一難曰
十二經皆有動脉.獨取寸口.以決五藏六府死生吉凶之法.何謂也.
十二經の皆は脉に動きが有る。獨り寸口を取り、以って五藏六府の死生や吉凶を決する之法、何と謂う也。

然.寸口者.脉之大會.手太陰之脉動也.
然り、寸口は脉の大会にて手太陰の脉の動也。

人一呼脉行三寸.一吸脉行三寸.呼吸定息.脉行六寸.
人の一呼で脉は三寸行き一吸で脉は三寸行き、呼吸の定息では脉は六寸行く。
人一日 一夜.凡一萬三千五百息.脉行五十度.周於身.
人の一日一夜で凡(一般的)に一萬三千五百息(6.4秒で1呼吸つまり約1秒で脈は一寸行く)、脉は五十度行きて身に於いて周る。(1秒で一寸なら一日で八万六千四百寸。これは身体を50回巡った全距離ですので、1回は千七百二十寸で約三十間で54E。一つの経絡は平均4.5E=二間半=十五尺=百五十寸)
漏水下百刻.榮衞行陽二十五度.行陰亦二十五度.爲一周也.故五十度.復會於手太陰.
漏水が下ること百刻(一日に百滴落ちる水時計を使った場合)。榮衞は陽を二十五度行き、陰も亦(また)二十五度行く。一周を爲す也。故に五十度、手の太陰に於いて復(ふたたび)(会)
一日に百滴落ちる水時計というのは仕組み自体がおかしいと思う。そこに人を配置させて永遠と数えされるという不合理が生ずる。実はここで言う物象は(一呼脉行三寸.一吸脉行三寸)のみであとはそこからの推察ではないのだろうか?と思われる。三寸というのは橈骨動脈の脈拍が手で取れる長さ。定説的に上記のような計算をして一寸=1秒だから6秒で一呼吸というのではなく、つまり一呼吸で動脈が6回拍動すると言う意味ではなく、一呼吸で2回、橈骨動脈拍動部に指が三本おける長さの所を何かが通り過ぎると言う意味だと思われる。
そのうえで(漏水下百刻)。まず一日に百滴たれるとはおおよそ15分に一滴である。このぐらい微細な穴から滴り落ちるという場合、よほどの水圧ではない限り15分に一滴というペースはそれほど影響されない。そしてその水が入って落とすための穴が開いている瓶は一日百滴ほどの水を、もしくはそれが一週間分ストックできるだけの大きさだとしてもたいした水の量ではない。
つまりペースが乱れないと言うことを意味として含んでいると思われる。どういう事かと言えば動脈官の拍動ではなく生体現象と感知される‘脈行’もしくは‘脈動’であると言うこと。脈官であれば運動や興奮や睡眠でペースが変わってしまうからである。そういった意味を伝えるべく水時計で計ったかのような例えを使い、その上で百刻という数字の意味がでてくる。
1日=百刻=五十度とは、二刻=一度。‘度’は温度のような単位ではなくこの場合は単なる回数。何の回数かと言えば(復會於手太陰)橈骨動脈拍動部に一巡して戻ってくる回数である。
(榮衞行陽二十五度.行陰亦二十五度.爲一周也)の陰陽は第一字義として昼夜を意味し、そのうえで第二字義として昼と夜のその表裏の寒熱を意味している。(漏水下百刻)でペースは同じと宣言している以上は、夏も冬も昼夜は同じペースの二十五度ずつなのである。何が変わるかというとそれぞれの一度々々の内容である。その内容というのが‘表裏’とそれの‘寒熱’である。
そしてなぜ二十五という数字かと言えば、二十五は5×5で、五行が五回運行することを意味する。さらにその陰陽である。なぜここで五行をさらに乗算して強調するかと言えば、あくまでも五臓六腑や経絡が外界交流している際の反応として、脈の変化が現れることを意味させたいからである。
このような理由をふまえて経と五臓六腑を脈において診察可能と意味づけている。その上で百刻という数字の意味は‘二刻=一度’一度の中に二刻、つまり陰と陽があると言うことになる。そのためあえて(漏水下百刻)の表現をとって、五十度の各一度を二分割して百という数字にしたミニマムによる陰陽と五十度を二分割した陰陽二十五度ずつというマキシマムの陰陽で、ミニマムとマキシマムの両展開性を示し脈からの診察による理論の発展性を示唆しているのだと思われる。この理論的発展性の示唆を、約30分に一度、脈が変容することを経験則として知覚したことをふまえて、数字を使った表現で文章化したものと思う。
寸口者.五藏六府之所終始.故法取於寸口也.
寸口は五藏六府の終であり始である所にて、故に寸口に於いて取る法也。