2017年11月19日

「八十一難から考える難経の虚実」

井上雅雄 加藤秀郎



読み下し

八十一難に曰く、

経に言う。無きは実を実し虚を虚す。損うは不足にて益すは有余。是れは寸口の脉か、将(あるいは)病に自ら有るが虚実か。其の損益は何か。

然るに、是れ病にて非して謂うは寸口の脉なり。謂えば病が自ら有するが虚実なり。

仮に令するは肝実にて肺虚、肝は木なり、肺は金なり。金木は当(然)にて更するは相て平ぐ。当(然)にて知るは金が平具こと木。仮に令するは肺が実にして肝が虚では微少の気。用いた鍼では不補なこと其の肝。したがって反して重ねる実は其の肺。故に曰く実を実し虚を虚す。損うは不足にて益すは有余。此は中工の所害なり。



解説

経典では実を実したり虚を虚すことは無いとある。それは不足をより不足させて損なわせ、余りが有るものはより余りが増してしまうからで有る。これはそういった治療をしてしまった時に発現する脈状のことを言っているのか、それとも病状そのものが損益をきたすのか?そしてその損益とは一体何なのか。

然るに

この「不足はより不足をさせて損なわせ、余りが有るものはより余りが増してしまう」とは治療による病の悪化であって、寸口脈を言っているのではない。虚実とは病の状態を言っているのである。

例えば「肝が実」して「肺が虚」していたとする。

肝は木で肺は金だからこの関係では当然のごとく金が木を平坦にしようと働き、病状を正常化させる自浄作用が働くはずで有る。ところがそれをやるには、例えれば肺が実していて肝が虚していなければならないのだが、この例題はその逆である。金である肺が虚してその気がわずかであるため、実している強い肝を平たくできない。

例題の「肝実、肺虚」とは、このことが行われていない状態である。

つまり五行の循環が生体を運営していない。

そのために治療を行うのだが、この場合に実している肝に補方法はない。

そうした時に、

虚に補・実に瀉という機械的なパズルの組み合わせのような認識でしか治療を捉えていない者であれば、おそらくこの場合、まずは肝の実を瀉そうとする。

するとどうなるか。

この例題の患者は病状の悪化が進み、五行相剋の自浄作用の働きが落ちてしまった状態である。したがって正常な相生の回転も起こらない。

肝が実である以上、木剋土である脾は強い力で抑えられている。そのため脾は肺へと気の伝達ができず、肺が虚してしまっているのである。だからパズル治療の術者は脾を剋している肝を瀉せばいいと結論付ける。

生体は傷むと、状況を改善してもすぐに正常化できない。脾からの相生の流れは途絶えた状況が続く。

なので瀉されて気の減った肝にはその前の腎の気が流れ込み肝はより実してしまう。さらに肝に気を流して減ってしまった腎には、たださえ虚して少ない肺の気が流れ込んで虚をさらに進めてしまう。そこには機能の落ちている脾の気は流れ込まず、さらに肺の肝を抑え込む剋の働きはほぼなくなって、肝の実はより増すのである。

つまり肝の実を瀉した結果が、反して肺が肝の実を重ねてしまったのである。


曰く、この現象が「実を実し虚を虚す。損うは不足にて益すは有余。」である。


 これは知識やその知識の伴った経験はあっても、生体の仕組みへの理解や命への尊厳を

 身につけていない、想像力の欠けた術者の起こす治療過誤である。


では、虚実とは何なのか?


難経という書物は五行の相生相剋を、医療として整理したのではないかと考える。

そもそも五行とは、事物を五つに分類するためだけではない。

~相生相剋の意味とは~

虚実とは病気の様相ではなく、自然流動におけるエネルギーの濃度差である。

相剋という力関係から相生という回転が起こり、季節や自然界の栄枯盛衰の変化が発生する。そして五行のそれぞれには性質があると仮定され、それが木火土金水に対しての生長化収蔵となる。この生長化収蔵が自然現象の発生源となり五行分類の元となる。

木火土金水の生長化収蔵という相生の回転が、四時や四方、事物や状況といった性質とその変化を生じさせる。この変化を我々は知覚して、春とか東とか状況が上向きなどと認識する。この認識が行う分別を陰陽五行という。陰陽性質の違いを五つに分別し、結果として色体表という整理がなされる。

この陰陽五行を起こさせているのが相生五行の回転である。相生五行の回転というのは仮想であり我々は知覚できない。さらにこの相生五行の回転を起こさせているのが、相剋五行という原理である。当然これも知覚できないので仮想である。

私たちの体は、体の状態を症状で表す。

厳密にはその時折の体調がその瞬間の環境に

どう対応してるかが症状である。

我々は医療への基礎認識が現代医学である。だから症状への駆逐作業が治療であり症状発現のプロセスを医学と考える。しかし難経が目指した治療の対象は「体の状態」である。それはお腹が下ったや腰が痛いとはどういうものかではなく、それら症状は体にある程度の修復能力があれば自然に解消されるが、その修復とか治癒とかの体が持つ根本の能力が破損して改善できない状態を、どう捉えどう改善するかが難経の目指した医学である。


ではなぜ病となった体は、根本の能力が機能しないのか?

その答えは

「相剋の力関係が正常ではない」という

虚々実々や東実西虚である。

相剋の五行にとって、各五行のいずれかに虚実が起こっていることは正常である。虚実の流動が相生の回転となって自然を営む動作となるからである。だから虚実の存在が病ではない。実が実すぎたり虚が虚すぎることを異常として病源と考える。それが本来の難経という書物が示した病としての虚実と言える。

しかし伝統的に黄帝内経以前から病の状態を形容する言葉としての虚実があった。それは生体を維持するエネルギー量であったり生理動作の発動量だったりで、そういった使い方も難経では採用している。なので同じ言葉でも、示したものが違う場合を想定しなければならない。

その上で本質的な難経でいう疾病的虚実は「相剋の不具合」と言える。病因とは原理動作の不具合であるというのが、そもそもの難経という書物の書かれた意図と考えるからである。そしてこの不具合という状態を具象化して把握するために、各五行の代表を五臓とした。黄帝内経までは三焦構造のための陰陽展開としての五臓だったのである。その五臓を相生五行を飛び越えて相剋五行の配置にまで深めたのが、難経が打ち出した医学である。

しかし相生相剋五行は仮想概念である。当時の人もそのことは十分に承知していいたと思う。だから具体的な五臓の虚実の把握は不可能であり、その不可能な把握を何らかの形で代用するために、多角的な脈や経絡や五臓の生理などが新たに考え出され、五要穴に五行を当てはめて対処する状態などを明記したのである。


虚実という言葉は二重構造である

相剋五行の虚実の不具合な状態を推論するためには、具体的な把握が必要である。そのため黄帝内経に記載されている、身体部位の構造や様相の虚実という考えを難経は残した。

例えば、四十八難の脈や痒み痛みの虚実は構造や様相の虚実であり、六十一難の四診からの脈の虚実は相剋五行の不具合的虚実の推論の入り口と言える。五十三難、五十四難の七伝間臓は相剋五行の虚実の病理展開であり、十三難の色と脈と尺膚の関係は、構造や様相の虚実から相剋五行としての五臓の虚実の不具合への導き出しを説いたものである。

黄帝内経に見られる相剋論は、陰陽五行論によって五行分類された現象を、もう一度相剋論に置き直して現象の推移を明文化したものである。


素問の金匱眞言論では

春は陽を制する働きに打ち勝って伸びる、

夏は陰に向かう働きに打ち勝って無限に広がる、

長夏は何も変わらないという働きに打ち勝って陽に制限を与える、

秋は陽に向かおうとする働きに打ち勝って陰に向かう、

冬は無限に広がるという働きに打ち勝って全ての動きを止める。 


これらは各行の捉え方や関係性であり、黄帝内経のころまでの自然科学的な認識としての相剋論である。

私たちが解るものは現象だけであり、その現象を起こす動作や、その動作を起こす原理は論理的推察となる。現象から原理の状態を推察する方法が、黄帝内経における相剋論の明文化と言える。

金匱眞言論の自然科学的な相剋論に対して、陰陽應象大論で人は悲しみは怒りに勝るとある。怒っている人が悲しみを感じると、その怒りは悲しみによって収まるというのが原理原則である。しかしその怒りが強すぎて悲しみが抑えられないのであれば、それが肝実肺虚という異常状態であると推論できる。

難経はこのような形で推論できるという法則性を、原理治療論へと進展させた書物といえる。


現象ー動作ー原理という筋道のうちの

動作の部分を理論化したものが難経である

動作とは相生五行といえる。原理である相剋五行から起る相生という回転から、その回転から起こる陰陽五行という現象までが、全て動作である。そしてこの動作を人体に置き換えて、寒熱や虚実で把握できる脈状や経脈という体表観察と、体内の水穀の分配を中心にした栄衛三焦という想定概念で、生理学が展開される。

この体表観察と体内の想定概念によって、相剋五行での原理動作の不具合という意味での、五臓の虚実を知りうる手立てとする。その難経が取り扱う動作への治療が六十九難である。そしてこの六十九難の「不虚不実」の虚実は黄帝内経での現象の虚実ではなく、相剋五行での原理動作の不具合としての虚実である。それも五つのうちのどれか一つが、虚か実であるという場合の治療法則で、原理動作の不具合が発生し始めた段階の処置法則が六十九難といえる。

だから「不虚不実は経を取る」の経とは体表観察のみの診断を示し、よって「正経自生病」とは「正に経が自ら生じさせた病」で原理不具合の五臓の虚実はないという難経以前の医療であるという意味で、正にとは伝統性を指示しているのである。

難経が目指した「原理動作の不具合への覚知」には「体内への想定概念」のために、具体的な体内把握が必要であった。一度体の中がどうなっているのかを知ることで、より的確な「原理動作の不具合への覚知」の探り当てを目指した。それが三十六難の「左者爲腎.右者爲命門」や、四十一難の「肝独有両葉」や、四十二難の腑の長さや臓の重さであり、四十三難の胃の容量である。これらが直接どの臓が虚実かと示せるわけではないが、どの臓が虚か実かと知る手立ての下支えとなる。その下支えの一連が三十難から四十七難であり、その上で「原理動作の不具合の虚実」を知るために、四十八難から六十一難がある。

しかしここには、どの臓が虚実であると限定する方法は書かれていない。

脈状や経脈という体表観察と栄衛三焦という想定概念という二系統の考え方を、その時折に合わせて比率を変えながら配合さた診察論を独自に持ちながら、その配合比率に各難の記載を解釈で適合させて虚実の臓を導き出していく。体表観察と想定概念はある程度の技術と理解力が必要であり、その上で配合比率は経験値であり、記載を解釈しての適合は創造力となる。

また、六十二難から六十八難の兪穴の運用記載は手法の具体例である。症状に対して五兪穴を使い状態変化を観察して、どの臓が虚実かを突き止める手立てとなる。そして先ずは一臓の虚実を見つけ出し六十九難となる。この治療法則の運用が七十難から七十四難である。

六十九難から七十四難を丁寧にこなし、状態改善が観られなければもう一度精査し、二臓目の虚実を見つけ出すこととなる。その結果によっては七十五難の運用となる。この運用には七十六難から八十難が必要である。

六十九難も七十五難も法則であって手段ではない。母子補瀉や東実西虚瀉南補北の状態を起こすことで、難経が目指した原理動作の不具合という死病への延命処置が図れる。どの経や穴に補法や瀉法をするかではない。六十九難や七十五難がいう状態を体の内外に起こすことである。原理動作の不具合を突き止めて、どう対応するかを知る一連が二十三難から八十難であり、それを知る技術的な手立てが難経が示す一難から二十二難までの脈診となるのである。