初心者向け古典解説  井上雅雄

                     2010.11.21

中国古典医学は現在でも漢方薬や鍼灸の現場に生かされている。また、「経験」を積み重ねて、より優れたものが生み出されてきた。中国古典医学の歴史的な背景と鍼灸に関係の深い代表的な古典医書の説明する。

【古典医学書の記述】

中国文明のはじまりとされる殷の時代に獣骨や亀甲に刻まれた甲骨文字は主に占いに関するもので、その記述された「医療」は主に呪術的なものが多かったようである。その後、漢代の頃、中国最古の医書と言われる黄帝内経「素問」「霊枢」が著わされた。

1972年から73年にかけて湖南省長沙で発掘された馬王堆漢墓の1つから14種類の医書が発見された。灸や経絡、導引などが記載された「医書」は帛と呼ばれる布きれや木簡・竹簡に書かれていた。蔡倫が実用的な紙の製造法を確立したとされる時代は後漢の紀元105年で、それ以前は主に帛や木簡・竹簡に書かれていたものと思われる。埋葬されていた医書のなかには、黄帝内経以前に記述されたと考えられるものもある。

現存する素問・霊枢は前漢時代の図書目録を記録した後漢の「芸文志」にある黄帝内経とは異なるとされていて、芸文志に記載された黄帝内経18巻は散逸したとされている。

難経が成立したのはその記述内容から、素問霊枢以降とされる。薬物のことが記された神農本草経が前漢末から後漢中期頃に成立し、後漢末には主に病気とその治療(主に方剤による)について述べられた傷寒雑病論が長沙の太守であった張仲景によって著わされたとされる。古典医書は主に口述や書写によって伝承されたが、原本の大部分がかなり早期に散逸してしまった。北宋の時代には皇帝が医書の編纂に熱心で、素問や脈経などの書物の校勘が行われた。

【素問】

黄帝内経の黄帝は伏義・神農とともに三皇と言われる伝説上の人物であり、著者は不明だが徳のある治世を行ったとされる黄帝に仮託して、その名を冠したと思われる。唐代に王冰が師より秘伝されたとする隋代に失われた運気篇に相当する七巻を補入して全24巻に改変し、それに注釈を加えた。これは「次注本」と呼ばれ、王冰が別の医書などから編入したりして、再編集したとする説が有力である。素問は次注本を主とし、「全元起本」「黄帝内経太素」などと付き合わされて、校正され現在に伝わる新校正本となった。唐代前期の人と言われる楊上善が著わしたとされる「黄帝内経太素」は中国では散逸したが、江戸時代に太素の写本が京都仁和寺で発見された。太素は素問と霊枢を合わせ、編集し直したものである。素問は黄帝とその臣下である岐伯や雷公との問答形式で綴られ、ほぼ九割が黄帝が問い、岐伯が答える形で、残り一割が雷公が問い、黄帝が答える形になっている。内容は現代医学で言えば解剖・生理・病理などの内部環境的なことと、その外部環境である自然との関わりについて述べられている。薬・鍼・按摩などの具体的な治療法についての記載は少なく、陰陽五行説に基づく医学理論についての記載が主となっている。漢方においては江戸時代に主流となっていく古方派が黄帝内経の医学理論を排し、傷寒雑病論の実利の部分だけを重視したことにより、素問は顧みられなくなった。

【霊枢】

霊枢の名を最初に用いたのは王冰で、次注素問の序文に『漢の芸文志によれば素問9巻と霊枢9巻とを合わせて黄帝内経と称する。』とあるが、素問は黄帝内経18巻の9巻に間違いないが、霊枢は今日伝わるものか定かでない。内容は鍼を中心として灸・按摩などの治療法が具体的に記されていて、鍼経の別名もある。霊枢も素問と同様、雷公が問い、黄帝が答える形と黄帝が問い、岐伯・伯高・少師・少ユが答える形である。

【難経】

著者も成立年代も不詳で、難経の書名が初めて現れるのは傷寒論自序で、難経の難は疑問点を問いただすとの説と難易の難とする説がある。現存する最古の伝本は北宋の王翰林が集注した難経集注で、すでに亡失した隋の呂博望・唐の楊玄操・北宋の丁徳用・虞庶・楊康侯らの諸注らが収められており、古注を知る上で貴重な史料となっている。最も有名な難経の注釈書として元の滑伯仁の難経本義がある。難経の内容は脈診・経絡・臓腑・病理・病態・経穴・刺鍼法について81項目にわたって論じたもので、生理・病理・診断、治療の各方面に渡り理論的に書かれていて、また独創的な点が数多く見られ、古来より鍼灸医学の聖典として黄帝内経と共に臨床応用の上で高く評価されている。

 

黄帝内経:素問上古天眞論篇 第一

 

黄帝内経:霊枢五邪第二十.

 

難経第六十九難

 

 

参考図書

古典医書ダイジェスト 山本徳子 医道の日本

中国医学はいかにつくられたか 山田慶兒 岩波新書

鍼灸古典入門 丸山敏秋 思文閣出版