六十九難

六十九難曰.經言虚者補之.實者瀉之.不虚不實以經取之.何謂也.

六十九難に曰く、經に言う虚は補し実は瀉す。不虚不実では以って經を取るは、何を謂うか?

然.虚者補其母.實者瀉其子.當先補之.然後瀉之.

然るに、虚は其の母を補し、実は其の子を瀉す。当に先ず補し然る後に瀉す。

不虚不實.以經取之者.是正經自生病.不中他邪也.當自取其經.故言以經取之.

不虚不実では以って經を取るとは、是れ正經自生病。他の邪に中たらざるなり。當に自ら其の經を取る。故に以って經を取ると言う。

自:おのずから。ひとりでに。「自生」「万物将自化=万物マサニ自ラ化セントス」〔老子〕

この難は、

「虚者補其母.實者瀉其子.當先補之.然後瀉之」

「不虚不實.以經取之者.是正經自生病.不中他邪也.當自取其經」

の二つに分かれています。

ポイントは、はじめの部分は虚実のいずれか、もしくは両方があると言うこと。
後の部分は不虚不実であること。
はじめの部分の虚実のいずれか、もしくは両方がある場合は「虚は其の母を補し、実は其の子を瀉す」という治療法則を言っています。この時の「其の」とは後の部分の「自」ですが、これを並べると「母ー自ー子」となりこれを五行に当てはめたときに、例えば「自」を「木」として「水ー木ー火」となります。この母子という例えは「相生」と言う「生む」から出た言葉ですが、もう一つ、人が生まれていく時間的順番を言っています。つまり人を「時間論」で考えたものという意味合いがあると思われます。
「時間論」とは「空間論」との対で、物事の変化を把握する考え方です。「空間論」がものの大きさや形の変化を捕らえる考え方に対して、「時間論」は能力の発揮の仕方や現象の変化を捕らえるための考え方です。
これは‘宇宙’と言う言葉が中国古典を読み砕く概念として普通にあって、宇=空間論、宙=時間論です。
この場合、人体の何を捕らえるか?というと当然現象の変化な訳ですが、特に後の部分で「邪」と言う言葉が出てきますから、邪によって翻弄された人体の表現です。
例えば木が邪に翻弄されたとしてこの木は‘肝’なのか‘風’なのかですが、おそらく‘実’だけでなく‘虚’もあるわけですから邪気の種類の五行ではなく‘肝’が邪気に翻弄されて虚したり実したりしているんだと思われます。
そして‘肝’が‘虚’なら母である水の‘腎’を補し‘実’なら子である火の‘心’を瀉すわけです。
この補瀉は腎を補するようにしなさい、心を瀉するようにしなさいという結果論です。そのために腎経を治療すれば補になるのか、それとも補法を加えるようにするのか、もしくは腎が補になるようなことを、何か別のやり方で行うのかは解りません。それは後の部分に「経」と言う言葉が出てきますが、これは「不虚不実」のときにはじめて「経」を使うのか、母補子瀉の法則でもそのまま経に当てはめるのかがはっきり解らないからです。
そしてその「不虚不実」とはどんな状態の病なのか?それに対する「正經自生病」とはなんなのか?どうして母補子瀉の法則と六十九難でカップリングされているのか?
そのへんからこの六十九難を展開できたらいいかと思います。