茶道小史

 

奈良時代

 お茶は、もともと中国のもので、日本にはなかったものです。いつごろ日本にもたらされたかは詳しい資料などがありませんのではっきりしないのですが、奈良時代に日本に入ってきたようです。遣唐使や、中国などから渡来した僧侶たちによってもたらされたと考えられます。

 当時の中国は唐の時代で、もうお茶を飲むのが流行していたようです。しかし、そのころのお茶は、私たちが想像するお茶とはちがって「団茶」という、蒸した茶を圧搾したものです。今でもモンゴルの遊牧民には無くてはならないものなのですが、ちょっと泥臭くまた発酵したような感じの味がします。

 まだ、製品のお茶が輸入されただけで、お茶の木はまだのようです。

 

平安時代

 お茶の木が持ち込まれたのは、桓武天皇の延歴二十四年(805)に、伝教大師が叡山のふもとの近江の坂本に植えたのが最初とされています。

 当時は、甘かずらを加えて煎じ、またしょうがなどで辛みを加えてものを飲用していたようです。もっぱら宮中や僧侶の間で盛んに行われていましたが、日中の交通が途絶え、まだ製茶の技術が低く茶の飲用が中断しました。

鎌倉時代

 この頃、団茶のほかに、現在の抹茶と同じような優良なものがでは、使用する器具も精巧になり、点茶の作法も制定されました。

お茶は、単なる飲料ではなく仙薬として将軍の源実朝が常用したのをきっかけに武家の間にも流行し始めました。

 

足利時代・桃山時代

 武家階級について、一般の人々の間にも広まったようです。

また、闘茶と称する、育種類ものお茶を飲み産地などを当てこれに商品をかける賭博のようなものがはやりました。俗に、百服茶、五十服茶とよばれています。その後、建武三年(1336)に禁止令が出ます。

そして、「唐様の茶」と称して、茶味を賞し、器物を鑑賞する茶会が行われました。現在行われている茶会とほぼ同様であったようです。

 そして足利義政に召された珠光(しゅこう)(?-1502)とう僧侶が従来の闘茶を、厳粛な茶礼にあらためました。茶礼についての質問に答えた珠光問答のなかに「謹敬静寂」ということばかあります。これはのちに利休が茶道の精神は「和敬静寂」といわれたもととなっているようです。

わび茶もここから始まっていて大広間での華やかな茶会から、たとえば銀閣寺の東求堂のような四畳半の狭い部屋で行う茶会へと変わりました。

 そのあと武野紹鴎(たけのじょうおう)(1502-1555)という茶人が現れました。紹鴎は珠光の茶をいっそう簡素に改めました。紹鴎の四畳半は百姓家を模した質素なもので、台子で点前をせず、いろりを切って貧しさに満足して楽しむお茶であったようです。高価な道具、山海の珍味を並べて客を招く茶ではなく、心深くもてなす茶であったのです。

 紹鴎のわび茶を受け継いだのが、千利休(1522-1591)です。

利休は、姓を田中、名を与四郎といい、大永二年に泉州堺の今市に生まれました。千姓を名乗ったのは、祖父の千阿弥の一字をとって、織田信長から与えられたものだと伝えられています。17才から正式に茶を学び、19才の時紹鴎の門下になります。この時宗易(そうえき)と名を改めています。

 天正六年(1576)に織田信長に召され、茶道役となりますが天正十年に信長が本能寺の変に倒れてからは豊臣秀吉に仕え、知行三千石を与えられました。

秀吉は、茶道を、戦国時代以来おちつかぬ人心をしずめ、荒れすさんだ武将の精神をやわらげ、武士と町人との融合に利用したのです。天正十三年十月七日秀吉が宮中に茶席を催しました。が、有資格者でないと禁裏には立ち入れないことから、いままでの居士号をそのまま、あらためて朝廷から利休居士の号を勅賜されるように、秀吉が朝廷に頼みこれが許されました。

勅賜で居士号になったのは利休のみです。

 利休のわびは、紹鴎の隠遁的なわびに対して、静けさの中に新しい活動力を秘めたものでした。このわびの思想が活動力に富んだ当時の人々に迎えられたのです。