古典に親しむ~中国史編~


                              H2410月基礎講座


中国の歴代王朝


(三皇五帝時代)、夏、殷、周、(戦国)、秦、漢、三国、晋、南北朝、隋、唐、五代、宋、元、明、清、中華民国、中華人民共和国

このうち我々が使うであろう「黄帝内経」「難経」の成立に関係するのは晋代までです。



中国の文化圏とその中心について


中国の形を大雑把に見ると、北を底辺(正しくは上辺)とした下向きの三角形です。

上辺はロシア、モンゴル、左辺はベトナム、インド、アフガニスタン、右辺は朝鮮半島と東シナ海に接しています。

北の上辺がだいたい北緯50度、南の尖端が北緯20度ですが、中国文化が生まれて栄えてきたのは北緯35度から32度の間で真ん中から右辺までのあたりです。

北緯35度と32度のラインには、それぞれ大きな川が一本ずつ西から東に流れて東シナ海に注いでいます。上が黄河、下が長江です。特に黄河の中下流域は中国最大の華北平原を持ち、古くから中原と呼ばれてきました。

大河が生む豊かな食糧は、人口を増やし、都市を作って文化と政治を生みます。

古代から近世まで、ほとんどの主要都市がこの黄河と長江に挟まれた地域にありました。

中原を支配することが天下を手に入れる近道であり、ひいては天下取りそのものでした。



三皇五帝時代と夏、殷、周、戦国時代


儒教によれば、天下を治めようとする時に周囲を武力で制するのを覇道、仁徳で従えるのを王道と言います。

歴代王朝のうち、三皇五帝時代と夏、殷、周までは王道によって治世されていたということになっています。これは後世の美化された思い出であって、実際の政治は礼政一致、統治は封建制度です。もちろん王朝の入れ替わりも覇道、つまり武力でなされました。

夏は周に倒され、周は西戎という遊牧民族に倒されてその後起こる春秋戦国時代に飲み込まれてしまいます。



~秦代~

小国が乱立した戦国時代から勝ち上がり、初めて統一王朝を作ったのが秦でした。

秦は皇帝を創始、度量衡と文字の統一、万里の長城建設と、今の中国の基礎を築きました。

政策は法治主義、統治は郡県制を採りましたが、先進的過ぎたようで各地で反乱が起こり、15年で滅亡します。

反乱はやがて項羽と劉邦による天下取りの戦い(楚漢戦争)となり、劉邦の勝ちで決着が付きます。


~漢代~

劉邦が立てたのが漢、途中途切れた期間はありますが400年続きました。

政策は初期には黄老思想、後に儒教を採用し、統治は群国制からしだいに郡県制へ移行しました。

対外的には西は匈奴を倒してシルクロードを開通し、南はベトナム、東は朝鮮を征服して今の中国の領土の大枠を作りました。

経済的には物価統制、塩と鉄の専売を行いました。

文化的には初めて史書が書かれ、紙も発明されました。

ここでようやく我々になじみの深い、医書が世に現れます。

「黄帝内経」です。AD82年の「漢書」に医書として記載されています。

「素問」は医学、天文学、占いといった自然科学書、「霊枢」は鍼の実用書です。

BC112年の満城漢墓から金鍼、銀鍼が出土したこと、BC130年代出土のレリーフに鍼医が描かれていることから成立年代はBC150年ごろまではさかのぼれそうです。

ただしBC190年前後の馬王堆、張家山といった遺跡から出土した医書の中に鍼の書はないので、BC200年前後はまだ鍼治療がメジャーではなく、「霊枢」成立はそこまで古くはないかもしれません。

そして「難経」、「傷寒論」が現れます。

「難経」の著者は不明、初出は「傷寒論」序文に参考図書として挙げられています。

特徴は1難の寸口脈診と69難の子母治療です。

「傷寒論」の著者は張仲景、特徴は病気の型を6つに分けた三陰三陽論です。

成立はAD200年となっており、これを信じるなら参考にされた「難経」はそれより前になります。

「難経」は後漢第三代の章帝の名前、火偏に旦の字(タツ)を避けて書いているという説から、

AD88年以降の成立ということになりそうです。

張仲景の時代には外戚と宦官のため漢帝国の力は衰え、三国時代が始まろうとしていました。


~三国時代~

三国時代は魏を立てた曹操とその他大勢の時代です。

中原を軍事力で支配した魏は書や詩といった文化事業を奨励し、文化人を取り込むことにより儒教官僚の権力を削ぎました。

文化と軍事をリードした魏に対し、山に囲まれた荒れ地の蜀と南の未開の地である呉では勝負にもならず、ひきこもるだけでした。


~晋代~

魏がほぼ天下を取るはずだったその時にクーデターが起こり、時代は晋王朝へと移ります。

ここで現れた医書が「鍼灸甲乙経」です。

著者は皇甫謐、没年からすると成立はAD282年以前です。

「鍼灸甲乙経」の特徴は、その当時の「素問」「霊枢」を抜粋、編集したものである点です。

現在、漢代成立の「黄帝内経」そのものは残っておらず、「素問」は唐代の王冰が、「霊枢」は宋代の史崧が改編したものかあるいは「太素」というかたちで唐代の楊上善が編纂したものになります。

「鍼灸甲乙経」はこの中で成立が特に古いため、引用されている「黄帝内経」が最も原型に近い形で残っていると思われます。もし「黄帝内経」をはじめとする古典を読むときに疑問が生じたなら、時代の違うものを参考にしたり、他の人が改編したものにあたるということが出来るわけです。