黄帝内径のあらまし

そもそも黄帝内径の‘黄帝’とは何か?

中国の創世神話に‘三皇五帝’と言う神様が出てきます。

三皇は一般的に,天皇・地皇・人皇(秦皇)ですが,伏羲・神農・黄帝としたり,また燧人,祝融,(ニョカ)などのあって書物により異なっています。司馬遷は三皇をただの伝説だと考えて,『史記』では五帝本紀から書かれていて,現在ある史記の三皇本紀は晋の時代,司馬貞が加筆したそうです。

司馬遷が『史記』の中であげている五帝は,黄帝軒轅(せんぎょく)高陽、(ていこく)高辛、帝堯放勲(陶唐氏)、帝舜重華(有虞氏)です。別説として伏羲や神農あるいは少昊(しょうこう)を入れることもありますが一定はしていません。

『史記』五帝本紀の第一
黄帝者、少典之子。姓公孫、名曰軒轅。
黄帝は少典の子なり。 姓は公孫、名は軒轅(けんえん)と曰う。
生而神靈、弱而能言、幼而徇齊、長而敦敏、成而聰明。
生まれて神霊、弱にして能く言い、幼にして徇斉(じゅんせい)、長じて敦敏(とんびん)、成りて聡明なり。

2行目は『素問』上古天真論 第一の第一章
昔在帝, 生而神靈, 弱而能言, 幼而徇齊, 長而敦敏, 成而登天.
と最後の‘登天’をのぞいて同じです。

‘黄帝’とは中国の創世に関わる神様ですが、なぜ医学原典である黄帝内径にその名前が載ったのか。

その前に中国には伝統的に、二系統の考え方があります。

一つは社会をとらえた‘儒’という考え方。
これは春秋時代末期に現れた孔子(BC551〜BC479)を祖とする中国を代表する思想で、
ほかに孟子(BC372〜BC289)、荀子(BC298?〜BC235?)などに系譜され、前漢時代(BC202〜AD8)までにかたち作られました。

基本原典は『論語』で、これは孔子の弟子の編集による孔子の言行録です。

人為に重きをおいた人間中心の思想で、祭祀・儀礼を重視したのも、信仰ではなく政治的儀式を目的としたからでした。内容はによる社会秩序の回復と維持、政治は力ではなくにより行われるべきである、という理想主義。徳の中で最も重要なのはであり、その基本は、つまり祖先や親への愛や道徳であるとする考え方です。

に対してもう一つは自然をとらえた‘道’と言う考え方です。

基本原典が『老子』『荘子』であることから老荘思想ともいいます。
戦国時代(BC403〜BC221)の老子荘子楊子列子や漢代の劉安(りゅうあん)などがまとめました。
劉安は漢の武帝時代の淮南(わいなん)の王(BC179〜BC122)で『淮南子』を編纂した人です。

戦国時代の末期ころには、老子と黄帝に対する崇拝が融合して黄老思想となり、この黄老思想は秦(BC221〜BC207)の頃の過酷な統治への反動として起り、前漢時代(BC202〜AD8)に全盛を極めました。

このときの黄帝のとらえ方は、天と人間とをつなぐ神話上の王で、文明の創造者です。

老子は欲望や知識をしりぞけ自然(「」)にしたがって国を治めるという無為自然の政治学を説き、それを儀礼あるいは制度や罰則といったもので国を治めようとした儒家や法家へのアンチテーゼとしました。

荘子は『老子』の政治理論を純粋な自然への思想・哲学として発展させ‘道’のもとにある万物斉同という考え方を説きました。

道(Dao、タオ)とは?
気を万物に流れるエネルギーととらえ、道は気の流れをつかさどる法則のようなものと考え、老子は‘道’をそこから万物が生まれ出る母胎(≒無)と考えたようです。

そして‘黄帝’の存在は、この‘道’の源流という創世信仰があったようです。

つまり‘黄帝’の名を冠することで‘道’という考え方が底辺にあるといえます。そして‘道’という考え方の発展は劉安が『淮南子』を編纂したことにより、当時の自然科学の基盤にもなりました。劉安の時代より少し前に黄老思想の全盛が始まり、文明の創始者とされた黄帝は当時の自然科学の基礎理論である‘陰陽五行論’の創始者に祭り上げられます。

そのことが、『史記』五帝本紀の第一に

時播百穀草木、淳化鳥獸蟲蛾、旁羅日月星辰水波土石金玉、勞勤心力耳目、節用水火材物。
時に百穀草木を播(し)き、鳥獣虫蛾を淳化し、日月 ・星辰 ・水波 ・土石 ・金玉を旁羅し、心力耳目を労勤し、水火材物を節用す。

とあって、星辰=木 ・日月 =火 ・土石=土 ・金玉=金・水波=水 節用水火材物を水=陰、火=陽と、解釈できます。

黄帝内径は前漢時代の終り頃にその編纂が始まったと言われています。

それ以前の医学は『史記』卷百五・扁鵲倉公列傳第四十五の扁鵲が行っていた医術が主流で、「三陰三陽」論という考え方が医学の基盤でした。その三陰三陽論を‘陰陽五行論’をつかって医学的発展をねらったのが黄帝内径といえます。

つまり黄帝内径は、三陰三陽論をどうにか陰陽五行論に置き換えていこうとした書物だとして読むと、その内容の輪郭を把握しやすいのではないかと考えます。

ただし黄帝内経は「素問」と「霊枢」からなりますが、それは仮説でしかありません。
晋の時代に皇甫謐(こうほほつ)と言う人が『鍼灸甲乙経』(282年)を書いたときの序文で、素問九巻、霊枢九巻よって漢書芸文志に示されている黄帝内経十八巻となると書いたからです。

黄帝内径でも素問は、

医術の伝達と言うより人体と大自然との関連性を説いています。
このときの脈法が顔面の片側三カ所、腕の三カ所、足の三カ所で九カ所、両側で十八カ所も診る‘三部九候診’という、とても扱うのにはやっかいな方法をとっています。脈診の始まりだからと言う説もありますが、それ以前の扁鵲の時代には橈骨動脈拍動部を使っていましたから、わざわざこのやっかいな脈診法を使う必要があったのです。
その必要とは、人体からの詳細なデータが欲しかったからだと考えます。それは人体を通じて‘陰陽五行論’により大自然を把握して、新たな医学に必要な自然科学的なものの作り直しを目指したからと思われます。
素問の中でもその集大成が「四気調神大論篇 」と「陰陽応象大論篇」です。

霊枢は、

実際に鍼治療をどのように行うかという、いわばテキスト的な書物です。
脈法は人迎ー脈口(気口、寸口)をつかい、兪穴の区分や五臓六腑と経絡の連結、補瀉の具体的な方法も出てきます。
陰陽五行論による整理がすすみ、文字と行の間に線を引けばそのまま表になってしまいそうな箇所も、多々あります。
鍼法の集大成として「九鍼十二原」と「邪氣藏府病形」があります。

黄帝内径に対して『難経』という書物は、

二世紀の前半に書かれたものだと言われています。
中国は後漢の時代で場所はおそらくは洛陽もしくは西安だと思われます。『難経』は『黄帝内経』の流れを受けて書かれたものだと言われています。『黄帝内経』は一世紀の終わり頃に完成したと思われますので、その後100年と経たない間に書かれたわけです。

『黄帝内経』と『難経』との大きな違いは、特に『黄帝内経』の中の「素問」は数百年に渡って幾人もの人達が綴った論文形式の文章を「黄帝」の名前を掲げた学派の人達が、紀元前四世紀頃から編集し始めたものだと言われています。に対して『難経』はおそらく一人の人間もしくは一個の小集団によって、それほど長い期間をかけずに書かれたのもではないかと言われています。

その人間というのが‘扁鵲’と言われもしくはその本名の‘秦越人’です。

‘扁鵲’は『史記』の〈扁鵲倉公列伝〉という項目で紹介されている周の時代の歴史的な名医です。『史記』の記述をそのまま受ければ‘扁鵲’は400年間も活躍し、当時の中国全土の中を神出鬼没に現れます。当然一人の人間ではないわけで、おそらく‘扁鵲’と名乗る医術集団があったと思われます。

『黄帝内経』の流れを受けて書かれたものと言われる『難経』ですが、特に五行論が基本になっていることが特徴ではないかと思われます。五行論は『黄帝内経』の「素問」に色濃く出始めて、「霊枢」のほとんどは五行論で書かれるようになり、内容も含めて『難経』へと移行されます。しかし特に「霊枢」と共通性を多く持つ『難経』ですが『黄帝内経』全体とも合致しない部分もあります。

おそらく‘扁鵲’の名前の『難経』の作者は、
当時すでに中心医療となっていた黄帝を名乗る医術集団の理論の中に、伝統ある扁鵲を名乗る医術集団の考えを当てはめることで、独自の完成を志したのではないかと思われます。
“それが『難経』という書物である”と言えます。

つまり、
外的環境との交流を重視した‘邪気論’と、その有り様を分別する手段としての‘五行論’を基本においた『黄帝内経』の流れを受け継ぎながら、生体内部の変容を重視した‘三焦’‘三陰三陽’をよりベースにしていたであろうと思われる‘扁鵲’を名乗る、周の時代以前からの伝統医学を加味した医学書であると言うことです。
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ところで難経の難とは?

九鍼十二原第一の第二章に「小鍼の要は陳べるに易く入るに難し(小鍼之要, 易陳而難入)とあります。
この「難」とは単に難しいという意味でもありますが「難入」とあることから、いまでいう「奥義」というような意味もあります。
この「小鍼」を取り扱うことについての「難」奥義について「経」書きましたよと言う意味の書物かと思います。

難経という書物の最大の意義は、
『六十九難』と『七十五難』という治療法の発表と、それ以外の難によって、この発表された治療法を裏付けした事と言われています。これら二つの治療法を確立した経緯に、「十変」という古代書物からの五兪穴に対する五行配当や、五邪という独特の病理学を必要としました。ただし五行論で考えた場合、『七十五難』は論理的に崩壊しています。
つまり東西南北という空間を表した言葉を使った段階で、相乗相克関係は成り立たなくなっています。
「東方實.西方虚.瀉南方.補北方」この言葉に五臓を経由して三陰三陽を配当した場合「足厥陰實、手太陰虚。瀉手厥陰、補足少陰」となります。なにか論理性が予感できます。
三陰三陽論は黄帝内径以前の伝統的医学理論で扁鵲派が使い、そして橈骨動脈拍動部の脈状診も扁鵲派の流儀でした。五行論は黄帝学派が三陰三陽論からの発展をねらって医学に導入したもので、そのため黄帝学派は「三部九候診」や「人迎気口診」などより詳細に自然科学的データの採れる比較脈診を使っていました。
難経の作者は、この二つの医学理論の共通有用項目を『七十五難』によって抽出しようとしたのではないでしょうか?
当時、何かの都合で、まだ未完成であった『七十五難』の発表を迫られ、この難経が今に至っているのではないかと思います。