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2022年近況報告



森喜朗元首相の発言について考える。2022.11.02

【森喜朗元首相の発言「つえをついていると身体障碍者に見えてみんなが大事にしてくれる」。障碍者をやゆしているともとれる発言で、物議をかもす可能性がある。】

と、新聞やニュースで報じられている。

 

発言内容について考える前に、この報道の仕方、報道の文言について考えてみる。「物議をかもす可能性がある」とはどういうことか。世間の人々に判断を丸投げしているような言い方でひじょうにいやらしく感じる。新聞社の判断は保留して「どうぞみなさん物議をかもしてください」とけしかけているように思える。新聞社はただ事実を提供するだけですという姿勢なのだろうが、取り上げる以上は取り上げるだけの判断があったはずだ。でもその判断はおくびにもださないのがとてもいやらしく感じるのだ。それについてはとりあえず置いておくとして、

発言内容についてだが、問題は「身体障碍者に見えて」という表現が、「自分は障碍者なんかじゃないよ」という気持ちが見え見えなところです。つまり森さんにとっては「障碍者はかわいそうな人でみんなで支えて大事にしてやらないと一人では生活できない人だ」というような認識があるということです。障碍者を援助が必要なかわいそうな人で、健常者が働いて税金を納めて、バリアフリーのインフラ整備するとか、障害手当とか障害年金とかで助けてあげているんだという思い上がった意識があるということです。

しかし、つえをついているということは、そこに何らかの障害があるということです。でもその障害は一時的なものであって「おれはかわいそうな障碍者」じゃないよと言いたいわけです。

でもこれは、障害というものを限定して考えすぎているのではないか。法律上「障害者と認定された人」に限定しているのではないだろうか。障害とは「心や身体上の機能が十分働かず、活動に制限があること」という辞書的な定義に従えば、だれもがなんらかの障害をもっているし、障害を持つ可能性がある。年を取ればだれもが障害をもつ可能性がある。でも障害を持つ人を「障碍者」という名前で呼ぶことには抵抗がある。呼ばれることにも抵抗がある。それはなぜか。「だれもがなんらかの障害をもつ」のだから「だれもが障碍者」なのだから、あらためて「障碍者」と呼ぶのはおかしいということだ。「障碍者」という名前で呼んだ時点で「健常者」と区別された特別な存在が生まれてくるからだ。特別な存在として区別されたとき、そこに必ず差別が生じる。区別は差別に発展する。ふつうは多数派が少数派を差別する。その無意識の差別意識に気づかせてくれるのが「老い」というものではなかったか。「老い」ればだれもが障碍者になる。いままで出来たことが出来なくなってくる。いままでわかったことがわからなくなってくる。そこから自分も学び、周囲も学ぶ。そういうしくみになっているのだ。そこで学べなければまた次の人生で学び直すことになるだけだ。

というわけで、森さんには丁寧に、どこがどう問題発言だったのかを納得するまで説明してあげる人がいるかいないか、そこにかかっている。

防災について考える 2022.10.5

Jアラートというものが鳴って、該当地区の人々は右往左往させられたようだが、
該当地区の人々はいったいどうすればいいのか、何ができるのか、ほとんど誰も知らない。
弾道弾の落下地点近くで漁をしている人たちがいたとして、いったいどうやってどこへ逃げればいいのか、誰も知らない。
そういう警報にどんな意味があるのか、私にはよくわからない。
落下する場所を特定して、そこからできるだけ離れてくださいという警報なら意味があるし、理解できる。
しかし、どこへ落下するかもわからないし、どの上空を通過するのもわからないし、その通過する物体がいったい何なのかもよくわかっていない警報とは
いったい何なのでしょうか。どんな意味があるのでしょうか。
それはミサイルらしきものだといい、ミサイルだとは断定しない。
それが威嚇なのか、実験なのか、本当に日本をねらった実弾なのか、それさえわからない。
もしわかっているのならJアラートなど鳴らす必要はないだろう。わからないからとりあえず鳴らしておこうということなのだろう。
専守防衛といいながら、どこからいつどこへ落ちるのかさえわからない。
もし、北朝鮮だというなら、発射基地くらい特定できないのはあまりに貧しい防衛力だ。
本当に脅威なら常時衛星で監視することくらいできないのだろうか。
今回の発射情報だって、日本独自の情報ではなく、韓国からの情報だという。
独自の情報システムもなくて専守防衛できるのだろうか。
防衛費を増強するなら、真剣に専守防衛できるように有効な金の使い方をしてほしい。
トランプの口車に乗せられて必要のない戦闘機などを買わされてはたまらない。

さてそこで、「防災」について考えてみたい。
今回のミサイルについて見た通り、警報が出ても全く役に立たず、防ぎようがないことにどう対処するかという問題だ。

ここで「災害」の定義をしておきたい。
私の考えでは、「災害」とは想定外の出来事で、防ぎようがなく害を被った場合をいう。
今回の北朝鮮のミサイル発射しかり、東日本大震災しかり。
つまり、逆に言えば、未然に防げたものは災害とは呼ばない。
想定内の出来事は災害ではない。

とすると、どういうことが言えるかというと、
防災訓練は無意味だということだ。
防災訓練は想定内のことしかやらないし、やれない。
想定外の訓練というのは自己矛盾であるから不可能なのだ。

想定内のことは当然ながら国、自治体でも各家庭でも準備してあるはずだ。
準備してないとすればそれは未必の故意であり、その国、自治体あるは各家庭の責任である。

それでは、我々一人ひとりは何ができるか、何をすればいいか。
そして、東日本大震災などの災害から学ぶべきことは何か。
それは、防災意識の涵養とか、防災訓練などではない。
それは、「いつ死んでもいいように、毎日を充実させ、悔いのないように一日一日を生きること」以外にはない。
そして、「何が起こっても、誰かのせいにしたり、何かのせいにしたりせず、甘んじて受け入れてその現実と対峙すること」以外にはない。
それこそが人生であり、それこそが生きる意味だからだ。

戦争について考える 2022.8.22


これは国という制度について考えることでもある。
現在の戦争は国と国との戦争という形をとるからである。
ロシアとウクライナとの戦争という形をとる。
ロシア民族とウクライナ民族ということではない。

さて、その前に、日本という国が第二次大戦を経てどのような終わり方をしたかというと、
アメリカ合衆国の進駐軍がやってきて日本を占領した。
日本人はみな合衆国の奴隷になるのかと思いきや、合衆国は意外と紳士的で、領土も国民もほぼそのままで、
二度と戦争などという無謀な試みをしないようにいろいろと制度を変えて、軍隊も財閥も解体して帰っていった。
日本人はみな狐につままれたようだった。
え?本当にこれで終わり?
日本人は奴隷になってアメリカに連れていかれるんじゃないの?
女はみな強姦されるんじゃないの?
と思った。
でも、本当にそうではなかった。
だから、日本人はみなアメリカが好きになった。アメリカ人が好きになった。
そういうわけでいまだに日本はアメリカの属国になっている。

閑話休題。
この経験から日本人はこの先、もし戦争になったらどういう態度をとるだろうか。
もし、中国が攻めてきたら、共産主義さえ受け入れてしまえば、日本人を奴隷にすることはないだろうということで、そこそこの条件で中国の傘下に入る。
これも現実の選択肢となる。
ウクライナの現実を見ると、都市を破壊され、無辜の市民も多数犠牲になり、一般市民も兵隊となって戦うことになり、今までのやりたいことが何もできなくなるという悲惨な状態になる。
そうなるよりも、破壊も犠牲者も出さずに、アメリカの進駐軍を受け入れたように、中国人民解放軍を受け入れる。
これも確かに現実の選択肢になる。
アメリカの属国から中国の属国になるだけです。
民主国家から独裁国家になるのは絶対に受け入れられないというけど、
中国の13億だか14億だかの国民は絶対うけいれられないようなひどい状態にあえいでいるのだろうか。

再び閑話休題
8月15日の敗戦記念日になると、誰もが口をそろえて、「戦争はぜったいに二度と起こしてはなりません」と唱える。
私はそういう言葉を素直に信用することができません。
素直で優しくて正直で誠実な日本人だからこそ戦争に走ったのです。
「大東亜共栄圏」という美しい言葉にだまされたのです。
これは侵略ではありません。横暴な欧米諸国からアジアを解放するため、「大東亜共栄圏」をつくるために行う特別軍事行動なのです。
そういう言葉に素直で優しく正直で誠実な日本人だからこそ、素直に従ったのです。
だから、「戦争はぜったい二度と起こしてはいけません」という言葉を信じることができません。

もし、本当に戦争に反対するなら、それは自衛のための戦争も反対しなければなりません。
弱い者いじめされている国を助けるための戦争も反対しなければなりません。
ウクライナを助けるための戦争も反対しなければなりません。
つまり、侵略されても戦ってはならないのです。
このことに同意する人はたぶんほとんど誰もいないでしょう。
今、「戦争は二度と行ってはいけません」と唱えている人も、今のウクライナのように、理不尽に侵略されたら武器をもって戦うと言うでしょう。
だから私は「不戦の誓い」なるものを信じないのです。

だって、現に自衛隊という軍隊を持っているのだし、憲法を改正して自衛隊を正式に軍隊にしようとしているのですから。

私は「核抑止力」というのを信じられないのと同じように、軍備抑止力というのも信じられない。
軍事費を増強し、軍事力を増強すれば、どこからも侵略されないという考え方が信じられない。
むしろ、逆に、軍事力を全くもたないことのほうが、侵略されるリスクが少ないと考えている。
つまり、軍事力がないのだから、外国が攻めてきたらすぐに諸手を挙げて降参するしかないから戦争にはなりようがない。

そのとき、その攻めてきた国の奴隷になるか、その国の体制を押し付けられるか、それはわからないが、それは戦争とは別の問題で、
奴隷になるなら死んだ方がましだという人がどれくらいいるか、他の国の体制を押し付けられるくらいなら死んだ方がましだと思う人がどれくらいいるかという問題だ。
私は、単純に、「人間が生きる」「生きてゆく」という観点からすれば、どの国の体制であろうと、奴隷であろうと同じだと考えている。
「奴隷としての人生」というのは確かにあったし、「ルーツ」のクンタキンテのように、それはそれですごい人生ではないだろうか。
そこから這い上がって自由を手に入れていく過程はすばらしい人生ではないだろうか。
そもそも、その侵略してくる国にはその国の体制に従っている国民がいるわけで、嫌々従っている国民もいるだろうが、そうでない国民もたくさんいるはずだ。
だから、どの国の体制であろうと、その国民はみな「生きている」のだ。どの国で生きるかというのは、それはあくまでも「生きる」ということの条件の一つでしかない。
「生きる」ということの条件は無数にある。
男として生きる。貧しい家で生まれて生きる。天皇として生きる。生涯独身で生きる。障碍者として生きる。
では、「生きる」ということの根本には何があるのか。
私が思うに、「生きる」ということは、「生き、体験し、死ぬ」ことであり、
「民主国家に生きる」ことだけが「生きる」ということではないだろう。
「共産主義の中で生きる」ということには、「生きる」価値はない。というような横暴なことは言えないだろう。
それなら、中国人はみな「生きていない」ということになってしまう。

侵略され、奴隷になったらもう人生は終わりだというわけではないのだ。
むしろ、そこから本当の人生が始まるかもしれない。
いや、そこで日本人が皆殺しにされて日本が滅びることだってあるかもしれないが、
それはそれで「生きる」ということの「経験」であり、それこそ「生きる」ことなのだ。
先の大戦では300万人が死んだという。
つまり、300万人が「死」という「経験」をして「生きた」のです。
それと、日本人の一億数千万人が「死」という「経験」をするのと、どう違うのでしょうか。
「生きる」ということは「生き、経験し、死ぬこと」だと書きました。
侵略されて殺されることも「生きる」ということです。
「生きる」ということを「自分のやりたい夢を実現すること」などと考えている人にはこれは理解できないかもしれないが、
「生きる」とはそんなヤワなものではないと私は思う。
若くして特攻隊で死んだ人に対して、「大きな夢があったのにかわいそうだ」という人がいます。
果たしてそうでしょうか。
一方で、何もやりたいことや夢がなくて自殺する人もいます。
生まれつき障害をもって生まれ、夢も何も考えられない人もいます。
そういう人も含めて生きる意味を考えるならば、
生きるとは「生き、経験し、死ぬこと」だとしか言えないのです。
この定義によれば、すべての人は貴重な経験をして「生きた」ことになります。


つまり、私が言いたいのは、
もし、本当に「もう二度と戦争はしたくない。してはならない」と考えているなら、自衛のための戦争にも反対しなければ筋が立たないということです。
とすれば、軍隊を持つことにも反対しなければ筋が立たないということです。
それと、「国を守る」ということにどんな意味があるかということです。

「生きる」ということがまず第一の条件です。
日本で生まれてアメリカ国籍をとる人もいます。
男に生まれても女に性転換する人もいます。
どの国で生きるか、男として生きるか、長く生きるか、短く生きるか、それはみな「生きる」ことの条件の一つなのです。
「生きる」ことそれ自体とは別の問題です。

戦争とは相手(敵)を殺すことです。
人を殺すくらいなら奴隷として生きる方がよいと考える人がいてもおかしくはない。
それを非国民として、相手(敵)ではなく自国民(仲間)を殺すのが戦争です。
「国を守る」ために自国民(仲間)を殺すのです。
それでも「国を守りたい」なら、どうぞ「国を守って」ください。
私は一足先に「あっちの世界」に行きます。

自然農法とは何か 2022.8.22

退職してから、小さな畑で実験的にさまざまな野菜を育てている。
どうせやるからには、自分の健康にも良くて、地球環境にも良い循環型の農を営もうと努めてきた。
基本的に、無農薬、無化学肥料で育てている。
今年は気候が暑かったせいか、スイカの着果率が非常に高く、一本の苗木から20個以上収穫した。苗2本で約40個。まだ今も着果しているので、もっと増えるだろう。
しかも、すこぶる美味。ひじょうに甘い。
無農薬、無化学肥料でこれだけできたことで、自信を得た。
肥料は主に、ぼかし肥料と自分の家から出る野菜の残渣をコンポストにためて作ったたい肥である。
さらに今年は土づくりの本を読み、基本は土壌細菌であることを理解したので、
さまざまな有用細菌の培養を試みている。
主に納豆菌と乳酸菌である。もう一つが光合成細菌。
納豆菌については、毎日納豆を食べているので、納豆の容器に入っているビニールにたかった納豆菌を使っている。
先日は、手の甲にできた湿疹がなかなかしつこく治らないので、その納豆菌のついたビニールをしばらく貼り付けておいたら、
数日して湿疹がよくなってきて、今はほぼなくなりつつある。
まあ、これはたまたま治りかけていたのかもしれない。
しかし、納豆菌はかなり強力な菌であるらしく、ほかの菌と混ぜるとほぼ納豆菌が勝つらしい。
つまり、他の悪玉菌をやっつけてくれるということなのだ。
これを培養して畑にまけば、畑の腐敗菌とか野菜の病原菌などをやっつけてくれた野菜が元気に育つというわけだ。
そんなわけで、近々、自然農法のページを新設する予定です。

94歳に対してする医者の健康アドバイスとは何か 2022.4.4

またしても親父と論争になった。
先日親父は医者からアドバイスを受けたといって味噌汁を一日一回に減らすという。
塩分を控えた方がいいと言われたらしい。

94歳まで健康で生きてきた人に対して、果たしてこれは適切なアドバイスなのだろうか。
あまりに杓子定規なアドバイスではないか。
こんなアドバイスなら医者の免許など不要だ。

親父は医者から何か言われたり、テレビで何か聞きかじったりするたびに、影響されて一日二日それを実行してみるが、
結局すぐ面倒くさくなって元の生活に戻る。
それはわかっているから、そんなに目くじら立てて反論する必要もないのだが、
あまりにくだらないのでつい大きな声をだして反論してしまう。

「そんなくだらない医者の言うことにいちいち従う必要はないでしょう。
94歳までずっと、一日三回味噌汁を飲んできて、今でも健康なんだから、今までのやり方がいちばん体に合っていたということでしょう。
何で突然今までのやり方を変える必要があるんですか。
逆に医者に言ってやればいいでしょう。
『俺は94歳まで長生きしてきたんだから、俺の今までのやり方が正しい健康法なんだ。あなたに俺のやり方を教えてやるよ。
俺は極端に好き嫌いが激しいから、にんじんとかセロリとか香りの強いものは食ったことがない。というよりも、野菜はほとんど嫌いだね。
ちょっとでも辛いと食えないから、カレーなんて食ったことがない。何でもかんでも甘くなければ食った気がしない。お餅も砂糖をたっぷりかけて食べる。
夏は毎日寝る前にアイスクリームを必ず一つは食べる。』」とね。

仏像は古いほうが価値があるのか 2022.3.30

クラウドファンディングで破損した仏像を修復するプロジェクトに1億円がかかるというニュースをNHKで見た。
へそまがりの俺はまたしても理解できなかった。
1億円あれば新しい彫刻家にすばらしい仏像を造ってもらった方がいいのではないかと思ったのだ。

親父はすぐに反応して、「いや古いのに価値があるんだ」と答えた。

さて、そもそも仏像とは何なのだろうか。
芸術作品か、信仰の対象か、信仰心そのものが結果として造らせたものなのか、
それとも、そのいずれも含むものなのか。
よくわからない。

私にはわからないことが多すぎて困る。
しかし、わからないものはわからないのだ。

古いものが価値があるということが正しいなら、修復してしまったものはもうどんなに元の形を残したとしてもそれは新しいものである。
新しいものには価値がないのですか。

そもそも仏様の教えとは、生老病死の現実を自覚し、そこからの解脱を目指すものではないのか。
だからこそ、源信の「往生要集」絵巻などは人の死体が腐っていく様子を克明に描いたのではないか。
般若心経に「色即是空」と書かれているのではないか。

諸行無常をおしえているのではないか。

だとしたら、仏像が壊れていくのも、諸行無常の現れであって、それを肯定することが最も重要なことではないか。
とすれば、どうしても仏像が必要ならば、新しい仏像と古い壊れた仏像を並べて安置するのが最もよい方法ではないだろうか。

そもそも信仰や修行に仏像が必要かどうかももっと真剣に考えた方がいいのではないか。

代々続くお寺だからといって、それを継がなければならないという義務はないだろう。
葬式仏教と陰口をたたく人もいるが、確かに今のお寺は葬式のためだけの存在になり下がっている。
もっと、積極的にお釈迦様の教義を広める努力をするべきだろう。
そしてお坊さんはもっと修行して、あの世のしくみを体得するところまで見聞を広めるべきだろう。
そして、「人は何のために生きているのか」を身をもって示すべきだろう。

仏像修理に他人の金をあてにしている場合ではない。
他人の金をあてにするなら、昔ながらの「勧進」という方法で全国を行脚するくらいのことをやったらどうか。

ことばが死んでしまった時代 2022.3.14

ことばが意味を失って浮遊しはじめたのは、たぶん安倍首相のころからだと思う。
「原発は完全にコントロールされている」などと言ってオリンピックを無理やり金で招致したのも記憶に新しい。
あの頃から、あったことをなかったことしにして、なかったことをあったことにして、ことばをただの音に還元し、
「思考は現実化する」というマーフィーの法則を、「言葉は現実である」と読み替え、
言ったもん勝ち、情報とは事実とは全く関係のない言葉の遊びであるということになった。

「はじめに言葉があった」「言葉は神であった」
事実が先ではない。言葉が先なのだ。

そうしていま、プーチンが大々的に言葉の無効化を実行している。
「ウクライナのネオナチ化をとめる」
「ウクライナの住民虐殺」
「ウクライナの生物化学兵器の開発」

私たちはこの時代にどう対処すればいいのか。

プーチンは古い時代の最後のあがきだ。
もはや誰もプーチンを支持していない。
これがはっきりしたことが最大の救いだ。

武力、恐怖、脅迫による支配はもはや通用しない。

コロナウイルスの蔓延によって、死はもはや日常になった。
人はいつでも死を受け入れる覚悟ができている。
死の恐怖で人を支配することはできないということだ。

ことばが無効になった今、私たちは自らの直感を頼りにするしかない。
何が正しく、何がまちがっているか、
それは直感が教えてくれる。

他国の領土に一方的に侵入して、町や施設を破壊し、住民を殺戮し、原発を支配下に置いている事実。
これは直感以前の単純な事実だ。

資源の供給が止まり、物価が高騰し、北方領土交渉が暗礁にのり上げても、日本はプーチンの侵略を拒否する。

侵略され、傀儡政権下で自由を奪われて生き延びることを拒否する。

プーチンのいない自由で平和な世界にまもなく地球はシフトしていく。これは間違いない。