平成29820日  文鍼研夏季研修会


「杉山検校生誕400年に思うこと」    演者: 時任基清


検校生誕の前後

(1)江戸開府

 1600年、徳川家康は征夷大将軍に任じ、江戸城に幕府をおいた。

 港区内愛宕山の神社はこの時に設けられた。

 太田道灌が設けた江戸城は、その後拡張された城と比較するとずっと小さい。

 当時「医学」といえば東洋医学のことで、薬品は傷寒論と神農本草経に示された生薬と、鍼灸按摩のことであった。

 江戸開府後、関ケ原、大阪冬の陣、夏の陣を経て、完全に権力を掌握した幕府は以後250年以上国の実権を握り続けることになる。


 杉山検校は伊勢の国の武家に生まれたが、盲目では武家を相続することはできず、家督は弟に譲り、京や江戸で鍼灸を身に着けることになる。しかし鍼灸の修業はかならずしもうまく行かず「生来魯鈍」として破門されるなど苦労を重ねることになる。

 杉山和一は自らの鍼灸術に絶望し、江の島の弁財天に「鍼の道に熟達するか得られないなら死を与えよ」と食を絶って祈り続けた。

 弁天は、和一の熱心さに感じたのか21日満願の日に現れて鍼に熟達することを約した。和一が気がつくと一本の松葉を枯葉が巻いたものを手に握っていた。これをヒントに和一は管鍼術を考案した。管鍼法の発明と普及は、その後のわが国で盲人が鍼灸師となることに大いに貢献したと考えられる。

 管鍼術を手に入れた杉山和一はその後も弁財天を大切にしながら、江戸府内で鍼灸に力をつけて行った。

 五代将軍が病になった折、世襲の幕府の奥医では治らなかった。呼ばれて杉山和一が治療した結果みごとに全快した。

 将軍はこれを大いに喜び、「ほしい物を何でも言え」と聴いた。和一は、「目が一つほしい」と答えたところ、本所一つ目に屋敷を賜り、ここに鍼治講習所を開いて、晴盲を問わず鍼治を指導した。

 この鍼治講習所は大いに発展し、江戸四街道の起点をはじめ、全国四十七ヶ所に作られた。

 1867年戊辰戦争の結果、全国四十七ヶ所の鍼治講習所は閉鎖され、政府の方針で「医学は全て西洋医学」とされた。

 明治10年頃、京都と東京に盲学校が作られた。しかし適当な職業教育科目がなくて困った。一部の指導者から「盲人に鍼灸を指導してはどうか」と意見があり、政府は東京大学に問い合わせたところ、「差しつかえない」との回答があった。そこでその後の盲教育の職業科目として邦楽に合わせて、鍼灸按摩が採用された。その結果我が国の東洋医学は事実上盲人の手によって継承されたのである。

 この折、東洋医学であっても、西洋医学的な基礎(解剖、生理、病理、衛生等)に合わせて診察法、内科学等を指導することが義務付けられた。

 この西洋医学と東洋医学を結びつける困難な作業を東京盲学校の奥村三策先生が担われた。


米軍GHQの鍼灸禁止

 明治維新以後の鍼灸の危機は、第二次大戦後日本を占領した総司令部から「鍼灸按摩は不潔で危険。まして盲人にやらせるのはかわいそう。」という訳のわからない理由で禁止命令が出されたことによる。当時の盲人や全国の晴眼業者は一致して立ち上がり、当時の劣悪な食糧事情、交通事情の中を苦労して焼け跡の東京に集まり、「鍼灸按摩マッサージの継続」を叫んで運動に立ち上がった。そうして我が国の盲人はこのおかげで生き残っていることを訴えて運動した。結果GHQは、命令を撤回した。

 これには、実はヘレン・ケラー女子が自筆の手紙をマッカーサーに送ったことも力があったとされる。これは、実はずっと後になってわかったことだ。


番町の検校と本所の検校

 「番町で目明き目蔵に道を聴き」と川柳にも読まれる塙保己一検校は国学者であり、古今の文献はあらかた諳んじていたとされる。

 杉山検校は鍼灸按摩の先達であり、文献にあらわされた内容の生かし方を患者の身体にどう生かすか、どう具体化するかが重要であった。現存する「杉山真伝流」や三部書は後に弟子が編纂したとも言われるが、あの時代にこれだけのものを残し得たのは奇跡的なことで、これらは今も鍼灸を学ぶ者にとって重要だ。








記念館建設以外の記念事業

 桜雲会の出版事業

 「杉山真伝流」と三部書は桜雲会から復刻出版された。


記念式典と功労者の表彰

 上記出版に加えて記念式典と表彰が墨田産業会館で盛大に行われた。このことは昭和5年に結成された「財団」の重要性を大いに知らしめた。

 一つだけ残された記念館建設は、資金面からも用地問題からも遅々として進まなかった。

 これは明治維新に「幕府の財産はすべて取り壊す」とした明治太政官の方針により鍼治講習所が取り壊され、神社だけがかろうじて残った。江島杉山神社は杉山和一を祭る社と地元町会の氏神との二重の性格を持つようになっていたので、記念館建設の場所についてもなかなか地元の同意を得られなかった事情がある。

 さらに東日本大震災の影響と建築技術者の不足もあり、建設費が暴騰したため予定より相当の多額を要することが明らかになったので、我々は各省庁、財団などをめぐり資金集めに努力した。

 多年にわたる努力と関係業団の尽力により、約1年前になんとか竣工することにこぎつけることになった。時任個人としては周りがえっさえっさと騒ぎ、時任はぼうっとしている間に立ち上がってしまったような感じである。

つまり、時任本人はぼうっとしていたが、いつの間にか記念館ができてしまったという実感なのである。


今後の問題

 全て建物は、完成した途端に劣化が始まる。この記念館とて例外ではない。記念館を維持発展させながら後世に長く伝えるには、しっかりした維持の組織を作り、組織的に支えることが絶対に必要となる。

 この件についての諸兄姉の理解をお願いするしだいである。