〜医の心構え〜臨床臨証記  

加藤秀郎

 禅の発祥は私たちが志す医学よりも新しい。
 三国の頃まで後にいう禅は、中国が継いできた幾重のものの中に漂うかたちであった。隋から唐にかけて、仏教と供に入ってきたインド思想の経典を翻訳する際に、共通項目として中国文化の中から発見し抽出した。
 それは東方の地の人々が生活として持った工芸の中にあった。
 全東方域に分散していた各地各個人の持つ手法、その手法に張り付くように、しかし技術伝承の中核として漂う禅の萌芽が介在していた。その介在が価値となって経済交流を産む。分散していた集落が交流を経て文明国家へと昇華したとき、各地方の工人達は自らの仕事を通じてその心構えの共通性を感じあった。
 精神性とはある時代に突如として出現する天才が発見して抽出するものである。
 唐代の文人陸羽は茶の道の精神性「方丈の間を越えず」を、千利休の700年も前に「茶経」の中で著していた。そして「茶はその心がわかれば茶器も茶具もいらない」といった。
 これも抽出以前の禅の持つ精神性である。
 そこから私たち医療家のことを考えた。
 「黄帝内経」は神仙の存在を否定しながらも、真人、聖人と呼び方を変えながら求道を説く。道家の持つ自然原理を医学の中核としながら、唯物的でない神仙を儒家の冷淡さで否定している。しかし心構えさえ学問の範疇に入れたため、求道精神の具体例を仙人に求めざるえなかったのは、禅が抽出される以前の書物だったからと思う。
 私たち経絡治療家がその術の修得期に、特に繰返し指導を受けるのは姿勢である。それは心掛けという意味の姿勢ではなくて、言葉本来の身体の姿勢である。その上で心掛けの姿勢の方も入っていた。
 立ち方、背すじ、手の置き方、目線、鍼の持ち方。一つ一つを念入りに仕上げていって、心掛け〜心構え〜禅の精神を入れた。
 身体に於いて立つ以上の力はいらない。手に於いて鍼を持つ以上の力はいらない。触診に於いて施術に於いて手首から先は道具として分離した意識に置く。施術部にも患部にも視線を落とすことは避ける。手首から先、指頭からの入力情報を無為に受け入れること。その分析と判断のための意識以外はいらない。
 ようやく修得した身体姿勢の次に待っていたものは、いままでのは禅の精神を入れる器の形成で、その指先から人の精神まで観ようというこの医学の、これから進み入る「茶器も茶具いらない」〜心構えだった。
 
 心構えといえば「医は仁術」という言葉が浮かぶ。
 これは内から外を見たときの言葉である。もしくは外のものを内に入れた言葉であるが、禅の精神に於いては自らの皮膚より内側に限っていて、いまここではそれより外の話はしていない。つまり対人対社会といった話ではなく治療家個人の内部処理についてである。
 私たちは術者である。
 自分自身の存在は、自分自身の技量に依存している。その技量は少しの身体能力と、そのぶん唐の時代頃に抽出された禅に近いような精神性が多い。というような構造的特徴を持つ。その禅に近いような精神は五感を入力感知器という道具に変える。さらに入力情報を無私のまま処理させ六感付近にまで立ち上げていく。このときの分析結果をはじめて漢方理論といういわば通常精神の思考に乗せ‘証(しょう・あかし)’を決定する。
 証とは治療内容を多分に含んだ手段である。
 言葉だけ取れば使用経絡を特定しただけになる。
 肝虚証、脾虚証、肺虚証、腎虚証とあって、それぞれに足厥陰肝経、足太陰脾経、手太陰肺経、足少陰腎経を使う。五臓のうちの‘心’が無い理由は理論になってしまうためここでは避ける。経絡治療は大きくこの4つの治療法しか持たない。
 そしてかく経絡を使う意義に、症状緩和の目的はない。
 いまその身体がどうなっているのか、に最終的に対応する。そのどうなっているのかを知る目的に陰陽論を使い、手段として五行という分析方法を採る。それは、禅に近い精神が五感から入力感知した情報を六感付近にまで立ち上げた以降、いわば通常精神の思考が行うことである。
 
 このページを作った目的は、理論に乗らない部分を書く場所が欲しかったからである。経絡治療家を目指す初学者がまず戸惑い、治療家として独立した以降も終始悩み続けるのがこの証の決定である。一つには治療方法とは症状に対する緩和策という、西洋医学的概念が邪魔をする。もう一つに東方文化の土台に必ず居座る禅に近い精神性という物への無配慮があげられる。
 証を決定する手前の、つまり通常精神の思考に到達する以前の、五感を入力感知器に変え六感付近にまで立ち上げるプロセスを、修得する機会がないのかと思う。むしろ知らずに過ごしているように見える。
 それには理由が一つある。
 宗教との色分けが曖昧だからだ。
 では宗教がいけないことなのか。
 そんなことは絶対にない。近代から見れば古代は社会の仕組みそのものが宗教であった。当時は宗教という言葉さえなかったから、禅と同じく抽出され、そしてその時代はもっと後に来てからだった。ところでなにも、ここで宗教を賛美しようと言うのではない。我々の文明がどんな物の上に乗っているか確認しておきたかった。そこから伝統医療と近代医療を曖昧無く区別できると思ったからだ。
 そこで宗教が抽出された時代と経緯はどんなものだったのか。
 それはかなり近代に来てからの事だと思える。おそらく物理科学という物差しが産まれたときに、その物差しがあたらなかったという理由ではじめて人々の意識下に投げ出された。そして意識下の中でも投げ出されたそのフィールドは、神秘という区分に集約されていたところだったため、こんにちの一般的な宗教観をうんだ。
 では、宗教の発祥をすこし考える。
 いまから5000年くらい前に四大文明が起こるわけだが、それは1万年以上続いた農耕の蓄積による人口増加からだった。そのため自然を尊ぶことから特に太陽を中心にした崇拝が産まれる。自然に対応するための信仰が、王を中心にした社会制度となって、多くの人達の統一された力が文明国家を駆動するにまで高まった。それが文明の起源でありその起源の元として宗教があったと知られている。そして易という技術の介在が、その信仰心をおおいに盛りたてていった。
 しかし古代であっても時代は進む。
 しだいに複雑味を帯びてくる世の中を、もっと効率よく運営するため、新たな原理を説く運動が起こる。例えばそれが後のキリスト教や仏教であった。中国で言えば諸子百家の時代がそれである。この時代に後の道教や儒教へとなるものが起こるが、同時に法律や戦闘術なども新たな社会原理という概念で起こった。
 「自分たちの編み出した原理は社会のために有用である」とは、(社会運営に必要な全ての要素に有用である)と、いう意味である。〜社会運営に必要な要素〜政治、法律、土木、建築、経済、流通、農耕、医療、工芸そして風習、習慣、礼節、教育や他人と分かち合う気分までも含む。その原理が結局はいま見れば宗教と映り、伝達方法が易に見えるのである。
 話をもとに戻していきたい。
 禅と神秘は感覚的につながる。しかし医療や工芸は禅どころか、まして神秘などとつながってしまえば、現代に於いてはただのまやかしである。昔のものだからと言ってしまえば技術伝承の核心から離れ、うとましいただの迷信へと落ちる。
 大切なことは古来に発生した東方の文化に、なぜ禅の近似値的精神が宿ったかである。
 それは文明起源の明け方の時期に属す。
 社会に制度というものが芽生え、その制度のようなものの中では職というかたちである程度の民間区分が生じる。職という鋳造は職能へと鍛かれ、たがいが歯車と成った連結は文明国家へと連なる。そしてその一方では各個戸の生業を生む。生業は、日々繰り返す鍛錬された技のかたちで営まれていた。この鍛錬された日々の技は後天性反射にまで染み込んでいて、すでに意志とは分離した“手”そのものを知育している。
 これを“慣れ”と言うのかもしれない。
 しかし、宿った。
 宿った段階では知覚されていないのだが、文明起源から夏、殷、周へと時代が進んだとき、習慣の中に埋もれていた‘意志と分離した手による技の成功’を、もはや見逃さずにいる土着思想があった。その土着思想は反射までに染みた手による技を、神性と見たことが始まりと思う。
 これは工芸だけに限ったことではない。
 意志から離れた部分で起こる、習慣に埋もれた密かな成功。
 例えば誰もが人と接するとき、何か特別な情念を相手に抱いた場合、そのあいだをガラスか何かで隔てられながら、強く意識された実在性だけが残ったかのような感触を得る。このときははっきりと相手の存在、相互の距離を意識する。ところがとりたてて双方の私心が薄い場合、互いの気持ちは自然と交叉していてうち解けたことすら意識しない。「卓越した技芸の果ての禅の精神」というたいそうなものではないが、もしかしたらこの感情的経験の方が先で、意志と分離した技は、その例えや裏付けとして見つけられてきたのかもしれない。
 ー老荘思想の発端はこんな所にあったと思っているー
 ところでこれは漢方理論になってしまうのだが「骨の髄に染みる」という言葉がある。骨の髄には何があるのかというと、腎臓から供給された‘精(せい)’がある。精は生体維持の中核である。精が発した生命反応を‘神(しん)’という。神は生命活動の中枢である。精神という言葉はここから生まれた。
 一般認識の‘神’と「生命活動の中枢」という説明とではずいぶん違うものととれる。‘神’という言葉は、人が作業として発揮した能力の最も高度な内容を言っていたのではないかと思っている。
 どうもなかなか医学へと話の筋が戻れないでいるが、漢方における‘証’という非常に合理的な治療形態の話をしたいのがこうなっている。そこで合理というものが、人の習性かそれよりも生理ではないかという私的解釈に基づいた説明をすすめる。
 5000年前に起きた四大文明は全て農耕から建ち上がっている。特に中国が農耕から自然観察へとむいたその内容の独自性は、四季の変化と内陸であったことの影響が特徴である。内陸であったことから食料は農作物が中心であった。しかし四季の恩恵から多彩な作物を授かったため、決して貧相な食生活ではなかったようである。ただ必ずしも生産供給は安定しているとはいえず、洪水や干ばつの打撃は受けていた。そして常に生産量の増大が命題であった。この安定供給と増量生産に人知が果たした役割は、易と農耕技術である。たった一つの農産物の種をまく時期を誤れば、その翌年の食糧確保はままならない。なぜなら連係して種をまく時期がずれていってしまうからである。なんの天災がなかったとしても生産量が落ち込めば、多くの人命を脅かす。そこでまずは農耕技術全般に、合理という精神が介在してくるのである。つまり少ない手間で多くの好結果を生むことは良いことだという事である。そのアイデアとノウハウを持った人間に‘神’を見たようだ。収穫予想を立てるために発達した易と干支はすでに殷の時代にはあったのだが、伝説では伏羲や神農という神が作ったとされている。
 この合理の介在はべつに農耕に限ったことではない。
例えば腕っぷしが強いというのもそうである。農耕という生活基盤は自然の猛威にさらされているため飢饉などは頻繁にあったらしく、食料がなければ暴動が起き盗賊も現れる。腕っぷしが強ければ野盗となって集落を襲うことで食糧確保にもつながるし、逆に各集落では武芸の達つものを安全策として重宝し羨望した。この事が卓越した能力を崇拝するという精神を育んでいく。これは後に王を置くという社会機構へと発展する土台にもなった。この崇拝は直接的にはその優れた能力にむくが、崇拝理由は合理主義である。こういった少ないエネルギーで大きな成果を望むのは、肉体の持つ生理機構から発していると言える。
 だが人の持つ能力には限りがある。
いくら何人かの勇者を剣客として持とうとも、多勢の野盗にかなうはずもなく、いくら的確な農耕技術があったとしても、突発的な災害には対処するすべがない。まして人の心は揺らぎくじけるのである。そこで大自然の仕組みの中に尊大な意志を見たてて、崇拝を信仰へと移行していった。つまり人類は、合理主義という精神から信仰心を発見して、神という崇拝対象を発明したと言える。端的に言えば人類最初の信仰は合理主義なのである。あとは合理をはたす努力に疲れた心が神秘を生んだ。その空想も捨てきれない合理への望みから出たのである。

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