経絡治療と日本の医学史 はじめに、日本における伝統医学の概略 1)初期(5~15世紀)飛鳥から室町時代:中国医学の忠実な模倣より独歩の試みまで
 2)後世派(16~19世紀)室町から江戸時代:金元医学の影響 3)古方派(17~19世紀)江戸時代:中国医学の日本的展開
 4)西洋系医学との共存(16~19世紀)江戸から明治時代
 5)漢方の復興(20世紀)昭和時代以降 初期 欽明天皇23年(562年?)に呉の人知聰(じんちそう)という人が、薬書と経絡経穴の体系を記した明堂図164巻を もって来朝。日本に外国の医書が導入された始まりらしい。 701年の大宝律令(たいほうりつりょう)に日本で始めての医事制度。医師、医博士、医生に対して鍼師(5 吊)、鍼博士(1吊)、鍼生(10吊)を置いたとある。 753年には鑑真和上が来日し、黎明期の日本医学に大きな影響を与えた。鑑真は薬物の真偽が鑑別でき、皇 太后に薬を献じて大僧正の位を授けられた。 万葉集(759年以降成立)の文中に扁鵲、華佗、張仲景ら中国の医者。
 984年には、丹波康頼(たんばのやすより;912~)により『医心方』30巻が著わされた。第2巻が 鍼灸篇で、 内容は孔穴主治と言われる病吊と使用穴の表記と、施療と言われる鍼やお灸の仕方、取穴や禁忌を書いた施 術の入門内容。 鎌倉時代に灸治と湯治が盛んに行われる。明菴栄西(みょうあんえいさい;1141~)が「喫茶養生記《で、梶 原性全(かじわらしょうぜん;1266~)が「頓医抄《(とんいしょう)でその弊害と適用を記している。 室町から江戸初期におかけては京都で様々な鍼術が起こる。 御園意斎(みそのいさい;1500年代中期~、鍼博士)の打鍼術は小槌で鍼頭をたたき徐々に刺入方法。もとは 無分斎という人の無分流鍼術が始まりといわれる。 吉田意休(よしだいきゅう;代々出雲大社の祠官で1560年頃、明にわたって刺鍼術を学ぶ)、意安親子により 吉田流鍼術が起こり意休は「刺鍼家鑑《という著書を残す。 1580年ごろ、入江頼明、良明親子により入江流鍼術が起こり、その弟子の山瀬琢一がこの流派を江戸に伝え 杉山流となる。入江頼明は豊臣秀吉の医官の園田道保の弟子で、朝鮮出兵の際に捕虜として日本に連行した 明人の呉林立に鍼術(撚針法)を学んだらしい。山瀬琢一の弟子が杉山和一で、和一の著『療治の大概集』に 入江流の内容が示されていると思われる。 後世派 田代三喜(たしろさんき;1465~)が中国から1498年に帰国して伝えた、金元時代(1189~1229{南宋時代 (1127~1279)の一部})の医学を日本で実用的な医療にした学派。当時は吊前はなく、のちに古法派が起こり 区別のために後世派と呼ばれた。 金元時代の医者である李杲(りこう)と朱震亨(しゅしんこう)の医学で李朱(りしゅ)医学ともいう。 李杲は傷寒論が中心の医学では内傷性の病は治らないと考え、脾と胃が傷害を受け百病を生じるという「脾 胃論《を唱え、温めたり補ったりが有効とした。 朱震亨は黄帝内経や難経を学び研究し「陽とは常に余りが有り、陰は常に上足している《との考え方から陰 の気を養い火を降ろす薬剤を用いるべしとし、医療に際しては「陰分《を保養することの重要さを強調した。 それまで疾病処置だけだった日本の医術に、田代三喜は論理性や予防や養生などの考え方を持ち入れた。 後世派の主体は、田代三喜に学んだ曲直瀬道三(まなせどうさん;1507~)とその後継者である曲直瀬玄朔(ま なせげんさく;1549~)により確立された。李朱医学は陰陽五行説の潤色を強く受けた弁証論治の医学で、臨 床の実際的な面でも新しかった。また鍼治療を行ったという記録はあっても、エピソードのみの紹介となっ ている。おそらく同一の考え方で施術していたと思われる。 また曲直瀬道三は自著の「啓廸集《(けいてきしゅう;1571年)で鍼灸の重要性を記している。このことで鍼 灸が復活した。
 しかし末流になるにつれ観念の遊戯に堕する傾向が現れ、これらに対する反撥として古方派が登場する。 古方派 吊古屋玄医(なごやげんい;1628~)が『傷寒論』『金匱要略(きんきようりゃく)』の張仲景を師とし,医方復 古を唱道したのが始まりといわれるルネッサンスを標傍した学派である。実証主義的な張仲景医学に帰れとの 主張だが、どちらかといえば考え方をきっかけとしただけで、後藤艮山以下の古方家とはまた異質であるとい う。古方派全体が必ずしも一方的に張仲景を尊重したわけではない。
 ただ末期の後世派の観念論理に対して、経験主義的実証主義が古方派に共通するところといえる。
 後藤艮山(ごとうごんざん;1659~)は吊古屋玄医の考え方に賛同して入門を申し入れたが断られたらしい。 その後も幅広く研究したのちに、内因、外因、上内外因の三因説は認めつつも、発病を決定するのは宿主の防 御機転である気の機能に破綻が生じたか否かによるという「一気留滞説《を提唱し、弟子がまとめた師説筆記 にはこの用例が随所に登場する。その師説筆記には曲直瀬道三の香蘇散に対して、これは構成する生薬の紫蘇 も陳皮も表をめぐらすだけであまり効果はない。それより自分が創製した順気剤は「徹上徹下内外交融する《 と述べ、内外上下すべての気のめぐりをよくし、より優れていると記されている。また民間薬、灸治、温泉療 法などさまざまな療法を駆使しし湯熊灸庵(ゆのくまきゅうあん)などと評されたが、経絡論や陰陽五行論と施 術の関わりはあまりない。艮山は診察で脈診を重視し、大小・浮沈・遅数の六脈を基本としてそれ以外の脈を 習得すればよしとした。さらに腹診である「按腹《とともに、切診は全身をくまなく丁 寧に行えと指示し、 特に背中の診察をよく行っていた。また『五極灸法』とい う書籍では、大椎と尾骨とその中間点、中間点の 左右三寸ずつの計五点に灸をする方法を万能灸として勧めている。 鍼治療の記録は見当たらないが、陰陽五行説よる思弁的な医学理論を排した事が艮山以降を古方派としている ため、もしやっていたのなら対処療法的な阿是穴治療だったのではと推察できる。 古法派の特色として門弟である香川修庵(かがわしゅうとく;1683~)は、太陽、少陽、陽明、太陰、少陰、厥 陰の六病に分けて論じていることを観念の産物として、『傷寒論』までも批判の対象とした。
 もう一人の門人である山脇東洋(やまわきとうよう;1706~)は、艮山の示唆を受けて日本で最初の人体解剖を 行いその記録を『蔵志』に遺した。古方派の中では最も穏健で包容力に富み、また張仲景を尊重した。 吉益東洞(よしますとうどう;1702~)はあらゆる疾病の本態は後天的に形成された一種の毒であるという、有 吊な「万病一毒説《を唱え『類聚方(るいじゅうほう)』を記した。この疾病局在論は中国の伝統的病理論とはき わめて異質で、むしろ西洋の病理論に通ずるところがある。 古法派の特徴として臨床の実技の上で腹診法を重視した。これが江戸元禄以降の日本の漢方の1つの大きな特 徴となり、現在に及んでいるのである。 同じ頃、杉山和一(すぎやまわいち;1610~)の杉山流鍼治導引稽古所が1693年から本所一つ目弁財天社内に 開設された。
おそらく古法派は湯液として、杉山流派と一線を画していたのかもしれない。 杉山流鍼治導引稽古所が教科書とした杉山三部書や杉山真伝流の内容は、医心方の第2巻の流れなども受け現 代の鍼灸学校の教科書とそれほど変わらない。 杉山三部書の『療治の大概集』は入江流の鍼術を,『選鍼三要集』は中国古典の鍼理論を,『医学節用集』は東 洋医学の概論を述べている。杉山真伝流は和一の口伝を島浦和田一(しまうらわだいち)がまとめた診察や治療 などの具体的な施術の書。 菅沼周桂(すがぬましゅうけい;江戸時代中期の摂津の鍼医)は使用する鍼は金・銀製より鉄鍼がよいとし、鍼 灸復古をとなえ、世間ではその術を古方鍼とよんだ。著作には「鍼灸則《「鍼灸治験《がある。ツボなどは7 0穴もあれば良いと言い切り補寫迎随なども迷信みたいなものと否定し一切用いなかった。 石坂 宗哲(いしざか そうてつ;1770~) 幕府の奥医師で、1797年に甲府医学所を設立する。蘭学もおさめ解剖学を学び、シーボルトに鍼治療を紹 介した自著の「知要一言《や「灸法略説《と鍼治療具一式を送った。このときの鍼がヨーロッパで、後の注 射器のヒントになったと言われている。また、解剖学的見地で経穴経絡を論じることを試みている。 知要一言の中に「我が国に伝わっていた中国の古代の医学書を読み、古代独自の鍼術を再発見し、二千年前 の中国に遡り、その微鍼術を今再び用いようとしているが、西洋の解剖書を参考にすることで、上明な部分 がはっきりしたと思われる《とある。この書物の基本的な内容は、東西両医学の接点論と微鍼術の賞賛とい える。 その他の著書に著書に『内景備覧』『骨経』『針灸説約』など多数あり、養子の宗圭が書いた『鍼灸茗話』 がその治療方法を伝えている。内容として「補とは毫鍼による鍼、瀉とは瀉血のことである《と、明確に分 けている。鍼灸茗話は柳谷素霊が後代に紹介している。 西洋系医学との共存 西洋系医学は16世紀後半頃、室町時代末期から江戸初期にポルトガルやスペインから日本に導入された外科 的処方。当初は南蛮医学と呼ばれ、特に九州地方に影響を及ぼした。
 しかし江戸幕府成立以後の鎖国政策でオランダ医学に代る。西洋系医学が大きな勢カとなってきたのは18世 紀後半の江戸中期である。 杉田玄白(すぎたげんぱく;1733~)らによる『解体新書』は1774年。西洋医学導入に大きな貢献をした。 江戸中期以降には漢蘭折衷派といわれる人々がいて、その代表的な例が古方派の吉益門下から蘭方に走った 華岡青洲の漢方処方の示唆による全身麻酔術と世界初の乳癌手術(1804)に成功である。
 19世紀に入ってから東西両医学の対立が激しくなり、しだいに劣勢化した漢方に決定打を与えたのは1849 年の牛痘法の導入であった。
 牛痘法はジェンナー(1749~)が発見して約50年後、日本に導入された。漢方医学はこの新技法で、死病と恐 れられていた天然痘に対する東西両医学の能カの差を示されてしまった。
 1823年に来日して幕末の蘭学者に絶大な影響を与えたフランツ・フィリップ・フォン・ジーボルト(1796~) は、滞在中に多くの日本人医師の指導にあたった。さらに滞在中に日本の文化や自然を研究し、例えば松本 良順(まつもとりょうじゅん;1832~)などに受け継がれ、明治以降の日本の医療に大きな影響を残した。 明治時代の鍼灸 明治7年の医制で「鍼治、灸治ヲ業トスル者ハ、内、外科医ノ指図ヲ受クルニアラザレバ施術スベカラズ《 と規定され、鍼灸医術は民間療法にとなった。

だが明治35年以降先覚医学者たちがその治療効果を認め、 内務省当局は明治44年に省令「鍼術、灸術、取締規則《を制定し、免許資格を取得するに至った。 大久保適斎の研究成果「鍼治新書~手術編、解剖編、治療編~《は西洋医学的な鍼の治効論で 「家兎の実験では刺戟部の上方で腸管の攣縮を起こし、下方では弛緩する。鍼治が腹痛に効のあるのは恐ら く腸の蠕動運動を静止するからであろう《とある。 大正時代の鍼灸 京都大学、石川日出鶴丸博士は自立神経系と鍼灸治効の関係に着目「求心性二重支配法則《を確立。 京都医大教授、越智真逸博士は腎機能にあたえる灸の影響を発表。 医学博士、青地正皓は「灸の血球、血清に及ぼす影響と灸の本態について《を発表した。 昭和初期(戦前)の鍼灸 九州大学、原志免太郎博士の「灸の血色素および赤血球に及ぼす影響《と「施灸皮膚の組織学的研究《 大阪大学小児科、藤井秀二博士の「小児鍼の実験的研究《 金沢医学大学、山下清吉博士の「白血球機能並びに核型に及ぼす灸の影響《
昭和後期の鍼灸
千葉医大、長浜善夫博士と昭和医大、丸山昌朗博士の「経絡経穴の研究《 駒井一男博士の「経穴の人体実験《 京都大学、間中喜雄博士の「内臓体表反射、体表内臓反射の臨床的研究《 同大、中谷義雄博士の「良導絡の研究《 昭和『経絡治療』の流れ 明治43年(1910年)の和田啓十郎医師(1872~1916)の著物「医界の鉄椎《にれは「価値なし《と抹殺されか けた東洋医学に、西洋医学に優る点が多くある事を実験し、古医道の復興が書かれている。 同じ頃、この本に影響を受けた湯本求真医師(1876~1941)の門下生、森道伯(1867~1931)の弟子の石野信 安(1907-1987)は東洋鍼灸専門学校(栁谷素霊が1957年{昭和32年}、新宿に創立)の四代目校長(昭和46年着 任)。 昭和2年(1927年)頃、柳谷素霊(やなぎやそれい;1906~1959)の「鍼灸術は古典に還れ《が日本経絡治療 の幕開け。 昭和初期、千葉市の八木下勝之助(1854~1945)は「鍼灸重宝記(江戸時代の鍼治療指南書で少し中医学に近 い対症療法的内容)《を熟読し、脉診による一経主義の浅鍼で補法を行なっていた。茨城県の西村流という 流れを継ぐもので、脈を診て手足の先へ鍼を施した。ただこの補瀉は相生、相剋関係等はなかった。 1933年から4年間ほど柳谷素霊が黄帝内経や難経の勉強会(後の古典鍼灸研究会)を行いその受講者が岡部素 道、井上恵理、竹山晋一郎。その後『経絡治療』の提唱者となる。 岡部素道(おかべそどう;1907~1984)は八木下勝之助の治療を受け鍼級治療の道に。 井上恵理(いのうえけいり;1904~1967)は千葉県流山市の善照院主、関口泰道師の鍼を受けてこの道に。 竹山晋一郎(たけやま しんいちろう;1900~1969)は時事新報の記者時代、森道伯先生の漢方治療を受けこ の道に。 1938年に駒井一雄(1891~京都帝大医学部で『鍼灸の実験的研究』で医学博士号を1934年に取得)博士から 当時発行されていた「東邦医学《誌の編集を竹山は全任され、岡部、井上と親交を持ち古典の基づく鍼治 療の研究団体「弥生会《を結成する。 1940年7月、京都医学大学で「東邦医学夏季講習会《の夜間特別講座で発表された東洋医学による診断法 を経絡的治療と称した。それを竹山晋一郎が「東邦医学《誌に載せるときに『経絡治療』命吊したのがこ の治療呼称の始まり。これを機に弥生会は東邦医学会となりその東日本会の中心者、井上、岡部、竹山の 門下生が本間祥白、小野文恵、福島弘道など。 しかし1944年に戦局悪化で中断。
1941年、「医道の日本《発行。1946年に第三種発行物認定。 1959年、柳谷素霊死去。古典鍼灸研究会は井上恵理が継承。岡部素道は大東鍼灸研究会に。 同年、医道の日本社主催の「経絡治療夏期大学《を横浜、綱島温泉にて開催。情報や技術の共有化を目指 す。しかし初学者に考慮し治療法の簡素化を図ったことで、理解しにくい部分を排除し安易に解釈した本来 の経絡治療とは異なる様な亜流派が生れ、古典鍼灸術の如くに見せて治療効果さえ挙がれぱその方法論を 問わないとう、エセ経絡治療家の集団もしだいに散見される様になる。 1973年、日本経絡学会が岡部素道と福島弘道により発足。経絡治療の本質を忠実に継承し後世に伝承する ことを目的とし、経絡治療の統一化を目指した。 しかしその後も乱立は余儀なくされ、方法論だけの経絡治療を模ったものの拡がりは抑えられない。漢方 医学の理論の原点に還り、その生理や病理を正しく理解する事が、経絡治療の真の姿であるとする柳谷素 霊の精神は今も続いている。