四難に有る脈の陰陽から、穴の陰陽の代表である兪募穴の使用が割り出せるかどうか?と言うのを読んでみたいと思います。 |
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意訳
まずは、 | 四難で言われているとする一般的な内容 | です。 |
に対し、 | 兪募穴の書かれている六十七難 | です。 |
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意訳
六十七難では五蔵の募はすべてが陰に在って兪は陽に在るのはなぜか?
つまり陰側では有るが前面である腹部に募はある。陽側で有るが後面である背部に兪はある。それはどういう事か?と言う。
陰病は場所であれば前面である陽に行き易く、陽病は後面である陰に行き易い。
だから募は前面であるが陰側である陰に在って、兪は後面であるが陽側で有る陽に在る。
この二つが当てはまるかどうか、四難を解釈します。 |
これは心肺と腎肝の組み合わせで分けた出入りの話ですから三焦論で考えます。そのうえで上焦の心と肺が呼出を、下焦の腎と肝が吸入を行うと、しています。
三焦論で考えていると言う事は、この四難の脈は後天の話であると言えます。それは三焦は六腑の機能の代表であり水分とエネルギーの環流を起こしているであろうという理論的な存在だからです。
今現在のその時その時の瞬間の、肉体のおかれている環境や肉体そのものの状況に、飲食と呼吸で対応した結果が脈であり、それはどの様だと言う内容です。
二千年前の人は人体が大気中の酸素を吸って、それで糖を燃やしてエネルギーにしているとは知りません。しかし食べ物は一週間、飲み物は三日摂らないと死んでしまうに対して、呼吸はほんの数分止めれば死んでしまう事は知っていました。ですから呼吸と言うのは、後天の最も重要な要素と考えていました。
三焦とは下焦の肝が水を上に押し上げて上焦の心に渡し、上焦の肺が下へと降ろして下焦の腎が受けます。
これは単に水だけのループだとは考えず、呼吸にも使われているという想定をしていたと思われます。呼吸は肺が行うものですが、吸う事にも吐く事にも意味があるとして、その生理的な意味合いを三焦論経由の五臓の配当で考えた様です。
息を吐くとは言いますが、吐吸とはいわず呼吸と言います。吐くではなく呼ぶです。息を吐く時に音が伴うので「呼」と言うのです。これは吐息で発声をするというのも含まれています。声を出すと言うの能力は先天的ですが、声に意思を載せて伝達できる様になるのは後天です。
つまり息は吸うだけでなく吐く事にも意味があると考えられていたのです。
吐く事の意味は二酸化炭素の放出ではありませんでした。上焦の代表である心は、舌や声の主りをしています。意思を外に出す事にも繋がります。
吸った空気は全身を循環し、外に出す手前の上焦で意思やその肉体の体内情報などを吐気に含ませる。
本来、吐き出しは外へと向かわせる働きの「肝」が、吸い込みは内へと向かう働きの「肺」が行うと考えるはずです。
ところが三焦論なので呼吸と水が連動しています。三十三難には、木(水に浮くもの)であるはずの肝臓は水に沈む実質臓器で、金(水に沈むもの)であるはずの肺は中空臓器で水に浮くのはなぜか?という問いかけがあります。これは陰陽論の逆転で臓器を中心に考えれば、肝臓が水面から下がって行くのではなく、肝臓から水面の方が上に上がって行くとなります。肺はその逆です。肺では水面が臓器の方に寄ってきます。
ポンプであると考えてください。水が肺臓に寄って来たから寄った分だけ押し出されたのが吐息です。肝臓は上に離れて行ったので離れた分だけ吸ったのです。
そこで呼吸と脈の連動にも考えが広がります。脈は上下に波打ってその状態を指先に伝えます。上に向かって打つ、つまり触診の指先に寄って来た脈動の部分が上焦であり心肺であり、それが「浮」の部分の脈。下に向かって離れる、つまり触診の指先から離れる脈動の部分が下焦の腎肝で「沈」の部分の脈。こうする事で答えの書き出しにある心と肺が浮、腎と肝が沈の説明に繋がります。
「浮は陽なり。沈は陰なり。故に曰く陰陽なり。」
浮は脈動の上部であり、上焦の様子であり息であれば吐き出しに繋がっている部分。
沈は脈動の下部であり、下焦の様子であり息であれば吸い込みに繋がっている部分。
と言う観点で脈象のうちの後天で診る範囲に限定し、そこを陰陽分解して行ったのが四難です。
「心肺は倶に浮とは何を以って別かつか。然るに浮にして大散は心なり。浮にして短渋は肺なり。」
脈動が付き上がって触診の指に有った時の、大きく方々に広がった感じの部分は心、触れ方が短くやや遅れた感じの部分は肺。
「腎と肝は倶に沈む。何を以って別かつか。然るに牢にして長は、肝なり。按の濡、擧指に來る實は腎なり。」
脈動が引き下がって触診の指から離れた時の、離れ方が鈍く途中で止まる様な感じで指に長く触れたままなのは肝。離れて消えてしまう脈感をさらに触診の指を押し進めると水の様に力なく横に広がる様な感じがする。そうなった後に触診の指の押す力を緩めて浮かした時にかなりはっきりとした脈が触れるのは腎。
「脾は中州、故に其ね脉は在中。是れ陰陽の法なり。」
脈の上部でも下部でもない途中が中焦の脾であり、この真ん中がある事で上部と下部の区別が付き、脈を陰陽と言う分け方で様々な見方が出来る。二つに分けたならその中点を定めて二つの分離を明確にし、その二つに分けたそれぞれの様相から理論分析する事が「陰陽の法」である。
「脉に有るは一陰一陽.一陰二陽.一陰三陽.」○ | 「有るは一陽一陰.一陽二陰.一陽三陰.」 |
沈の脈に陽の脈が1~3ある。 | 浮の脈に陰の脈が1~3ある。 |
「如く此れの言う、寸口に有るは六脉は倶に動。然るに此れ言うは、非有は六脉が倶に動。謂うは浮沈長短滑渋なり。」
寸口に陽の脈3つ、陰の脈3つが共に動いている時もあるし、共に動く事が無い時もある。この陽3つ陰3つは「浮沈長短滑渋」です。
「浮は陽なり。滑は陽なり。長は陽なり。沈は陰なり。短は陰なり。渋は陰なり。」
陽は、浮、滑、長。陰は、沈、短、渋。
「所に謂う一陰一陽は沈にして滑」 「一陰二陽は沈滑にして長」 「一陰三陽は浮滑にして長。時に一沈」 |
「所に言う一陽一陰は浮にして渋」 「一陽二陰は長にして沈渋」 「一陽三陰は沈渋にして短.時に一浮」 |
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「各に以って其の經の所在。名は病の逆順なり。」
この「浮沈長短滑渋」の名の組み合わせで関わる経の様子や、これから病になるのか、もしくは治ったのかの見当がつけられる。
「浮沈長短滑渋」の脈は、必ずしも病気の判別ではなく、生理状態の様子を診るというものに近く、その様子から病も解ると言う事ならしい。
次に六十七難です。
六十七難曰.五藏の募は皆が在るは陰にして兪が在るは陽とは何を謂うか。
「然るに陰病の行くは陽。」
体内から発症した病は体表や他覚所見にその様子を反映し、
「陽病の行くは陰。」
体表から侵入した病は体内の生理現象を混乱させる。
「故に令して募が在るは陰、兪が在るは陽。」
集まると言う意味の「募」穴があるのは前面であるが腹部の陰
陰病の内容や陽病の向かった先の様子が現れる。
丸太を削った丸木舟という意味の「兪」穴があるのは後面であるが背部の陽
陽病の内容や陰病の向かった先の様子が現れる。
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