子もって自彊して息まず。』とある。天の運行を見ると、今日、一日一周したと思えば、明日もまた休まずに、一日一周する。乾為天の象が天を二つ重ねて重複しているのは、この天の運行が非常に力強いことを示すためである。君子はこれに法り、人の欲望によって天徳の剛を害さないように、自彊{自らを強くする・私欲に勝つ}し続ける。
鍼は一つの所作ではあるけれども伏羲によって始まった医道の一つである。ゆえに、これをよく理解して用いる者はその道の君子とも言えるのであるから、怠慢に行なってはいけない。
私は少年のときに病気をしたが、鍼によってこれを治療した。また中年のときにも病気をし、師である入江先生に鍼を教えていただき三年かかって自分で治療した。それからは、人に鍼を刺して数多くの病を治療してきた。壮年になって《霊枢》を聞いた。その理は深くその範囲は広かった。
最近わが国でなされている鍼の流派は、経絡を捨てて病気だけを尋ねており、聖人が伝えようとした道はすでに廃れてしまっている。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。
思うに、勉強をする者は鍼をせず、鍼をする者は勉強をしないからではないだろうか、また、この世は末世なので人々の気も短くなっているためではないか。
どうやればこの道を再び伝えることができるだろうかと私は考え、このような書を作り、勉強しないものに与えようと思ったのである。この程度のものでは筒から天を覗くようなものに過ぎないけれども、龍は一滴の水だけで世界を潤し人は石から大きな火を作り出すように、どのようなことにも得るところはあるであろうから、この書がいかに短くとも、もし人を得ることができれば、この道を天下に広めることもできるであろう。
動静の本はただ一つ、気である。一が二を生じ、二が三を生ずる。十はまた一に帰しここから百千万が生じてくる。
病は七情に起こる。喜ぶときは心を傷り気散じ、怒るときは肝を傷り気逆し、憂えるときは肺を傷り気集まり、思うときは脾を傷り気結び、悲しむときは心包絡を傷り気凝り、驚くときは胆を傷り気乱れ、恐れるときは腎を傷り気怯える。これらは皆な内より生ずる病である。
また五傷がある。久しく歩けば筋を傷り、久しく立てば骨を傷り、久しく座れば肉を傷り、久しく臥せば気を傷り、久しく視れば血を傷る。これらはその人の行為による害である。
風寒暑湿燥熱は外より来る病である。
気と血と痰の三種類を本にして百病が生じる。
その本を治療すればその末は必ず治る。
このことをよくわきまえ要穴を考えて鍼を刺していくのである。
また鍼を刺す場合にはその心持ちが大切である。
手に鍼を刺しても心には刺さない者があるが、小人閑居して不善をなすこと、どのような場合にもあるのであるから、手を抜いてはいけない。
また、霜を踏めば堅い氷になるというように、善行もその通りであって、善をいつも積んでいる家には必ず余慶があり、不善をいつも積んでいる家には必ず余殃があるものである。
このためにその心を慎んで鍼刺しなければならない。
この書は、勉強の足りない者に教えるためのものであり、また盲人に暗記させるためのものである。