上三原田歌舞伎舞台を建てた人

-永井 長治郎-

  舞台脇の碑

 舞台を建てたといわれる永井長治郎は、上三原田の字北谷戸(きたがいと)生まれと伝えられています。

 舞台のこともそうですが、長治郎についても記録が一切残されていません。村の記録ともいえる「三原田村役人名前帳」にも舞台に関することは、明治32年の記事に「此年春地踊(じおどり)多クハヤル、(略)三原田上下合テ拾壱日上三原田舞台ニ興行ス」とあるのが初見で、それ以前は全く見られません。

 

 上三原田はもと三原田と一村でしたが、明和6(1769)年にわかれて幕府領となり、天明6(1786)年淀藩(よどはん)(現在京都府淀、藩主稲葉氏)領となり明治を迎えました。

その間の村名は三原田村で、上三原田の名はそれ以後です。「三原田村役人名前帳」は上三原田村の公記録といえます。

 おそらく舞台に関する記録は、別にあったと思われますが、現在どこにも見あたりません。したがって、この舞台が、いつ、誰が、どのような資金で建てたのかなど一切不明で、言い伝えによるほかありません。

 永井長良治郎についても同様です。

長治郎の没年は、三原田山興禅寺にある過去帳に明治9(1876)年1月10日、法名了喜法禅定門(ほうみょうりょうきほうせんじょうもん)と記されており、その時、84、85歳といわれていますので、逆算しますと寛政初年頃の生れとなります。

永井家の墓地は字北谷戸の村立三原田幼稚園西にありますが、長治郎の墓塔は見あたりません。40歳の頃伊熊(現在の群馬県北群馬郡子持村大字上白井字伊熊)に移住したといわれていますか、興禅寺過去帳に記載されていることから、この墓地に葬られていると考えられます。この言い伝えからすると、舞台の建てられた文政2(1819)年には、長治郎は27、28歳ということになります。長治郎には文五郎という弟があり、その子に又八(舞台の移築者)、直吉という兄弟かいて、みな水車大工を業としていました。長治郎らの生家は字北谷戸の現在三原田郵便局がその跡地と伝えられていますが、直吉が三原田小学校の東、都丸家のつぶれ屋敷の名跡(めいせき)を継ぎ、都丸姓を名乗り(現当主都丸要一氏)、又八は早くから他所に移住(その子孫は現在川崎市住、永井政雄氏)しました。また、長治郎は伊熊に移住したと伝えられ、廃屋となったようてす。長治郎に妻子があったかどうか不明で、直系の子孫の有無も不明です。

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