二之宮カルタ解説抄
八坂用水と 小畑武尭

武尭は、伊勢崎藩に仕えた武士である。宝永元年(1704)同輩の阿久津庄次と相談して、暗夜に線香の火を目印に測量をなし、苦心の未3年後に用水掘を完成させたのである。
二之宮町の新土塚南東から、伊勢崎市波志江町(八坂)へ、神沢川に木製の樋を架けたので、八坂樋と呼ばれた。
現在は、前橋市うつぼい町で桃木川の十文字堰より水を上げ、今井町、二之宮町、新井町、伊勢崎市波志江町、堤下町、華蔵寺町で粕川の下を通し、鹿島町、昭和町、日ノ出町、佐波郡境町伊与久で粕川に合流している。
大正初年までは、波志江町の大胡県道東から南下して、太田町、曲輪町と流れて、広瀬川に合流していた。八坂用水が、佐波新田用水の呼稱になったのは、伊与久まで延長したためである。
武尭の基は、伊勢崎市曲輪町の善応寺にあり、法名、養林院陵叟雲居士、享保18年(1733)12月10日没、明治政府は従五位下を追贈しその功績を讃えた。

夢に浮かんだ 嫁御地蔵


新井の某家から波志江矢内大尽に嫁ぎ、不幸にしてなくなった娘の供養のために造立された地蔵様を嫁御地蔵と言ったそうだ。
矢内の大尽に奉行にいった娘は、貧しい家の育ちながら気立ちも良く、赤城下小町と呼ばれる大変な美女であった。ご多聞にもれず、奉公先の一人息子に見染められて嫁になった。しかし、貧しい育ちを嫌った姑の嫁いぴりにあい大変苦労な毎日であった。嫁はとうとう神沢川の毒田に身を投げて死んでしまった。両親の悲しみは筆舌に尽せないものであった。姑も気がふれて死んでしまった。そこで矢内大尽では、嫁の供養のために毒田の袂に地蔵様を建てた。
ところが、娘が夜毎嫁の両親の夢の中に現れるので、地蔵様を毒田の対岸である新井の坪呂と言う所に移したところ、夢に出なくなつたと言う。今、この地蔵様を見ることはできない。

養蚕盛んな 荒砥地区

昔の、荒砥の産繭高は群馬県でも10指に入ったものである。この辺の農家収入は、米麦養蚕がご三家であった。現在はハウス栽培、シイタケ、養豚、酪農、養鶏など多面的になってきた。






乱世の武将の願い 絵馬奉納

(二宮赤城神社関係)
二宮赤城神社の拝殿に飾られた、二対の絵馬は美しくしかも雄大であり、市指定重要文化財である。一対の神馬は、大胡城主牧野忠成が大阪夏の陣に出陣の際戦勝を祈願したので戦勝お礼に奉納したものである。
他の一対は、前橋城主酒井雅楽頭の奉納したもので飾り絵馬である。共に狩野派の画風である。
リヤカーに代って桑積む 四輪者

リヤカーの普及は昭和初年からであり、その前は大八車であった。昭和18年ごろから、牛車が普及したが昭和30年代から軽車両の耕転機のエンジンに大型リヤカーを付けた車が普及し、昭和40年代末どろから四輪トラックが大変普及した。