三十八・三十九難の研究

2015年4月古典研究 藤田龍太郎


三十八難の書き下し

三十八難に曰く、蔵にただ五有り、府に独り六有るは何ぞや。

然り。

府に六有る所以は、三焦を謂うなり。

原気の別有りて、諸気を主持す。

名有りて形なし。その経は手の少陽に属す。

これ外府なり。故に府に六有りと言う。


三十八難の訳

五臓が5つなのに対して、六腑は6つなのはなぜか。

はい、腑が6つあるのは、三焦があるからです。

三焦は単独でも原気を動かす働きを持ち、全身の気を支えています。

名前はありますが、実体はありません。その経絡は手の少陽に属しています。

これは外腑といいますが、これを含めて腑は6つあると言っているのです。


三十九難前半の書き下し

三十九難に曰く、経に腑に五有り、蔵に六有りとは何ぞや。

然り。

六府は正に五府有るなり。五蔵もまた六蔵有りとは、腎に両臓有るを謂うなり。

其の左を腎と為し、右を命門と為す。

命門は精神の舎る所にして、男子は以って精を蔵し、女子は以って胞に繋()く。

その気は腎と通ず。

故に蔵に六つ有りと言うなり。


三十九難前半の訳

経典によっては腑は5つとか臓は6つと書いてあるが、どういうことか。

はい、六腑は正式には五腑です。

五臓ではなく六臓という言い方があるのは、腎に2つの臓があるからです。

左が腎で、右が命門です。

命門とは精気と神気の宿る所で、男は精を貯め、女は子宮に繋がっています。

これを含めて臓は6つと言っているのです。



三十九難後半の書き下し

府に五有りとは何ぞや。

然り。

五蔵各の一府、三焦も亦是一府、然るに五蔵に属せず。

故に府に五有りと言うなり。


三十九難後半の訳

腑が5つとはどういうことか。

はい、五臓には対応する腑が1つずつあって五腑となります。

さらにもう1つ三焦がありますが、対応する臓がないので数に入れず、腑は5つとなります。


























<今回の難のテーマその1 五臓六腑について考える>

難経においては診察にしても弁証にしても五行論がベースになっている。にもかかわらず、難経の中で一般的な臓腑の表現は五臓六腑である。六腑にすると五行ベースでは考えづらくなる。なぜ五臓五腑にしなかったのか?


1、陰陽思想を基本にしたから

    たとえば四書五経は学生が学ぶべき教科、七難八苦は人の受けるあらゆる災難の事である。

    このどちらにも全てという意味が含まれている。

    奇数は陽、偶数は陰、この組み合わせは陰陽が欠けることなくそろっていることを表現している。

    したがって内臓全てを現すなら、この表記法に従い五臓六腑となる。


2、三焦の重要さを表現した

    本来の五臓五腑に部外者の一つを足すことが、その足したものの大切さを現しているのではないか。

    難経の治療は、

    六十九難の「虚するものはこれを補い、実するものはこれを瀉する」にしても

    七十難の「栄を刺すに衛をやぶらず、衛を刺すに栄をやぶらず」にしても

    七十一難の「よく迎随の気を知りて、これを調えしむ」にしても気を整えることを重視する。

    そして三焦は、

三十八難によると「諸気を主持」するもので、

    三十一難によると「気の終始するところ」であり、

    六十六難には「三気を通行し、五臓六腑に経歴することをつかさど」るとある。

    このように三焦が全身の気を管理運行するならば、治療においても重要な働きをすることとなる。その主張のために、独立した一腑を足して五臓六腑としている。


<今回の難のテーマその2 腎の両臓について考える>

三十六難と三十九難には「腎は二つあり」と繰り返し書かれている。

ここでは五臓に心包ではなく、命門を足して六臓としている。

三十八難の三焦と同じように考えるなら、この2つの臓も重要度が高くなる。

命門は三十九難によると「精を蔵し、胞に繋()く」とある。

そして「その気は腎と通」じている。 この気が、

八難では「生気の原」とされ、

六十六難では「人の生命なり」という「腎間の動気」である。

腎間の動気は2臓から出るが機能は一つなので、臓は5つと言える。

三十九難は、腎が生命力の源であり、治療にとっては大事な要素だと示している。