north, south, east and west 

2017/06/18 sun

相原黄蟹


漢籍における四方についての認識には。下記のようなアプローチがあると思われる。

先ずは、天地の四方である。

点の四方は、その性質属性について論ぜられるもので、日月星辰のディスプレーであり、特に太陽の運行を基準として自然界生命現象の基軸となっているもみ方である。

<素問>

・八正神明論篇第二十六

・四時刺逆從論篇第六十四

<霊枢>

・19.四時氣篇

・44.順氣一日分爲四時篇

・77.九宮八風篇


それに対し地の四方は、土地の形状や植物の植生生活する生き物・人間などの具体的な現象について論じられている。

<素問>

・移精變氣論篇第十三


上記は『黄帝内経』における各関係論編である。


人を語る『難経』冒頭1難に「なぜ脈には12あるのにも関わらず寸口のみを取り上げるのは何故か?」の問い文中に「五藏六府・死生吉凶」の八文字がある。

前者は人としての実態・肉体のことであり、後者は種々の生命現象の正長となっている。

このように一つの事象をとらえようとするとき、その存在実態そのものと諸現象を生み出す仕組みや種々のえ寝る議の状態についてと言う二つの側面の意識を常に求めている。

更に言えば、後者の四文字は時の経過を表す「死生」と実態現象を表す「吉凶」の時間空間という考え方が含まれている。


そこで四方をこのような観点から考えると、

地球儀や地図などでおなじみの経度緯度の経緯という考え方が必要となる。

これは簡単に言えば縦と横と言うことであるが、経とは地軸の方向であってぶれることはない。

それに対し緯とは時の経過とともに東から西へと常に変化するものである。

次に最古の漢籍と言われる『易経』では、八卦中「乾坤一擲」などと用いられる乾坤は三爻いずれも陽(剛)だけ陰(柔)だけで構成されており固定したもので動きようがないとされ、他六卦は陽(剛)陰(柔)多少の差があるものの両方含まれている。

これはつまり千変万化する現象は、この六卦のしからしむるところといってよい。

(注:卦は爻と呼ばれる記号を3つ組み合わた三爻によりできたものである。爻には─陽(剛)と--陰(柔)の2種類があり、組み合わせにより八卦ができる。)


地球上における生命を含む様々な気象現象・地形形成などの諸現象を生み出す根本は、太陽からの光と熱と地球の面積の七割を占める海に代表される水に他ならない。

太陽からの光と熱は、水に働きかけその膨張収縮移動によって気象現象を起こし地域独特の気候風土を生み出し様々な生物を育み時には滅ぼしてきた。

人もまた内に海水と同じ成分を内包した36度ほど野暖かな体温をもつ生き物として生活している。

その人体を四方に区別するときに用いられるのが上下左右である。

天地空間の熱は上に向かい、水は下に向かうことから上火下水と対比させることが多い。

更に五臓の性質を加味して<上・火・心・神><下・水・腎・志>として展開整理している。

これが生命現象の根幹であり、種々の生体反応のベースで三焦理論の本となっている。(恒常性)

それに対して左右は時々刻々と変化する環境に順応するための種々の個別的な対応に即応することを意味している。

体温調節・飲食排泄・睡眠運動・生殖子育て・思想宗教・芸術娯楽など生まれてから死ぬまでの全てで後天的な要素ともいえる。

これらのことは、無限のバリエーションが存在し一つとして同じものはあり得ない。

『黄帝内経』素問:陰陽離合論篇第六に「陰陽者.數之可十.推之可百.數之可千.推之可萬.萬之大.不可勝數.然其要一也.」とあるように

このような複雑にして無限の現象変化も単純な陰陽というカテゴリーに集約できると言うことである。

更に一つは、自らの生命現象を営むために必要獲得保持している基本能力と、もう一つはそのシステムを発揮して現象に対処する個別の能力に大別して理解される。


これらのことを踏まえた上で、先ほどの四方という観点に戻ると、南北は上下と・左右は東西と等価とし、そのまま当てはめれば良い。

人としての理解として、

<南北>

南=火・心・神・命であり、生命の象徴国家にたとえれば君主に当たる存在である。

南の心は、生理現象そのものであり、心臓の拍動が停止すれば死を意味し、体温の昇降は生理状態を表現している。

更に精神作用・七情を甘受表現する人たらしむる能力をも担っている。

それらの反応は俊敏にして正直に表現され、策謀などの入り込むような余地はない。

炎は常に光り輝きあたりを明るく照らし、風邪に揺れ動く。

感情の発露が抑制鬱積すると生命力は減退し、病弱となり、時には憤死することもある。


北=水・腎・志・精であり、現時点に至るまでの個人のそして種としての歴史を継承する存在である。

北の腎は、過去からのそして未来へと津ずく先天の精の軽傷者の役割・意味を有している。

生殖に必要な能力は、精子・卵子の生成維持だけにとどまらず、両親からの遺伝能力の管理も担っている。

より良い子孫を残すために生命活動によって獲得された種々の能力のエッセンスを提供するのだが、特に母胎が存亡の危機に見舞われた場合などにはこの濃縮貯蔵された生命力のエッセンスが回復のため充当される場合もある。

精神作用の面では、志が堅固であれば泰然自若で小揺るぎもしないが、腎水が消耗すると些細な変化に動揺するようになり、生命維持や軽傷の人に支障を来す。

このように<精神>という言葉に象徴されるように南北(火水・心腎)は、存在そのものを意味している。

それに対して行うべく東西は、日月星辰が昇降するように常に千変万化する表現ディスプレーと言うことができる。


<東西>

個別の事象に対し適切に益害を判断し受取排除することが求められる。

東=風・肝・魂であり、意識化での活動を担い、外界から自らを防衛する能力のため将軍の管と称されている。

その性質から物事の起動・継続の胆力・欲望など積極的な部分を備えもつ。

ある意味人間らしさといえるかもしれない。

西=金・肺・魄であり、

種々の生理活動を円滑に行うための気化・温駆・古拙・防衛・通履作用を統括する行政の長である相傅の官と称されている。

その性質は、無慈悲なまでに高知にして正確な実行力の本無意識下で行われれ裁判官や刑履などに例えられる。

東木が起動は発展であるのに対して西金は収斂静粛をその要諦としている。


これらの事を単純整理すると南北は実態を意味する<空間>であり、東西は変化を意味する<時間>と言うことができる。


以上縷々述べてきたが、これらの事を踏まえた上で『難経』七十五難を読み解くと、

「東方実死西方虚せば」とは、

東の病因の発生つまり異常現象が発症・防衛出動しているにも関わらず、

西の内政活動はその秩序を喪失しその機能を発揮できずにいる状態を意味している事になる。

これは眼前の事象について対処することができないことを指しており、六十九難における「補母瀉子」の法の一対一の現象対応とは異なり、そのシステムの管理運営の根本的な構築に関する異常に対処する必要性を述べている。

「南方を瀉し、北方を補う」

その<システムの管理運営>とは、

三焦の生理機能に代表される恒常性機能の異常を回復改善を目的とした方途となる。

個々で用いられている<瀉>・<補>とは、巷間流布している「取り除く・奪う・漏らす」・「与える・閉じる・暖める」といった意味ではない。

<瀉>とは、「移動・発揚」の意味であり南方の能力を始動・発揚させることを表しており、

<補>とは、「充当・添加」の意味であり、北方の能力を発揚させることを表したものである。

では、それらの能力とは何かと言えば、これまで述べてきたように

南北・上下・火水・心腎・神精ということになる。

この能力は先天的に備わっていて、後天的に需要供給された気によって維持管理された安定した恒常性のシステムであるためにここに意図的に関与すると言うことは最高の英知と技巧が求められる。

誤解を恐れず述べるとすると、

南方は神命の府であり、ビビッドに反応する感覚・意識・と感情の司であり現実を反映する好転の要素といえる。

それに対して北方は、作強の管であり、常は蟄伏し精を貯蓄し技工を司る先天の要素である。

前述のように東西・南北をある意味後天の気・先天の気と表してきたが、個々では南北を更に後天の精・先天の精としてとらえ解釈する。

臨床的な立場から見れば、<神精>・<志精>ということになる。

<神精>とは、七情に代表される感覚・感情・思考などのことであり、この能力に働きかけて事に当たることを意味する。

つまり現状を正しく把握できるようにする目的のことであり、当然のことながら心の臓を治療対象とする意味ではない。

現況をビビッドに正確に把握することによって本来の正しい生理機能を回復せしめようという方途である。

それに対して<志精>とは、父母から継承された能力や本人自身が獲得してきた種々の能力のことであり、これらを発揮充当することで対応することを意味する。

これはつまり種々の現場の混乱状態を<志気>によって静粛化させ、払底する生命の気である<精気>を充当し回復安定させるのを目的とした方途である。


これまで述べてきたように、七十五難の意味するところは生理活動の根幹を成す管理システムが正しく機能しなくなったときに<神精>にアプローチをしなければ改善が見込めないことを示唆している。

これを死生吉凶命の瀬戸際の大病の対処法ととらえるのか、主訴など眼前の症状に対して対応しようとする治療とは双璧と成す別報としてとらえるかは、解釈を異にするところであろう。


ここ数年にわたり私が論述してきた1・2・3の理論に基づいて解釈すると、

六十九難は現実問題の3の中の千変万化無限の1であり

七十五難は同じく現実問題の3で、対象範囲が特定された2である。


最後に、改めて論ずるまでもないことだが、古典の解釈と実際の臨床とを直接結びつけて解釈・理解することは非常に困難であり、ものの見方考え方に何かしら一石を投じられれば由とすべきかもしれない。