220-280,計61年 三國(Three Kingdoms)

220-265,計46年 魏 (Wei)
221-263,計43年 蜀 (Shu)
222-280,計59年 呉 (Wu)

......・魏年號:皇帝
......・・蜀年號:皇帝
......・・・呉年號:皇帝
----------- ------------------------
220 ・黄初:魏文帝(曹丕,187-226)即位
221 ・・章武:蜀昭烈帝(劉備,162-223)即位
221 ・・張飛(-221)被殺
222 ・・・黄武:呉大帝
222 ・・・(孫權,182-252)即位
223 ・・建興:蜀後主(劉禪,-271)
226 ・魏明帝(曹叡,-239)
227 ・太和
227 ・・諸葛亮(181-234)寫[出師表]
228 ・・諸葛亮(181-234)寫[後出師表]
228 ・・馬謖(190-228)被殺
229 ・・・黄龍
232 ・・・嘉禾
233 ・青龍
237 ・景初
238 ・・延熙
......・・・赤烏
239 ・魏齊王(曹芳)
240 ・正始
244 甲子年
249 ・嘉平
251 ・司馬懿(175-251)逝
251 ・・・太元
252 ・・・神鳳:呉會稽王(孫亮)
252 ・・・建興
254 ・正元:魏高貴郷公(曹髦)
......・・・五鳳
256 ・甘露
......・・・太平
258 ・・景耀
......・・・永安:呉景帝
258 ・・・(孫休,-264)
260 ・景元:魏元帝(曹奐)
262 ・竹林七賢康(223-262)被殺
263 ・竹林七賢阮籍(210-263)逝
263 ・・炎興:蜀後主退位
264 ・咸熙
......・・・元興:呉烏程公(孫皓)
265 ・魏元帝退位
......・・・甘露
265 ・司馬昭(221-265)逝
266 ・・・寶鼎
269 ・・・建衡
272 ・・・鳳凰
275 ・・・天
276 ・・・天璽
277 ・・・天紀
280 ・・・呉烏程公退位
280 三國(220-280)結束

三国時代王朝系図

【 魏 】
武帝
曹操

燕王

5元帝
1文帝

東海王

4廢帝

2明帝

3廢帝

【 蜀 】

1蜀昭烈帝:劉備

2後主禅

【 呉 】
呉武烈帝
孫堅

1大帝

2廃帝
長沙王

3景帝

4末帝
三国と晋

 後漢末の184年に起こった黄巾の乱の中心勢力は、同年末までに後漢と地方豪族によって鎮圧されたが、その後も残党は各地で反乱を起こし、後漢の勢威は失われ、討伐に従事した地方豪族が各地に割拠することとなった。

 「三国志演義」は古くから多くの日本人に愛読されてきたが、黄巾の乱の鎮圧に立ち上がる劉備・関羽・張飛の「桃園の義」から始まる。私も中学時代に世界名作全集の三国志を読んで、三国志の世界に熱中した一人である。世界史の教員となるきっかけになった本の1冊である。ホームページの中にも三国志関係のページはたくさんあるので詳しく知りたい方はそちらを見て欲しい。以下後漢の滅亡から三国の鼎立への過程の概略をたどっていきたい。

 黄巾の乱から5年後に霊帝が亡くなり(189)、14歳の少帝(弘農王)が即位した。外戚と宦官の争いが続く中、残忍・凶暴な董卓が甘粛の兵を率いて洛陽に入り、少帝を廃し、9歳の皇太弟を即位させた。後漢最後の皇帝となる献帝(位189〜220)である。

 袁紹(えんしょう)を盟主とする反董卓連合軍が挙兵すると、董卓は長安遷都(190)を強行したが、後に部下の呂布に殺された。献帝は洛陽に逃げ帰ったが(196)、その献帝を本拠地の許(河南省)に迎えたのが曹操(155〜220)である。

 曹操は、宦官の養子であった曹嵩(そうすう)の子として、沛国(安徽省、劉邦の故郷の近く)に生まれ、20歳で後漢に仕え、黄巾の乱の鎮圧に功績をあげて頭角をあらわし、反董卓軍に加わって挙兵した。そして献帝を許に迎えることに成功した。そして官渡の戦いで袁紹を破って(200)ますます勢力を強め、後漢の実権を握り、丞相となった(208)。

 華北を支配下に置いた曹操は全土の統一をめざし南下し、荊州に攻め込んだ。

 「三国志」の英雄のなかで人気がある劉備(161〜223)はその頃荊州の劉表のもとにいた。前漢の6代皇帝景帝の子孫と称した劉備は、父を早く亡くし、母との苦しい生活のなかで初め儒学を志したが読書を好まず、侠客らと交わっていた。黄巾の乱が起こると、関羽・張飛と義兄弟の契りを結び、討伐軍に加わり次第に勢力を伸ばしていった。

 その後、曹操の客将となっていた時、献帝の側近が曹操打倒をはかり、劉備らに密書を出した。しかし、この計画がもれ、劉備は袁紹のもとへ逃げるが、その袁紹が曹操に敗れると、荊州(湖北省)の劉表のもとに身を寄せた。この荊州時代に有名な「三顧の礼」によって諸葛亮(孔明)(181〜234)を得た(207)。

 南下した曹操軍に敗れた劉備は夏口(現在の武漢)に逃れ、孔明の意見に従って、孫権(後漢末の群雄の一人であった孫堅の次子で、父・兄(孫策)の死後、江南を支配)と同盟を結び、有名な「赤壁の戦い」で曹操軍を破った(208)。

 赤壁の戦いは、80万と称する曹操軍(実数は約15万位)に対して、劉備・孫権連合軍は約3万人といわれている。偽って降伏した黄蓋(呉の武将)の「連環の計」(水上戦の経験がなく、船酔いに苦しむ曹操軍に大船同士を繋ぎ合わせる事を進言)と「火攻の計」によって曹操軍は大混乱に陥り、大敗した。

 赤壁の戦いの後、荊州の領有をめぐって、劉備と孫権は対立したが、結局劉備の領有が認められた(210)。劉備は、孔明の「天下三分の計」に従い、荊州を足がかりとして益州(現在の四川省)への進出をはかり、劉璋から益州を奪った(214)。

 こうして中国には、華北の曹操、江南(長江の中・下流)の孫権、四川の劉備に三分され、三国が鼎立することとなった。

 220年、曹操が亡くなり、曹丕(文帝、位220〜226)が魏王となり、同年献帝から禅譲を受けて帝位につき魏王朝(220〜265)を樹立した。

 曹丕の即位の知らせを聞くと、劉備(昭烈帝、位221〜223)は成都で即位し、蜀(221〜263)を建国した。

 その翌年、孫権(182〜252、位222〜252)も呉王として自立して呉(222〜280)を建国し、後に皇帝を称して都を建業(現在の南京)に置いた(229)。

 三国のなかでは魏の国力が飛び抜けて強かった。人口で見ると、魏が約440万人、呉が約230万人、蜀は約94万人で、国力は人口に比例すると考えていい。

 蜀では劉備が、呉に捕らえられ殺された関羽の復讐のために、呉に出兵したが大敗を喫して逃げ帰り、白帝城で亡くなった(223)。

 劉備亡き後、子の劉禅(無能な暗君といわれる)を助けて蜀を支えたのが諸葛亮(孔明)である。彼は「出師(すいし)の表」を書き、宿敵魏との戦いに出陣し(227)、以後何回も出兵したが華北を回復する事は出来ず、五丈原で陣没した(234)。

 孔明亡き後の蜀は急速に衰え、263年に魏に滅ぼされた。

 魏では文帝の死後(226)、司馬懿(179〜251)の権力がさらに強まった。五丈原で孔明と戦い守り抜いたのが司馬懿である。彼は曹操以来4代にわたって仕えた権臣で、249年のクーデターで丞相となり、魏の実権を握った。子の司馬昭は反抗する魏の4代皇帝を殺し、曹操の孫の元帝を即位させた。司馬昭は265年に亡くなったが、同年、子の司馬炎(武帝、位265〜290)が元帝から禅譲を受けて帝位に即き、晋(西晋)(265〜316)を建てた。

 武帝は、魏が滅びたのは王族に有力者がいなかったためと考え、司馬一族の者27人を王に封じ、軍事力を持たせ、司馬氏以外の諸将を押さえ、晋王室の守りとした。

 武帝は280年、南下して呉を滅ぼし、中国を再び統一した。呉は孫権から4代約60年で滅亡した。武帝は統一の直後に占田・課田法と呼ばれる土地制度を施行した。

 武帝の死後(290)、恵帝(290〜306)が即位したが暗愚であったため、外戚の政権争いが生じ、これに乗じて八人の王(王に封じられていた司馬一族の者)が政権をめぐって争う八王の乱(290〜306)が起きた。このとき諸王が周辺民族の兵力を利用したため、五胡の侵入を招くこととなった。

 五胡とは、当時中国の北辺または西北辺で活躍していた匈奴・鮮卑・羯・てい・羌の5族をいう。

 匈奴は、前漢の末の前1世紀中頃に東西に分裂した。分裂後、西匈奴は漢と東匈奴に滅ぼされた。さらに東匈奴は後漢の初めの48年に南北に分裂した。分裂後、北匈奴は後漢の攻撃を受けて中央アジア方面に移動し、さらに西進してヨ−ロッパに進出した。ゲルマン民族の大移動のきっかけをつくったフン族は北匈奴であるとの説が有力である。一方の南匈奴は後漢に服属して長城付近に定着した。その南匈奴の劉淵は八王の乱に乗じて漢(後に前趙と称す、304〜329)を建てた。

 劉淵は、308年に皇帝を称し、洛陽攻略をめざしたが、その直前に亡くなった(310)。そして子の劉聡の時に、洛陽を陥れ(311)、懐帝(武帝の子、晋の第3代皇帝)を捕らえ、さらに316年には長安の愍帝(びんてい、武帝の孫、晋の第4代皇帝)を降して西晋を滅ぼした。この匈奴を主とする兵乱を当時の年号から永嘉(えいか)の乱(307〜312)という。

 司馬懿の曾孫の司馬睿(しばえい、元帝、位317〜322)は、初め琅邪(ろうや、山東半島)王であったが、八王の乱を避けて江南(長江の中・下流域)に逃れていた。
司馬睿は、西晋が滅ぼされると土着の豪族と華北から移住してきた名門貴族の支持を受けて、皇帝に即位して東晋(317〜420)を建国し、晋を復活させ、都を建康(現在の南京)に置いた。

265-420,計156年晉 (Jin/Chin)

265-316,計52年西晉 (Western Jin/Chin)

265 泰始:武帝(司馬炎,236-290)即位
275 咸寧
280 太康
284 杜預(222-284)逝,著有[春秋左氏經傳集解]
290 太熙:惠帝(司馬衷,259-306)
290 永熙:皇后賈氏(-300)專政
291 永平
291 元康
297 陳壽(233-297)逝,著有[三國志]
300 永康:八王之亂(300-306)起
301 永寧
302 太安
304 甲子年
304 永安
304 建武
304 永安
304 永興
305 左思(250?-305?)逝,著有[三都賦],一時洛陽紙貴
306 光熙:懷帝(司馬熾,-313)
306 司馬彪(246?-306?)逝
307 永嘉
313 建興:愍帝(司馬業)
316 西晉(265-316)結束
恵帝師
1
2恵帝
文帝昭
3懐帝

─4 愍帝

317-420,計104年東晉(Eastern Jin/Chin)

317 建武:元帝(司馬睿,276-321)即位建康(今南京)
318 太興
322 永昌:明帝(司馬紹,-325)
323 太寧
325 成帝(司馬衍,-342)
326 咸和
335 咸康
342 康帝(司馬岳,-344)
343 建元
344 穆帝(司馬,-361)
345 永和
353 王羲之(303?-361?)等27人開蘭亭之會
356 桓(312-378)北伐,奪回洛陽
357 升平
361 哀帝(司馬丕,-365)
362 隆和
363 興寧
363 葛洪(284-363?)逝,著有[抱朴子]
364 甲子年
365 廢帝(司馬奕)
365 陶淵明(365-427)生
366 太和
371 咸安:簡文帝(司馬,-372)
372 孝武帝(司馬曜,-396)
373 寧康
376 太元
379 淨土宗始祖慧遠(334-416)於廬山結白蓮社
383 肥水之戰,謝石謝玄(343-388)破秦軍符堅(338-385)
396 安帝(司馬宗,-418)
397 隆安
399 法顯(337?-423?)往印度取經
402 元興
405 義熙
418 恭帝(司馬文)
419 元熙
420 東晉(317-420)結束
.......
1元帝:睿

8簡文帝
4康帝
2明帝
9孝武帝
5
3
10
11
6
7
大土地所有の発達

 中国では、大土地所有制が漢代から盛んとなり、広大な土地と多くの奴婢(奴隷)や小作人を使って耕作させる豪族が各地に現れた。

 彼らは、前漢の武帝の時に始まった郷挙里選と呼ばれる官吏任用制を利用して官職を独占するようになり、経済的・社会的のみならず政治的にも力を持つようになり、地方の実力者となった。

 豪族は後漢末から魏・晋・南北朝を通じて、各地でますます力を強めていった。 

 三国の魏の文帝は、豪族の子弟ばかりが推薦されるなどの弊害が目立ってきた従来の郷挙里選にかわって九品中正と呼ばれる官吏任用制を始めた(220)。

 九品中正(きゅうひんちゅうせい)は中央から任命される中正官と呼ばれる役人を州郡に置き、中正官が郷里の評判によって人物を九品(9段階)にわけて中央に推薦する(これを郷品(きょうひん)という)、中央では郷品に基づいて相応する官職に任命するという官吏任用制で、魏・晋・南北朝を通じて行われた。

 郷品に基づいて相応する官職に任命するやり方とは、官職を上・中・下に分け、さらにその中を上・中・下に、計9段階に分ける、そして上の上を一品とし、下の下を九品とした。そして丞相や大将軍を一品とし、大臣級は三品、地方長官は四品と決めておき、三品に推薦された者は4ランク下の七品の役に任命され、累進すれば最後は三品の役に就くようにした。なおここから上品とか下品の語が生まれたと言われている。

 この九品中正の鍵を握るのは中正官である。彼らがしっかりした人物評定をすれば、優れた人物がふさわしい地位・官職に就けるが、そこに賄賂とか情実などが入り込み、人物評定が正しく行われないことになれば本来の役割を果たさなくなってしまう。ところが当時は豪族の全盛時代で中正官になるのは、ほとんどその地方の豪族であったために、結果的には豪族の子弟が上級官職を独占することとなった。

 「上品に寒門なく、下品に勢族なし」という有名な言葉がある。寒門は貧乏で社会的に無力な低い家柄のことであり、勢族は有力な豪族のことである。つまり貧乏で低い家柄の人はどんなに才能があっても上品に推薦されず、従って高い官職につけない、下品に推薦されている人の中には勢族の人は見あたらない、豪族の子弟は才能がなくても上品に推薦され高い官職に就くことが出来た、豪族が高級官職を独占した様子をなげいた言葉である。 このようにして中央に進出して政治的権力を握り、上級官僚の地位を世襲的に占めるようになった豪族たちを、この頃から貴族と呼ぶ。魏・晋・南北朝から次の隋・唐の時代はまさに貴族の時代であった。  

 後漢末から五胡十六国時代の戦乱や豪族による土地兼併によって土地を失った農民は流民となって各地をさまよい、あるいは豪族の奴婢となった。このことを放置すれば、国家が直接支配する土地と人民を減少させ、軍事面での破綻や税収の減少にともなう国家財政の破綻を引き起こすことになるので、各王朝は何とかして豪族の大土地所有を抑えようとして様々な対策を行った。

 三国の魏は屯田制を実施した。屯田制は国家が耕作者の集団をおいて官有地を耕作させる制度で、軍屯と民屯がある。軍屯はおもに辺境の軍隊が食糧を自給するために、兵士とその家族が耕作する方法であり、民屯は農民に官有地を耕作させる方法である。魏の曹操は一般の農民をまねいて耕作させ、収穫の5〜6割を納めさせた。これは魏の有力な財源となり、魏の経済力を増大させた。

 西晋は占田・課田法を採用した。これは武帝が呉を滅ぼして天下を統一した直後(280)に発布した土地制度である。占田は土地所有の最高限度を定めたもので、男子70畝、女子30畝とされたが、官人には官職や位階(一品から九品)に応じて50頃(けい、1頃は 100畝=約5.5ha)から10頃の所有が認められた。課田は農民に官有地や戦乱による無主の土地を割り当てて耕作させたものといわれている。占田・課田法については内容や実施の程度などはよく分かっていないが、大土地所有の制限と税の確保を目的としたものであることは間違いないであろう。

 東晋に始まり南朝で行われた政策に土断法がある。これは当時、華北の戦乱を逃れて多くの農民・流民が江南へ移動してきたが、彼らは戸籍につかず、租税を納めず、豪族の私有民(奴婢)となる者が多かったので、彼らを現住地の一般の戸籍に登録させた政策である。

 北魏では均田制が行われた。第6代皇帝の孝文帝が実施した均田制は、土地所有額を制限し、国家の土地を貸し与え、国家による土地と人民の支配および税収の確保を図った制度である。

 北魏が与えた土地には露田(穀物を栽培する土地)、麻田(麻を作る田)、桑田(桑を植える田)があり、露田と麻田は死亡または70歳で返還したが、桑田は世襲された。そして丁男(15〜69歳)には露田40畝、麻田10畝、桑田20畝が支給された。

 なお北魏では妻(丁男の半分が支給された)、そして奴婢(丁男と同じ)や耕牛(1頭につき30畝、4頭まで支給)にまで支給されたので豪族に有利であった。

 均田制によって土地を支給された均田農民には租(穀物)・調(特産物)・役(労役)の税が課せられた。

 よく知られているように、この北魏の均田制は隋・唐に受け継がれて行くことになる。

 各王朝が行った大土地所有を抑制しようとする政策は、国家が農民を確保するにはある程度役に立ったが、豪族の大土地所有を抑制するうえではほとんど無力で効果なく、豪族は前述の九品中正を利用して中央政界に進出して政治的権力を握り、貴族階級を形成していくこととなる。

304-439,計136年 五胡十六國(Sixteen Kingdoms by Five Clans of Barbarians)

304 甲子年
304 劉淵(-310)國號漢,劉曜(-333)改為趙,即前趙(304-329)
304 成(漢)立(304-347),即前蜀
319 石勒(274-332)立後趙(319-350)
324 前涼立(324-376)
329前趙滅
337 慕容立前燕(337-370)
347 成(漢)滅
348 後趙僧佛圖澄(232-348)逝
350 後趙滅
351 苻健立前秦(351-394)
364 甲子年
366 沙門樂起造敦煌石窟
370 前燕滅
384 後秦立(384-417)
384 慕容垂立後燕(384-409)
385 西秦立(385-431)
386 呂光(337-399)立後涼(386-403)
394 前秦滅
397 南涼立(397-414)
398 南燕立(398-410)
400 西涼立(400-420)
401 沮渠蒙遜(386-433)立北涼(401-439)
401 天竺國鳩摩羅什(Kumarajiva,343?-413?)到長安
403 後涼滅
407 赫連勃勃(-425)立夏(407-431)
409 北燕立(409-436);後燕滅
410 南燕滅
414 南涼滅
417 後秦滅
420 西涼滅
424 甲子年
431 西秦滅,夏滅
436 北燕滅
439 北涼滅
439 五胡十六國(304-439)結束
五胡十六国と南北朝

 西晋末の匈奴の兵乱(永嘉の乱)をきっかけに、中国の北辺や西辺からモンゴル系またはトルコ系の匈奴・鮮卑・匈奴の別種である羯やチベット系のてい・羌がいっせいに華北に侵入して国を建てた。匈奴・鮮卑・羯・てい・羌を五胡と呼ぶ。

 華北では、4世紀の初めから5世紀の初めまでの約100年間に、匈奴の劉淵が建てた前趙(304〜329)を初めとして13の国が五胡によって建国された。これに漢人の建てた3つの国を合わせて五胡十六国といい、この時代を五胡十六国時代(304〜439)と呼ぶ。

 この間、チベット系のてい族が建てた前秦(351〜394)の第3代の王、苻堅(位357〜385)は、漢人宰相を用いて内政を整え、華北を統一し、中国の統一をめざして100万と称する大軍で南下したが、ひ(さんずいに肥)水の戦い(338)で東晋軍に大敗し、以後国内は分裂し鮮卑族の勢力が増大した。

 鮮卑族は、モンゴル高原の遊牧民で匈奴に服属していたが、匈奴の滅亡後の2世紀に一時統一されモンゴル高原で強大となった。その後、再び分裂し各地に諸部族が割拠した。五胡十六国時代には、諸部族の一つの慕容氏などが華北に侵入し、4世紀以後16国のうちの5つの国を建てた。

 鮮卑族の一部族である拓跋氏は2世紀後半から鮮卑の中心氏族となり、拓跋圭(371〜409、道武帝、位386〜409)の時、前秦の崩壊に乗じて拓跋部を統一し、魏王の位に即いた(386)。のち華北に侵入・制圧し、平城(現在の大同)に遷都し、国号を北魏(386〜534)と称し(398)、部族制を解散して中国的王朝を創始した。

 北魏の第3代皇帝の太武帝(位423〜452)は、北涼を滅ぼして華北の統一を完成し(439)、五胡十六国時代に終止符をうった。また鮮卑が華北に移動した後にモンゴル高原で強大となり、北魏の北辺を脅かしていた柔然(モンゴル系の遊牧民族)を討ち、南下して宋(南朝)を大破して打撃を与えた。彼は道士の寇謙之(363〜448)を信任して道教を信じ、仏教を弾圧して廃仏を行った(446)。これは中国史上「三武一宗の法難」といわれる仏教の四大弾圧の最初の弾圧となった。

 北魏の第6代皇帝が有名な孝文帝(位471〜499)である。5歳で即位したため、486年までは祖母の太皇太后が執政した。その間に官吏の俸給制、均田制(485)(後述)、三長制(486)(5家を隣、5隣を里、5里を党とし、隣長・里長・党長(三長)を置いて戸口調査・徴税・均田制の実施を担当させた村落制度)等が実施された。

 孝文帝は、幼少の時から読書を好み、儒教の教養を身につけ、中国文化にあこがれた。親政を始めると徹底した鮮卑族の中国化政策を進め、平城から洛陽に遷都し(494)、鮮卑人の胡服を禁止し(鮮卑族は遊牧に適した筒袖・ズボンを着用していたが、それを禁止してゆったりとした中国服に改めさせた)、胡語を禁止し(鮮卑語の使用を禁止し中国語を使用させた)、胡姓を禁止してすべて中国風に改めさせた。さらに鮮卑と漢人の通婚を奨励した。また洛陽郊外の龍門に大石窟が開かれていくのも
洛陽遷都以後である。

 孝文帝の徹底した鮮卑人の中国化政策は、北魏を急速に文化国家に変えていった。その一方で今までの素朴質実な鮮卑人の生活がぜいたくになり、それとともに軍事力が衰えていった。鮮卑族はその後、漢人に同化され、史上から姿を消していくこととなる。

 孝文帝の死後、30数年で北魏は分裂し、東魏(534〜550)と西魏(535〜556)が成立した。東魏は、将軍の高歓が孝文帝の曾孫を擁立して建てた国であり、西魏は同じく将軍の宇文泰(うぶんたい)が高歓のもとから逃げてきた北魏最後の皇帝を殺して、孝文帝の孫を擁立して建てた国である。

 高歓の子で東魏の宰相であった高洋は、東魏から禅譲により北斉(ほくせい、550〜577)を建てたが、北斉は6代続いた後に北周に滅ぼされた。

 宇文泰の子が西魏から禅譲により建国したのが北周(556〜581)である。北周は北斉を滅ぼして華北を統一し5代続いたが、外戚の楊堅に国を奪われた。楊堅は隋の創始者である。

 北魏・東魏・西魏・北斉・北周の5王朝をまとめて北朝(439〜581)という。

 一方、江南では司馬睿によって建国された東晋(317〜420)が約100年間続いた。この間華北の五胡十六国の戦乱を避けて、華北の漢人の貴族・豪族をはじめ多くの農民も江南に移住してきた。このため江南の人口は急激に増加し、華北との人口比率もほぼ1:1になった。

 華北を五胡に奪われ、江南に移住・定着した漢人は江南の開発を進めた。このため三国の呉以後、開発が進められていた江南(長江の中・下流域)では土地の開墾・灌漑用水路が引かれ、耕地が拡大し、水田耕作が普及して農業生産力が急速に増大した。以後、中国の経済の中心は江南に移っていくこととなる。

 東晋の皇帝は、華北から移住してきた名門貴族と土着の豪族との対立・調整に苦心した。東晋では皇帝の力が弱く、華北の名族出身の王氏や桓氏の政権争いが続き、その間北方の五胡の侵略にも苦しめられた。特に前秦の苻堅の南下は最大の危機であったが、ひ水の戦い(338)で撃退した。

 東晋の末に道教徒の孫恩の指導する民衆の反乱が起こった。これに乗じて軍閥の桓玄が帝位を奪おうとしたが、軍人の劉裕(356〜422)が桓玄を討って安帝を復位させて政治の実権を握った。後に安帝を暗殺して恭帝(東晋11代、最後の皇帝)を立て、翌年に禅譲によって帝位につき、建康(現在の南京)を都として、宋(420〜479)を建国した。宋の武帝(位420〜422)である。

 宋は、439年に華北を統一した北魏の圧迫を受け、やがて皇族・武将の反乱が続く中で武将の蕭道成(しょうどうせい)が実権を握り、順帝から禅譲を受けて斉を建て、宋は8代約60年で滅んだ。

 斉(せい、479〜502)も皇族の蕭衍(しょうえん)に国を奪われて7代で滅びた。

 梁(りょう、502〜557)の創始者である武帝(蕭衍、位502〜549)の48年間にわたる治世は南朝及び南朝文化の最盛期であったが、末年に侯景(東魏の武将、梁に帰属したが、後に反乱を起こし、建康を陥れ、国号を漢と称したが、やがて敗死した)の乱が起こって 大打撃を受け、武帝の死からわずか8年後に武将の陳覇先に滅ぼされた。

 梁を滅ぼし、陳(557〜589)を建てた陳覇先(ちんはせん、武帝、位557〜559)は微賤の出だったが、侯景の乱に功があり、後に禅譲を受けて即位した。陳は5代続いて隋に滅ぼされた(589)。その滅亡によって南朝が終わり、隋による中国の統一が達成された。

 宋・斉・梁・陳の4王朝をまとめて南朝(420〜589)と呼ぶ。華北で興亡した北魏以後の5王朝と江南の4王朝が併存し、対立した時代を南北朝時代(439〜589)と呼ぶ。

 後漢が滅び、三国が分立した時代から隋によって統一されるまでの約370年間を魏・晋・南北朝時代(220〜589)と総称する。

386-589,計204年 南北朝(Southern and Northern Dynasties)

420-589,計170年 南朝(Southern Dynasties)

420-479,計60年 宋(Song/Sung)

420 永初:武帝(劉裕,-422)即位
422 少帝(劉義符,-424)
423 景平
424 甲子年
424 元嘉:文帝(劉義隆,-453)
433 謝靈運(385-433)逝
445 [後漢書]作者范曄(398-445)被殺
452 孝武帝(劉駿,-464)
454 孝建
457 大明
464 廢帝(劉子業,449-465)
465 永光
465 景和:明帝(劉,-472)
465 泰始
466 詩人鮑照(414?-466)逝
472 泰豫:後廢帝(劉,-477)
473 元徽
477 昇明:順帝(劉準)
479 宋(420-479)亡

479-502,計24年 齊(Qi /Ch'i)

479 建元:高帝(蕭道成,-482)即位
482 武帝(蕭,-493)
483 永明
484 甲子年
493 廢帝(蕭昭業)
494 隆昌
494 延興:後廢帝(蕭昭文)
494 建武:明帝(蕭鸞,-498)
498 永泰:東昏侯(蕭寶卷)
499 永元
500 祖沖之(429-500)逝
501 中興:和帝(蕭寶融)
502 齊(479-502)亡

502-557,計56年 梁(Liang)

502 天監:武帝(蕭衍,-549)即位
520 普通:印度達摩祖師(Bodhidharma)東來
527 大通
529 中大通
531 [文選]作者昭明太子(蕭統,501-531)逝
535 大同
544 甲子年
546 中大同
547 太清
549 簡文帝(蕭綱,-551)
550 大寶
551 天正:豫章王(蕭東)
552 承聖:元帝(蕭繹,-554)
554 貞陽侯(蕭淵明)
555 天成
555 紹泰:敬帝(蕭萬智)
556 太平
557 梁(502-557)亡

557-589,計33年 陳(Chen)

557 永定:武帝(陳霸先,-559)即位
559 文帝(陳,-566)
560 天嘉
566 天康:臨海王(陳伯宗)
567 光大
568 宣帝(陳項)
569 太建
570 回教穆罕默徳(Muhammad, 570-632)誕生
582 後主(陳叔寶)
583 至
587 禎明
589 陳(557-589)亡,南朝(420-589)結束

386-581,計196年 北朝(Northern Dynasties)

386-534,計149年 (北)魏(Northern Wei)

386 登國:道武帝(拓跋珪,371-409)即位
396 皇始
398 天興
404 天賜
409 永興:明元帝
414 神瑞
416 泰常
424 甲子年
424 始光:太武帝
428 神
432 延和
435 太延
440 太平真君
446 出廢佛令
451 正平
452 承平:南安王
452 興安:文成帝(440-465)454 興光
455 太安
460 和平
460 大同雲崗石窟開始建造
465 獻文帝(拓跋弘,454-476)
466 天安
471 延興:孝文帝(拓跋宏,467-499)
476 承明
477 太和
484 甲子年
494 遷都洛陽,禁胡風,行漢化,龍門石窟開始建造
499 宣武帝(-515)
500 景明
504 正始
508 永平
512 延昌
515 孝明帝(元,-528)
516 熙平
518 神龜
520 正光
525 孝昌
527 道元(466?-527)逝,著有[水經注]
528 武泰:孝莊帝(元攸,-530)
528 建義
528 永安
530 建明:敬帝
531 普泰:節閔帝
531 中興:出帝
532 太昌
532 永興:孝武帝(元修,510-534)
532 永熙
534 北魏(386-534)結束

534-550,計17年 東魏(Eastern Wei)

534 天平:孝靜帝(元善見)即位
538 元象
539 興和
542 曇鸞(476-542)逝
543 武定
544 甲子年
550 東魏(534-550)結束

535-556,計22年 西魏(Western Wei)
550-577,計28年 北齊 (Northern Qi)
.......・西魏
.......・・北齊
535 ・大統:西魏文帝即位
544 甲子年
547 ・・高歡(496-547)逝
550 ・・天保:北齊文宣帝即位
551 ・西魏廢帝
554 ・西魏恭帝
556 ・西魏(535-556)結束
557-581,計25年 (北)周(Northern Zhou/Chou)
.......・(北)周
.......・・北齊
557 ・(北)周孝閔帝(宇文覺)
558 ・(北)周孝明帝(宇文毓)
559 ・武成
.......・・北齊廢帝
560 ・乾明
560 ・(北)周武帝(宇文,543-578)
560 ・・皇建:北齊孝昭帝
561 ・保定
.......・・太寧
562 ・・河清:北齊武成帝
565 ・・天統:北齊後主
566 ・天和
570 ・・武平
572 ・建徳
574 ・周武帝出廢佛令
576 ・・隆化
577 ・・承光:北齊幼主即位;同年退位
577 ・北齊(550-577)結束
578 ・宣政(北)周宣帝(宇文[斌貝], 559-580)
579 ・大成
579 ・大象
579 ・(北)周靜帝
581 ・北周(557-581)結束

六朝時代の文化

 魏・晋・南北朝時代の文化に関して最も重要なことは、中国において仏教が社会一般に普及したことである。

 仏教の伝来については、従来は「後漢の明帝のとき(67)、二人のインド僧が中国に仏教を伝え、洛陽に白馬寺が建てられた。」とされてきたが、最近は「紀元前2年に長安の前漢の朝廷へ大月氏王(クシャーナ朝)の使節がやってきて、仏陀の教えについて語った。」 という記録から、年表等にも前2年と書かれている。いずれにしても紀元前後の頃に西域から伝えられたと考えてよい。

 しかし、最初の頃は一部の人々の間で外国趣味として扱われたか、シルク・ロードを通ってやってきた西域の人々に信仰されていたにすぎなかった。

 後漢末から五胡十六国時代、明日の命さえ知れない混乱・戦乱が続くなかで人々は否応なしに死について考え、救いを求めた。こうした状況の中で仏教が人々の心を捕らえ、4世紀後半から民衆の間にも広まっていった。

 仏教が急速に盛んとなっていく上で大きな役割を果たした人物は仏図澄(ぶっとちょう、?〜348)である。仏図澄は西域の亀茲(きじ、天山山脈南麓のオアシス都市、仏教が盛んで、付近にキジル千仏洞がある)に生まれた。本名はブドチンガ。310年に洛陽に来て、後趙(五胡十六国の一つ、羯族が建てた国)の石勒と石虎(暴虐な王として有名)の信頼を得て、混乱の華北で仏教を広めた。寺院893カ所を建立し、その門下生は1万人に達したと言われている。

 仏図澄と同じ亀茲の人で仏典の漢訳に大きな功績を残したのが鳩摩羅什(くまらじゅう、344〜413)である。本名クマラジーヴァ。父はインド人、母は亀茲王の妹で熱心な仏教徒であった。7歳で出家し、中央アジア・インドで仏教の教理を学んだ。前秦の苻堅の亀茲遠征の時に捕らえられ涼州(甘粛省)に移り、そこで中国語を学んだ。のちに後秦王の国師として長安に迎えられ(401)、布教に努めると共に「妙法蓮華経」をはじめとする仏典35部294巻を漢訳した。

 以後、仏教は華北では北魏の朝廷の保護を受けて(太武帝は弾圧したが)盛んとなり、また東晋から南朝にかけて江南でも仏教は非常に盛んであった。多くの仏寺・仏像が造られ、僧尼の数は激増した。特に南朝の梁の武帝は仏教に傾倒し、多くの名僧が輩出して南朝仏教の黄金期を現出した。

 東晋の僧、法顕(ほっけん、337?〜422?)は出家生活に必要な戒律の原典を求めるために、60余歳の老齢で数人の同志と共に長安を出発し(399)、敦煌を通り6年かかってインド(グプタ朝の時代)に入り、仏跡を巡拝し、仏典を得て、セイロン(現スリランカ)に渡り、インド・セイロンに約5年滞在した後、海路帰国の途につき412年に帰国した。帰国後は仏典の漢訳に従事した。その旅行記「仏国記」は、当時の西域・インド・南海諸国(東南アジア)の事情を知る上で貴重な文献である。

 仏教の隆盛とともに仏寺・仏像が盛んに造られ、また各地に石窟・石仏が掘られた。特に敦煌(とんこう)・雲崗(うんこう)・竜門の石窟は中国の仏教遺跡として有名である。

 敦煌莫高窟(ばっこうくつ、千仏洞ともいう)は五胡十六国時代の366年頃から鳴沙山の麓で開鑿され始め、元代(14世紀)までの間に約1000窟が掘られ、492窟が現存している。仏像が約2400体、壁画(仏画、仏陀の生涯、仏陀の伝説等)が約4万5千平方メートルにわたって描かれている。1900年にその一窟の壁の中から5万点に及ぶ経典類・古写本・古文書が発見された。なぜ大量の経典等が窟の壁の中に隠されていたのかという謎を11世紀の西夏の侵入による兵乱を避け、仏典を守るために隠したとの解釈で書かれているのが、有名な井上靖氏の「敦煌」である。映画化されたので見られた方も多いと思う。

 雲崗の石窟は、鮮卑族が建てた北魏の初期の都があった平城(現在の大同)の西20kmの所にある大石窟寺院である。3代太武帝の廃仏(仏教弾圧)の後に即位した4代文成帝(位452〜465)が仏教を復興し、5窟の大仏を造らせてから、6代孝文帝が洛陽に遷都する(494)までに大小53の石窟を東西1kmにわたって造営された。ガンダーラ・グプタ様式の影響を受けた仏像が並んでいる。特に有名な大仏は高さ14mもある。

 孝文帝の洛陽遷都が落ち着くと、孝文帝の子の宣武帝が雲崗の石窟にならい、洛陽の南13kmの伊水に沿う竜門に、父と曾祖母のために2窟を開き、さらに自らのために1窟を開いた。完成に23年間、80万人の労働力が投じられたと言われている。以後、唐の玄宗皇帝(位712〜756)までの約250年間に2100余の石窟が開かれた。その仏像は雲崗のそれに比べると中国化している。 

 仏教の隆盛に刺激されて、この頃道教が成立した。道教は後漢末の太平道(黄巾の乱の指導者である張角が始めた)や張陵の始めた五斗米道(天師道ともいう、祈祷によって病気を治し、謝礼に米5斗を取った)を起源とし、それに当時貴族の間に流行していた不老長生を願う神仙術と老荘思想、さらには易・呪術・占卜などの様々な要素を含む宗教である。

 北魏の寇謙之(363〜448)は、河南省の嵩山(すうざん)に20年間こもって修行し、天神の啓示を受けて、今までの五斗米道を改革して新天師道を創始し、太武帝の尊信を受けて、道教を国教とし (442)、さらに太武帝に廃仏を行わせた。

 道教は初めて国家公認の宗教となり、形式も整えられ、道士(道教の僧)・道観(道教の寺院)などの言葉や教団組織が確立された。道教の不老長生と現世的利益を願う教えが中国人に受け入れられ、以後長く民衆に信仰され、儒教・仏教とともに中国の三大宗教のひとつとなる。

 魏・晋・南北朝時代の文化でもう一つ特筆すべきことは、江南で優雅な中国的な貴族文化が発達したことである。

 江南では、三国時代の呉に続く東晋・宋・斉・梁・陳の6王朝が興亡したが、この6王朝はいずれも現在の南京に都を置いた。現在の南京は呉の時代には建業と呼ばれたが、東晋以後は建康と呼ばれた。この6王朝を六朝(りくちょう)と総称し、この時代を六朝時代といい、その文化を六朝文化と呼ぶ。

 六朝文化の担い手は貴族であった。当時の貴族の教養とされたのが「玄、儒、文、史」である。玄は老荘思想、儒は儒学、文は文学、史は歴史である。

 玄、儒、文、史のなかでは儒学は人気がなく振るわなかった。もっとも人気を集めたのが玄学すなわち老荘思想であった。こうしたなかで清談の風がうまれた。清談は二人が一つのテーマで論議をたたかわすものであるが、六朝時代になると老荘思想による論議が盛んとなり、次第に世間を超越して、虚無を論ずるようになった。いわゆる「竹林の七賢」の阮籍(げんせき)らは老荘思想を身につけ、世事を逃れて自由放逸な生活を楽しみ、酒を愛し、竹林を好み、清談を楽しんだ。清談は上流貴族社会の流行となった。

 六朝時代に文学、書道、絵画などの芸術が一つのジャンルとして確立した。その担い手も貴族であった。

 文学では東晋の詩人である陶潜(とうせん、字の淵明から陶淵明とも、365頃〜427)や南朝の宋の詩人である謝霊運(しゃれいうん、385〜433)が有名である。

 陶淵明は、東晋の名将の曾孫であったが、生活のために下級官吏を歴任した。405年に県の知事になったが、官吏の束縛と監督官の横暴を嫌い、「五斗米(県の知事の俸給の一日分、日本の約5升にあたる)のために腰を折らず(上役にぺこぺこするのはいやだの意味)」とわずか80余日で辞任した。このとき作ったのが有名な「帰りなんいざ、田園まさに蕪(あ)れんとす。なんぞ帰らざらんや」で始まる「帰去来辞」(ききょらいのじ)である。故郷の田園に帰って、酒と菊を愛し、自然に親しみながら自適の生活を送り、詩を作った。六朝第一の自然詩人・田園詩人といわれた。

 謝霊運は、晋の名門の一族で宋に仕えたが、政治的に軽んじられたために官を辞し、山水に親しみながら政治的不満を詩で発散した。のち広州に流罪となり、脱走を企てて失敗し、刑死した。

 文章は対句を多く用いた華麗な形式(四六駢儷体(しろくべんれいたい))が尊ばれ、南朝梁の昭明太子(501〜531)が編纂した「文選」(もんぜん、周から梁までの百数十人の詩と散文800余を収録した書で、日本の平安時代の文学にも大きな影響を与えた)に収められている。

 絵画には顧ト之(こがいし、344頃〜405頃)があらわれ、「画聖」と称せられた。東晋の画家、顧ト之は江蘇省の豪族の出身で、人物画を多く描き、また神仙思想にもとづく山水画を描いた。「女史箴図(じょししんず)」(宮廷女性に対する教訓(女史箴)を1節ごとに絵であらわして、原文の一部を付したもの)が彼の代表作品とされてきたが、現在では唐代の模写と考えられている。

 書道には、東晋の書家で、山東の名門の出身である王羲之(307頃〜365頃)があらわれ、「書聖」と称せられた。彼は諸官を歴任し、郡の知事になったが早く辞職し、その後は自然の中で悠々自適の生活を送った。書道の大成者でその書風は後世長く模範とされた。特に「蘭亭序(らんていじょ)」が有名である。

 また「水経注」(地理書)、「斉民要術(せいみんようじゅつ、現存する中国最古の農書)、「傷寒論(しょうかんろん、実用的医学書)などの実用書もつくられた。

581-618,計38年 隋(Sui)

581 開皇:文帝(楊堅,541-604)即位
587 科舉開始
595 音樂家萬寶常(556?-595?)逝
600 遣隋使(小野妹子)入隋
601 仁壽
604 甲子年
604 煬帝(楊廣,569-618)
605 大業
610 大運河竣工
617 義寧:恭帝
618 隋(581-618)亡
1文帝楊堅
2
3恭帝
4恭帝
隋の統一

 隋の建国者である楊堅(文帝、541〜604、位581〜604)の父は北周建国の功臣の一人で重臣であった。楊堅は父の後を継いで、北周の将軍から最高官職である「八柱国」(府兵を指揮する貴族)となり、娘が北周4代皇帝宣帝の妃となったため外戚となった。そして宣帝の死後、幼い静帝が即位すると後見となり、これに反対する政敵を倒し、静帝に迫って禅譲させ、隋王朝(581〜618)を開いた。なお楊堅には鮮卑族の血が濃いという説がある。都は引き続いて長安におき、名を大興城と改めた。そして588年に南朝の陳討伐の軍を起こし、翌589年に陳を滅ぼし、西晋の滅亡以来、約270年ぶりに中国を統一した。

 文帝は、魏・晋・南北朝以来勢力を伸ばしてきた貴族の権力を弱め、皇帝の権力を強化し、中央集権的な国家の樹立を図った。

 そのために、北朝の律令・制度を継承しながら国家体制の整備を行い、まず軍事面では府兵制を全国に実施した(590)。府兵制は、西魏に始まり北周で行われた兵農一致の兵制で、均田農民から徴兵し、かわりに租庸調を免じた。

 さらに経済面では、北斉にならって、北魏以来の均田制をまず華北で次いで全国で実施した(592)。18〜59歳の丁男に露田80畝・永業田20畝を支給し、租庸調の税を徴収した。ただし、煬帝の時に北魏で行われていた妻や奴婢への給田を廃止し、官位に応じて官人永業田を与えることとした。これにより豪族・貴族は大土地を所有し、権威を保つためには隋の官位に就かなければならなくなった。

 文帝が行った改革の中で最も重要なことは、従来の九品中正にかわって科挙(選挙、官吏を選択推挙するの意味)と呼ばれる官吏任用制を始めたことである。

 中正官の推薦による九品中正では「上品に寒門なく、下品に世族なし」といわれたように、上級官職を豪族が独占し、家柄は良いが無能な官吏がのさばり、家柄の低い貧しい家の才能ある者の進出を妨げることになったので、中正官を廃止し(598)、学科試験の成績によって官吏を採用し、官吏への道を能力に応じて平等に開き、豪族・貴族による高級官職独占の弊害を除き、君主権の強化を図った。

 南北を統一した隋は、江南の米をはじめとする物資を運ぶために運河の開削を始め、文帝の584年に広通渠(こうつうきょ、長安と黄河を結ぶ運河)、さらに587年にかん溝(淮河と長江を結ぶ運河)が開通した。これをさらに大規模に行ったのが、次の煬帝である。

 対外的には、当時、北方で突厥が強大となっていたが、文帝は内紛に乗じて離間策をとり、そのため突厥は東西に分裂した(583)。東方では高句麗が隋領に侵入してきたことを口実に30万の遠征軍を送ったが大失敗に終わった(598)。

 文帝は、はじめ長男の楊勇を皇太子としたが、武将として優れた才能を持っていた次男の楊広は母に取り入り、兄を皇太子の位から追い落とし、皇太子となった(600)。しかし、文帝が再び長男の勇を皇太子に立てようとしたので、楊広は機先を制して父を毒殺して皇帝になったと言われている。楊広すなわち中国史上有名な第2代皇帝、煬帝(ようだい、569〜618、位604〜618)である。

 煬帝の煬は「天に逆らい、民を虐げる」の意味であり、父を毒殺したとの説もあり、人民を酷使し、豪奢な生活を営なむなど、暴君とされ、中国史上あまり評判がよくない。

 煬帝は即位すると、毎月200万人を使役して洛陽に東都を造営した。

 煬帝といえば、すぐに大運河の建設というように、大運河の建設は煬帝の業績の中で最も有名であり重要なことである。大運河は、幅30〜50mの水路で華北と江南の各地を結んだ運河で、当時次第に開発が進み米作の中心となってきた江南(長江の中・下流域)の米を中心とする物資を、人口が多い華北へ運ぶために建設された。全長1500kmに及ぶ大運河は以後華北と江南を結ぶ大動脈となり、中国経済発展に大きく貢献し、現在もなお人々に恩恵を与えている。 大運河の建設は、すでに文帝の時に始まっていたが、大規模な建設を進め完成させたのが煬帝である。にもかかわらず煬帝が大運河を建設したのは、彼が好んだ江都(揚州)への豪遊のためであるとも言われるが、これはやや気の毒な感じもする。

 まず100万人を動員して黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうさいきょ)を開削し(605)、すでに開通しているかん溝を通って黄河と長江が結ばれることとなった。次いで永済渠(えいさいきょ、黄河〜天津)(608)、江南河(長江〜杭州)(610)が開通した。

 通済渠が開通すると、最初の江都行幸が行われた。煬帝の「竜舟」は長さ200尺(約60m)、高さ45尺、4層づくりで100数十の部屋があった。それに諸王・百官・女官ら10万人の随従の人々を乗せた舟が数千隻が続き、200里(1里は約560m)の列をなしたと言われる。このために舟の引き手として8万人が農村からかり出された。この江都行幸は3回行われたが、3度目の時煬帝はその地で殺された。

 煬帝は対外的にも積極策をとった。北方の突厥に備えて「万里の長城」を修築したが、このために100万人の男女を徴発し、突貫工事で完成させた。また西の吐谷渾(とよくこん、青海省を中心に鮮卑系の人々が建てた国)を討って青海地方を併合し、西域諸国へも勢力を伸ばした。さらに南の林邑(ヴェトナム南部にあったチャム人の国)を討ち、琉球(現在の台湾)を征服した。

 この頃、聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣した(607)。その時の国書に「日出(い)づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや、云々」の文があり、煬帝が怒ったということは有名である。

 高句麗は、周辺諸国が朝貢する中で、煬帝の入朝の要求に従わなかった。突厥と結ぶことをおそれた煬帝は大規模な高句麗遠征を強行した。

 第1回の遠征(611)には、113万人を越える水陸の大軍が集められ、輸送にあたる者230万人が徴発された。軍の長さは1000里にも達したと言われている。しかし、陸軍は遼河(遼東半島の西の河)の線で高句麗軍の頑強な抵抗にあって6ヶ月も進めなかった。一方水軍は陸軍の到着を待たずに高句麗の首都平壌から60里まで迫ったが伏兵にあって大敗し、4万の兵は数千になった。遅れて陸軍が平壌から30里まで迫ったので、高句麗は偽りの降伏をし、そして隋軍が退くところに襲いかかって大勝利を得た。隋軍30万5千のうち遼東まで逃げ帰った者はわずか2700人だったと言われる。

 翌年(612)、第2回目の遠征が行われたが、遼河を渡ったところで内地に楊玄感の反乱が起こったので、全軍が引き上げ、反乱の討伐にあたり2ヶ月で鎮圧した。第3回の遠征が614年に行われたが、高句麗が降伏したので、軍は遼東から引き上げた。 

 高句麗遠征の失敗を機に、大土木事業や度重なる外征に徴発されて苦しんでいた農民が立ち上がり、各地で反乱が相次いだ。

 こうした状況の中で自暴自棄となった煬帝は江都に移り(616)、遊興にふける日々を送った。617年に李淵は長安に入り、煬帝の孫を擁立した。ついにクーデターが起こり、煬帝は近衛軍の兵士に殺され(618)、隋は滅亡した。

突厥の活動

 モンゴル高原では、鮮卑が華北に移った後の5〜6世紀に、モンゴル系の柔然が強大となり、モンゴル高原を中心に南満州からタリム盆地を支配下に置き、北魏と対立した。しかし、5世紀後半に支配下にあった高車が独立した後、次第に衰退し、6世紀中頃にトルコ系の突厥に滅ぼされた。

 アルタイ語族に属するトルコ人は、古くはモンゴル高原の北方、バイカル湖の南からアルタイ山脈にわたる地域で遊牧生活を営んでいた。

 中国史に登場する丁零(ていれい、前3〜後5世紀頃、初め匈奴に属していたが、後に独立し、匈奴に対抗した)、高車(こうしゃ、丁零の後身、柔然に属していたが、5世紀後半に独立し、柔然と対立した)、鉄勒(てつろく、丁零・高車の後身、隋・唐時代に中国人が突厥以外のトルコ人を呼んだ総称、バイカル湖の南からカスピ海にわたる広い地域に分布していた)などはいずれもトルコ系民族である。

 トルコ系遊牧民のうち、アルタイ山脈の西南にいた人々は、初め柔然に服属していたが、6世紀の中頃から強大となり、柔然を滅ぼして、モンゴル高原にトルコ人による統一国家を建てた。この国は中国では突厥(とっけつ、トルコの正しい音のテュルクの音訳)と呼ばれた。

 遊牧国家の君主はハガン(可汗)の称号を用いた。国を保つ王の意味である。柔然の王が初めて用いたとされているが、突厥の君主もこの称号を用いた。

 突厥の建国者は伊利(いり)可汗(552〜553)と号した。その子3代の王、木杆(もくかん)可汗(?〜572)の時、ササン朝のホスロー1世と同盟してエフタル(5〜6世紀に中央アジアで活躍した遊牧騎馬民族)を挟撃して滅ぼし(566)、東は満州から西は中央アジアにまたがる大帝国となった。そしてシルク・ロードを押さえて巨利を得て栄えた。 しかし、6世紀末には内紛が起こり、当時成立したばかりの隋の文帝はこの内紛を利用して離間をはかったので、突厥はモンゴル高原の東突厥と中央アジアの西突厥とに分裂した(583)。

 その後まもなく東突厥は隋に朝貢することとなり、その後も内紛が続いたが、7世紀初めの隋末の混乱に乗じて、再び勢いを取り戻した。しかし、630年に唐に滅ぼされた。

 19世紀末に、ロシアの考古学者がオルホン川(モンゴル高原からバイカル湖に注ぐ川)の流域で碑文を発見し、デンマークの言語学者トムセンによって解読された。それによるとこの碑文は、東突厥の可汗の功績を讃えたもので、732・735年に建てられたものであることが分かった。そこから8世紀のトルコ語を記録した突厥文字が、北方遊牧民族の最古の文字であることが明らかになった。

隋・唐の社会

 隋の文帝は、国家権力の強化に努め、貴族の力を弱めるために均田制を施行して大土地所有を制限し、租庸調制、府兵制を行った。

 唐も隋の制度を継承し、均田制、租庸調制、府兵制を実施した。この3つの制度は、唐を支える三本柱であり、お互いに密接に関連していたから、その一つが崩れると全部が崩れる性格のものであった。

 唐の均田制は、高祖の時に隋の制度をもとに制定された(624)。丁男(21歳から59歳)と中男(16歳から20歳)に口分田(穀物を植える土地)80畝と永業田(桑・麻を植える土地)20畝、計100畝を支給した。100畝は、日本の5町5反で約5.5haである。1haは10000平方メートルであるから、日本の農地の規模から見ると広大な土地である。日本の班田収授の法の口分田は2反(約23a)であった。 口分田はその人一代に限って使用が認められ、死ねば国家に返還させたが、永業田は子孫への世襲が認められた。

 この他に、官人永業田(高級官僚への永業田、官位により広さは異なるが、大きなものは1万畝のものもあった)、職分田(官職に応じて授ける土地)、公廨田(こうかいでん、官庁の公費にあてるための土地)などがあり、老男・身体障害者・寡婦・丁男のいない戸主・商工業者・僧侶・道士(道教の僧)・特殊身分への給田もあった。

 均田制が始まった北魏では、妻・奴婢さらに耕牛にまで土地が支給されたが、隋では奴婢や耕牛への支給がなくなり、さらに唐では妻への支給もなくなり、成年男子が支給の対象とされた。

 政府は農民に土地を均等に与えることによって、自作農を増加させ、土地への定着をはかり、均田農民に租税と兵役を負担させ、同時に貴族の大土地所有を制限しようとしたが、全国で土地の支給と返還がどの程度行われたかはよく分かっていない。

 土地を支給される代わりに均田農民には租・庸・調が課せられた(624年制定)。

 唐の租は粟(ぞく、外皮がついたままの穀物)2石(1石は26.73kg)、庸は年間20日の無償労働または1日絹3尺(1尺は31.1cm)・布(あさぬの)3.5尺の割で換算した代償、そして調は絹2丈(1丈は10尺)と綿(まわた)3両(1両は37.3g)または布2.5丈と麻3斤(1斤は222.7g)であった。この他に雑徭(ざつよう・ぞうよう)といって地方での土木事業などに労役を提供するものがあり、年間40日以内(50日説もある)とされていた。

 府兵制は、西魏で始まり隋・唐で整備された兵農一致の兵制である。唐では全国に折衝府(せつしょうふ、全国の約600カ所に設置された軍営、その8割は長安・洛陽周辺にあった、府兵の徴集・訓練・動員などを司った)を置いて、丁男中から強健な府兵を選び農閑期に訓練し、国都の衛士及び辺境の防人になった。兵役期間中は租庸調は免除されたが、武器・衣服は自弁した。 636年に制定されたが、均田制の崩壊による均田農民の没落と共に、募兵制に変わっていき、749年に廃止された。

 唐では、貴族は父祖の官位に従って任官する蔭位(おんい)の制によって官僚となり、上級の官職を占めた。しかも、唐の均田制では、官人永業田や職分田など官僚を優遇する制度があり、高級官僚では永業田だけで100頃(けい、1頃は100畝)もあり、下級官僚でも職分田と永業田を合わせると4頃もあった。従って高級官僚を出した一族は、数代経つと永業田が蓄積されて大土地所有者となった。 つまり、唐では貴族による大土地所有制が事実上認められていた。

 元来、国家から支給された土地を売買することは禁止されていたが、高宗の頃には土地の売買が行われるようになり、貴族・官僚・寺院などによる土地の兼併が進み、大土地所有制が進展した。これらの貴族らの所有地(私有地)は荘園と呼ばれる。貴族は荘園を奴婢や半奴隷的な小作人に耕作させた。

 均田制は、8世紀の初め頃から行きづまりだした。人口が増加し、土地が不足するようになり、土地の支給や返還がうまく行かなくなり、農民や官僚に与えられた永業田が売買された。さらに、産業や商業が発達して貧富の差が大きくなり、貴族や新興の地主らは、山林・沼沢・辺地を開発して荘園を広げ、貧しい農民の土地を奪って荘園をいっそう広げていった。

 均田農民の負担のうち、租・調の負担はあまり重くなかったが、農民を苦しめたのは庸と徴兵であった。玄宗の時代、外征に多くの農民がかり出され、農地は荒廃した。特に安史の乱後の政治的混乱の中で、土地を捨てて、あてもなくさまよう流民の群が各地にうまれた。その一方で、没落して逃亡した農民を労働力とする荘園がますます発展していった。 均田制がうまく行かなくなると、府兵制は実施困難となり、募兵制が行われるようになった。玄宗は723年に12万人の兵を募集した。募兵制の発達により、府兵制は749年に廃止された。

 また均田制の崩壊とともに、租庸調の税制も行われなくなり、唐の財政は窮乏した。こうした状況を打開するために実施されたのが両税法と呼ばれる新税制である。

 徳宗(9代、位779〜805)は、安史の乱後の回復をはかり、楊炎(727〜781)を宰相に任命し、楊炎の意見を入れて、780年に両税法を全面的に実施した。

 両税法は、現住地で(土地を捨てて移動した農民を、元の土地に戻すことをあきらめて、現に住んでいる所で課税する)、実際に所有している土地や資産の額に応じて(均田制では租は粟2石というように税は均等であったが、両税法では多くの土地・資産を持っている人からは多くの税を徴収しようとした。このことは唐が大土地所有
制を認めたことを意味する)、 夏6月(麦の取り入れ期)と秋11月(稲の取り入れ期)の年2回徴収する(ここから両税法の名が来ている、両は二つの意味)税法で、銭納を原則とし(実際の納入には、粟や布帛などの代納を認めた)、単税主義(今までは租庸調以外にも雑多な税があったが、税を一本化した)をとった。

 この両税法の施行によって、唐の国家財政は一時的に好転した。しかし、楊炎は、政敵を暗殺し、独断専行したので、徳宗の信任を失い、また藩鎮(節度使)の反感を受け、宰相の地位を追われ、左遷されて赴任する途中で自害を命じられた。

 両税法は、その後、土地税の性格を強め、宋・元・明に受け継がれ、明の中期に一条鞭法が実施されるまで、ほぼ800年にわたって続くことになる画期的な税法であった。

 こうして、唐を支えた三本柱である均田制・租庸調制・府兵制は、安史の乱後、完全に崩壊し、行われなくなった。

 唐の都の長安は人口100万人といわれ、政治都市であると同時に、国内商業の中心地であり、世界商業の中心地でもあった。但し、長安では商業区は東市と西市に限定され、他の地域での商業は許されず、その営業も正午から日没までとされていた。

 唐帝国の領土の拡大によって、中央アジアではイスラム帝国と領土を接することになり、シルク・ロードを利用しての東西貿易が発達し、中央アジアの商権を握っていたソグド人をはじめ、ペルシア人・アラブ人らが長安に来住し、中国人も西方に進出した。長安の住民中、胡人(主に西方の外国人)の占める割合はかなり高かったと言
われている。胡人の来住とともに西方の文物が盛んに流入し、彼らの生活様式である胡風が流行した。 胡人だけでなく、遣唐使として唐を訪れた日本人をはじめ東アジアの人々も多かったと思われる。長安はまさに国際都市であり、当時の世界の二大都市(当時の世界最大の都市はバグダードで人口は150〜200万人と言われている)として繁栄した。

 また「海の道」による貿易は、1世紀頃からインドとローマの間で、季節風を利用した貿易が盛んとなり、やがてインドと中国を結ぶ航路も開け、中国の商船が活躍していたが、7世紀以後、イスラムの勃興にともない中国人に替わって、アラブ人が航海権を握るようになり、アラブ人は広州・泉州(福建省)・揚州(江蘇省)などの海
港に盛んに来航し、貿易に従事した。広州・泉州・揚州も国際都市として繁栄し、広州には唐の中期以降、市舶司(海上貿易事務を司る役所)が置かれ、また広州・泉州には蕃坊(外国商人の居留地)があった。

 商業・産業の発達にともない、遠隔地との取引が拡大するなかで、飛銭と呼ばれる銭を遠方に送る送金手形が利用されるようになった。

 魏晋南北朝以来開発が進んだ江南では、茶や綿花の栽培が盛んとなった。喫茶が流行してくるのも唐代からである。

618-907,計290年 唐(Tang/T'ang)

618 武徳:高祖(李淵,565-635)即位
626 太宗(李世民,600-649)
627 貞觀:玄奘(Hsuan Tsang,602-664)印度取經(627-645)
627 裴矩(557-627)逝
638 六祖惠能(Hui Neng,638-713)生
638 虞世南(558-638)逝
641 文成公主(625?-680)嫁吐番王松贊干布
641 歐陽詢(557-641)逝
643 魏微(580-643)逝
645 玄奘(602-664)回洛陽著[大唐西域記]
645 顏師古(581-645)逝
645 日本大化革新
647 王玄策出使天竺(印度)
648 房玄齡(578-648)逝
648 孔穎達(574-648)逝
649 高宗(李治,628-683)
650 永徽
656 顯慶
658 遂良(596-658)逝
661 龍朔
664 甲子年
664 麟徳
666 乾封
668 總章
670 咸亨
671 義淨(635-713)天竺求經
673 畫家立本(-673)逝
674 上元676 儀鳳
679 調露
680 永隆
681 開耀
682 永淳
683 弘道:中宗(李顯,656-710)
684 嗣聖:睿宗(李旦,662-716)
684 文明:(周)武后(武則天,Wu Tse-t'ien,625-705)
684 光宅
685 垂拱
686 神會(686-760)生
689 永昌
690 載初
690 天授
692 如意
692 長壽
694 延載
695 證聖
695 天??歳
696 萬歳登封
696 萬歳通天
697 神功
698 聖暦
700 久視
700 狄仁傑(630-700)逝
701 大足
701 長安
701 永泰公主(684-701)被殺,陵墓於1960-1962出土
705 神龍中宗(李顯,656-710)
706 神秀(-706)逝
707 景龍
710 唐隆:睿宗(李旦,662-716)
710 景雲
712 太極:玄宗(李隆基,685-762)俗稱唐明皇,唐武皇
712 延和
712 先天
713 開元
716 畫家李思訓(651-716)逝
722 行募兵制
724 甲子年
740 孟浩然(689-740)逝
742 天寶
742 王之渙(688-742)逝
745 楊太真(-756)為貴妃
747 哥舒翰(-757)任隴右節度使
747 高仙芝遠征西域
752 楊國忠(-756)任宰相
752 李林甫(-752)逝
754 鑒真(687-763)赴日開律宗
755 安祿山(An Lu-shan,703-757)亂(755-763)起
755 王昌齡(698-755?)逝
756 至徳:肅宗(李亨)
758 乾元
759 王維(Wang Wei, 699-759)逝
760 上元
761 史思明(-761)被殺
762 寶應:代宗
762 詩仙李白(Li Po, 701-762)逝
762 高力士(684-762)逝
763 廣徳
765 永泰
766 大暦
770 詩聖杜甫(Tu Fu, 712-770)逝
770 岑參(715-770)逝
779 徳宗(李建,742-805)
780 建中
781 郭子儀(Kuo Tzu-i, 697-781)逝
784 甲子年
784 興元
784 顏真卿(709-784)逝
785 貞元
798 呂洞賓(798-)生
804 日僧空海(Kukai,774-835),最澄(Saicho,767-822)隨遣唐使來華
805 永貞:順宗(李誦,-806)

805 憲宗(李純,-820)
806 元和
808 牛僧孺,李宗閔黨爭起
816 李賀(790-816)逝
819 韓愈(768-824)上奏[論佛骨表]
819 柳宗元(773-819)逝
820 穆宗(李恆,-824)
821 長慶
824 敬宗(李堪,-826)
825 寶暦
826 文帝(李昂,809-840)
827 太和
831 元(779-831)逝
834 薛濤(768?-834?)逝
836 開成
839 日本最後遣唐使入唐.丹仁隨行.
840 武帝(李,-846)
841 會昌
841 會昌廢佛(841-845)
842 劉禹錫(772-842)逝
844 甲子年
846 宣帝(李忱,-859)
846 白居易(Po Chu-i, 772-846)逝
847 大中
853 張彦遠著[代名畫記]
853 杜牧(803-853)逝
858 李商隱(813-858)逝
859 懿宗(李,-873)
860 咸通
865 柳公權(778-865)逝
868 魚玄機(844?-868?)被殺
870 温庭均(812-870)逝
873 僖宗(李儼,-888)
874 乾符
874 王仙芝(-878)亂起
875 (-884)亂起
880 廣明
881 中和
885 光
888 文徳:昭宗(李敏,-904)
889 龍紀
890 大順
892 景福
894 乾寧
898 光化
901 天復
904 甲子年
904 天祐:哀帝(李祝,892-908)
907 唐(618-907)結束

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20昭宣帝
(哀帝:祝)

唐の盛衰

その1

 隋末、煬帝の高句麗遠征の失敗を機に各地で農民反乱が起こったが、これに各地の豪族が加わり、国を建て皇帝を称し、中国全土で激しい抗争が続いた。その混乱を収め、唐(618〜907)を建てたのが、山西で挙兵した李淵、すなわち唐の高祖(565〜635、位618〜626)である。李淵の先祖は、隋を建てた楊氏と同様に鮮卑が多く住んでいた武川の軍閥で、祖父は西魏・北周の「八柱国」(府兵を指揮する軍人貴族)という最高官職に就いた。このため李氏は鮮卑族であるという説も強い。

 李淵は7歳で父あとを継いで北周に仕え、楊堅(文帝)が隋を建てると、李淵の母が楊堅の皇后の姉にあたる(つまり李淵と煬帝は従兄弟ということになる)ことから、隋に仕えて八柱国となった。しかし、煬帝には警戒されて大した官職につけず地方長官などを歴任した。隋末の混乱期には、突厥防衛のために山西の留守(りゅうしゅ、非常時に皇帝から文武の大権を委任された官職)の地位にあったが、次男の李世民(後の2代皇帝太宗)の勧めで挙兵し(617)、突厥の援助を得て長安を占領した。当時、煬帝は江都にいたが、李淵は孫の恭帝を擁立して即位させた。そして煬帝が暗殺されると、恭帝に禅譲させ、唐王朝(618〜907)を樹立し、首都を長安に定め、唐の基礎を固めた。

 しかし、唐が成立したとはいえ、まだ長安の地方政権にすぎず、各地には皇帝を称する群雄が割拠していて、唐は群雄平定に10年近くかかり、次の太宗の時代にやっと中国統一を達成した(628)。この間、次男の李世民の活躍はめざましく、皇太子であった長男の李建成はこれを妬み、三男の李元吉と結んで李世民を討とうとしたが、かえって殺された(玄武門の変、626)。

 これを見た高祖は、李世民に譲位し、李世民は即位して太宗(位626〜649)となり、年号を貞観(じょうがん)と改めた。太宗の治世は「貞観の治」と呼ばれ、房玄齢や杜如晦(とじょかい)らの名臣に補佐されて、国内はよく治まり、理想的な政治が行われた時代とされる。唐は、隋の制度をほぼそのまま継承し、高祖・太宗の2代にわたって律令体制を整備・確立した。

 中央官制としては、三省・六部(りくぶ)を置いた。三省とは中書省(詔勅の立案・起草を司る)・門下省(詔勅の審議を行う、修正や拒否の権限があったので、貴族勢力の牙城となった)・尚書省(詔勅を実施する行政機関)である。尚書省の下に、吏部(官吏の選任を担当)・戸部(財政を担当)・礼部(祭祀、教育を担当)兵部(軍事を担当)・刑部(裁判を担当)・工部(土木を担当)の六部が置かれた。そして官吏の監察機関として御史台(ぎょしだい)が置かれた。

 また地方統治制度としては州県制をしいた。全土を10道に分け(627)、その下に州(隋・唐は従来の郡を廃して州とした)・県を置き、長安・洛陽・太原の重要都市には府を設置した。

 唐は律・令(れい、りょう)を整備し、成文法に基づいて政治を行うしくみ、いわゆる律令体制を完成した。律は刑法、令は行政法ないし民法典をさす。ほかに補充改正規定である格(かく、きゃく)と施行細則である式がある。この律令体制は日本をはじめ東アジア諸国に大きな影響を及ぼした。

 官吏任用制度としては、隋で始まった科挙制を受け継いで強化した。唐代の科挙の科目には秀才、明経、進士、明法、明算などがあった。唐の初めには、政治についての意見や時事問題についての対策などの論文を課す秀才が最高のものとされたが(学才を持つ人を秀才と呼ぶのはここから来ている)、中期以降は明経と進士が主要な科になった。

 明経は儒教の古典である「五経」が課せられ、進士は文章と詩賦によって作文能力をためすものであった。特に次第に進士が重視されるようになり、合格者は将来の栄達が約束されたも同然であった。当然、狭き門となる。進士科の毎年の合格者は、1000〜2000人の応募者に対して10人前後であった。

 対外的には、それまで北方で強大な勢力を持ち、隋・唐にとって脅威であった東突厥を討って可汗(かかん、突厥の王の称号)を捕虜とした(630)。当時、異常気象が突厥の地を襲い、連年の雪害で大量の家畜が死に、可汗が税を厳しく取り立てたために諸部が離反した。これに乗じて討伐軍を派遣し、可汗を捕虜とするという大勝利を得て、長年の北方の脅威を取り除くことに成功し、後に安北都護府を置いて統治した。

 さらに青海地方にあった吐谷渾(とよくこん)を服属させ(635)、639年には中央アジアのトゥルファン地方にあって栄えていた漢人系の高昌(こうしょう)に遠征軍を送り、640年にこれを滅ぼし、安西都護府を設置して(640)西域地方を支配下におさめた。

 当時、チベットにソンツェン=ガンポ(?〜649)が出て、640年頃までにチベット高原全体を征服して吐蕃(とばん)を建て、唐の西辺に侵入した。そのため唐の太宗は、文成公主(?〜689)を降嫁させ(641)、親和関係を成立させた。文成公主は唐と吐蕃の和平に尽力し、また中国の文物がチベットに入るきっかけをつくるなどの功績により、現在もラマ教(チベット仏教)の尊像に刻まれてチベット人に敬愛されている。

 東方では高句麗遠征を行ったが(645)、これは大失敗に終わった。

 太宗時代に度々の対外遠征により、唐の領土は拡大し、大帝国となり、次の高宗の時代に唐の領土は最大となっていく。

 有名な玄奘(三蔵法師)が西域を経てインドに行き、経典等を持ち帰ったのも太宗の時代のことであった。

 太宗の子は14人あったが、皇后との間に生まれた3人が皇位継承権を持っていた。長子は奇行・愚行が多かったため廃され、太宗は第4子の李泰を太子に立てようとしたが、皇后の兄で重臣であった長孫無忌(ちょうそんむき、長孫が姓)が強く推したので、第9子の李治が太子となり、太宗の死後、即位して第3代皇帝、高宗(628〜683、位649〜683)となった。高宗はおとなしく、心やさしい人物であった。

 対外的には、新羅と結んで百済(660)、高句麗(668)を滅ぼした。この時、日本は百済の復興を助けるために援軍を送ったが、白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い(663)で、日本水軍は唐・新羅連合水軍に大敗し、日本勢力は完全に朝鮮半島から一掃された。

 西方では、西突厥を討って(657)、中央アジアを支配下におさめ、南方でも、ヴェトナム中部にまで進出し、安南都護府を置いて支配した。

 こうして高宗の時代には唐の領土は最大となり、東は朝鮮から西は中央アジア、北はモンゴル高原から南はヴェトナムに及ぶ空前の大帝国となった。

 唐は征服した周辺諸民族を統治するために、六つの都護府を置いて統治した。太宗から高宗の時代にかけて、安南都護府(622、ヴェトナムのハノイに設置)、安西都護府(640、中央アジアに設置)、安北都護府(647、外モンゴルに設置)、単于(ぜんう)都護府(650、内モンゴルに設置)、安東都護府(668、朝鮮の平壌に設置)、北庭都護府(702、中央アジアに設置)を設置し、都護は中央から派遣したが、その下の都督・刺史(長官)には服属した在地の族長を任命するという間接統治を行った。このような唐の懐柔策は「覊縻(きび)政策」と呼ばれる。馬を繋ぎ止めるの意味である。

 高宗は、長孫無忌やちょ遂良(ちょすいりょう、唐の政治家、書家として有名)らの反対を押し切って、武照を皇后とした(655)。武照は、中国史上唯一の女帝となる則天武后(624(628)〜705、位690〜705、武則天ともいう)である。

 則天武后の父は、山西で木材業によって一代で富をつくり、李淵が山西で挙兵したとき、これに従って長安に出て工部尚書にまで出世し、娘の武照は14歳で太宗の後宮に仕えた。武照は、太宗の死後、尼となって寺にいたが、その寺に参詣した高宗と会い、後に後宮に迎え入れられた。そしてたちまち高宗の心をとらえ、王皇后と蕭淑妃を失脚させて、ついに皇后になった(655)。

 皇后となった則天武后は、反対派を除き、一族の者を重用して政権の基盤を固めていった。そして元来、病弱で激しい頭痛もちであった高宗が30歳を過ぎた頃から激しいめまいや頭痛に悩み、政務を則天武后に任せたことから(660)、則天武后が高宗に代わって一切の政務を行うようになり、次第に独裁権力を握るようになった。

 そして高宗が亡くなると(683)、子の中宗(位683〜684、位705〜710)を第4代皇帝としたが、まもなく廃し、次いでその弟の睿宗(えいそう、位684〜690、位710〜712)を立てた。

 武后の専横に対して李敬業の反乱が起きたが(684)、これを鎮圧した後は、密告政治によって反対派弾圧を強化し、ついに690年、睿宗を廃し、自ら皇帝の位につき、国号を「周」(690〜705、通称は武周)と改めた。この時、則天武后はすでに67歳であった。

 即位後、仏教を保護し、大土木事業を盛んに行い、新しい人材の登用を行い、新しい漢字も作成させた。しかし、83歳となり病床についた。その時、臣下が決起して則天武后に譲位を迫って同意させた。地方に幽閉されていた中宗が呼び戻されて復位し、国号は再び唐に戻った。その年の終わりに則天武后は亡くなった(705)。

 中宗の復位後、まもなく則天武后が没すると、今度は中宗の皇后の韋后(いこう、?〜710)が政治に介入し、韋氏一族が政治の実権を握るようになった。政権をねらった韋后は娘と謀り、中宗を毒殺した(710)。
 しかし、中宗の死から18日後に、睿宗の三男の李隆基がクーデターを起こし、韋后とその娘を斬り、父の睿宗を復位させた。

 則天武后と韋后が政権を奪って、唐の政治を混乱させたことを「武韋の禍」とか唐の「女禍」と呼ぶ。これは女は政治に口出しすべきではないという封建的な歴史家の立場からの呼び方である。

その2)

 睿宗は2年後に、位を皇太子の李隆基に譲り、李隆基が28歳で即位した。李隆基が中国史上有名な皇帝である玄宗(685〜762、6代、位712〜756)である。玄宗は、翌年、年号を開元(713〜741)と改めた。

 玄宗は、即位すると名臣・賢臣の助けを得て、不要の官職を除くなどの官僚機構の整理を行った。土地を不法に占有している者からその土地を取り上げて、流民を戸籍に編入して、空き地を与えて耕作に従事させた。また府兵制(徴兵制)にかえて、募兵制を採用した(723年に始まる、府兵制の廃止は749年)。さらに異民族の侵入に備えて、辺境に募兵から成る軍団を置いた。この軍団の総司令官は節度使と呼ばれる。710年に置かれた河西節度使(甘粛省の西部)が最初で、玄宗の時代に10の節度使が置かれた(後には40〜50を数えた)。このような諸改革に取り組み、唐の支配体制の立て直しに専念した。

 この玄宗の治世前半の善政は「開元の治」と呼ばれる。しかし、長い治世の後半には、次第に政治に倦(う)み、特に寵愛した武恵妃を失ってからは(737)、失意の生活を送る一方で、美女を捜す使いを全国に出した。そのような時に、玄宗の目にとまったのが有名な「世界三大美女」の一人である楊貴妃(719〜756)である。

 楊貴妃、本名は楊玉環、父は四川省の県役人であったが早く亡くなり、叔父に養われた。その美貌をかわれて、玄宗の第18子の寿王の妃となった。そして玄宗が華清宮(長安の東、驪(り)山の温泉宮)に行幸したときに見初められた(740)。

 玄宗は、楊玉環を寿王と離別させ、道観(道教の寺院)に入れて女道士とし、やがて宮中に召した(744)。この時、玄宗は59歳、楊貴妃は25歳であった。翌年、楊玉環は貴妃(女官の最高位)となり(745)、玄宗の寵愛を一身に受け、楊一族は高位・高官に抜擢された。その一人が楊国忠である。

 楊国忠(?〜756)は楊貴妃の従祖兄(またいとこ)の間柄であったが、若い時は素行が修まらず、酒やばくちにこるならず者であり、一族からつまはじきにされていた。楊貴妃を頼って長安に出てくると、たちまち高官に抜擢され、財政手腕を認められて、玄宗の信任を得て、ついに宰相となった(752)。

 今や役人は楊氏一族のために奔走し、人々は楊氏一族に取り入ろうとし、楊家の門前には賄賂を積んだ車がひしめき合ったと言われている。

 玄宗と楊貴妃は、華清宮に遊び、玄宗は政治を省みず、国政は乱れた。玄宗と楊貴妃のロマンスは白居易(白楽天)の有名な「長恨歌」に歌われている。漢文で学んで記憶している人も多いと思う。

 権勢を誇る楊国忠と対立するようになったのが安禄山(705〜757)である。安禄山は、ソグド人(現在のウズベク共和国の辺りに住んでいた人々)の父とトルコ人(突厥)の母の間に生まれた雑胡(混血児)であった。父が早く亡くなり、母が突厥人の安氏と再婚したので安姓を名乗った。成長して蕃市(外国商品を取り引きする市場)の仲買人となった。安禄山は6カ国語を自由に操ったと言われている。

 後に范陽節度使(北京付近に設置)に仕え、中央の官吏に賄賂を送って、次第に昇進し、ついに平盧(へいろ)節度使(現在の遼寧省に設置)となった(742)。翌年、玄宗に謁見し、以後玄宗・楊貴妃に取り入り(後に楊貴妃の養子となる)、范陽節度使を兼任し、さらに河東節度使(洛陽の西に設置)となり(751)、3つの節度使を兼ねて、約20万人の大軍を擁する大軍閥にのし上がった。安禄山は晩年になるに従って肥満し、体重は330斤(約200kg)あり、腹は膝の下まで垂れていたと言われている。

 楊国忠は、強大な軍を擁するようになった安禄山を警戒し、両者は次第に対立を深めていった。玄宗が安禄山を宰相にしようとしたとき、楊国忠は激しく反対し中止になった。これを恨んだ安禄山が反乱に踏み切ったとも言われている。

 755年11月、安禄山は「姦臣楊国忠を除く」と称して、范陽で挙兵した(安史の乱、755〜763)。20万の安禄山の軍は、破竹の勢いで進撃し、わずか1ヶ月で洛陽を陥れ、安禄山は大燕皇帝と称した(756)。唐軍は、高仙芝(こうせんし、高句麗出身で唐に仕えた武将、西域に遣わされ、751年に中央アジアのタラスでイスラム軍と戦って敗れた)や顔真卿(709〜786、唐の政治家、特に書家として有名、安史の乱の際、平原(山東)の太守であったが、義勇軍を率いて奮戦した)らの抵抗もむなしく、安禄山軍は潼関(どうかん、長安の東の関所)を占領した。

 長安陥落を目前にして、玄宗・楊貴妃・楊国忠らは蜀へ落ち延びようとした。しかし、一行が長安の西、馬嵬(ばかい)にたどり着いたとき、飢えた兵士達は楊国忠を殺し、さらに楊貴妃を殺せと要求した。玄宗はやむなく宦官の高力士に命じて、楊貴妃を仏堂の中で絹で絞殺させた(756)。

 その頃、洛陽にいた安禄山は眼病を患って失明し、できものに悩まされ、遊楽にふけり、粗暴な振る舞いが多くなり、ついにその子、安慶緒に殺された(757)。しかし、安慶緒も 安禄山の部下であった史思明(?〜761)に殺された。

 史思明も、ソグド人と突厥の混血児で、安禄山と同郷の出身であった。早くから安禄山と親しく交わり、その反乱に従った。史思明は、安禄山が殺されると安慶緒と合わず、唐に降ったが、再び叛いて、安慶緒を殺して、大燕皇帝を称した(759)。しかし、史思明も末子を溺愛し、長子の史朝義に殺された(761)。その史朝義も、唐を援助したウイグル軍に敗れて自殺した。

 唐は、安史の乱(755〜763、安禄山と史思明の名を取ってこう呼ばれる)の鎮圧に苦しんだが、節度使を増強し、ウイグルの援助を得、反乱軍の内紛もあって、9年に及んだ反乱をやっと平定することが出来た。

 この間、玄宗は蜀に逃れて、子の粛宗(7代、位756〜762)に位を譲り、長安が回復されると、長安に戻ったが(762)、粛宗との間がうまくいかず、幽閉同然の余生のうちに没した(762)。

 安史の乱は平定されたが、長安・洛陽などの都市や農村は荒廃し、唐を支えてきた三本柱である均田制・租庸調制・府兵制は崩れ、この反乱を機に国力は衰退してしまった。

 唐は、安史の乱をウイグルの援助で平定したが、このため以後、北からのウイグルと西からの吐蕃の侵入に脅かされることになった。特に吐番には一時長安を占領された(763)。 西域地方は彼らの支配下に置かれるようになり、唐はかっての征服地の大半を失った。

 唐の弱体化に乗じて異民族の侵入が繰り返される中で、かっては辺境にのみ置かれていた節度使が内地にも置かれるようになり、その数は40〜50にも及んだ。彼らは、その地方の軍事権のみならず、政治・財政権も握って、軍閥を形成し、中央から独立した勢力となり、藩鎮と呼ばれるようになった。

 中央では、宦官が財政・軍事権を握るようになり、宦官は憲宗(11代、位805〜820)を殺して穆宗(ぼくそう)を立てた。以後、宦官は皇帝を殺して次の皇帝を立て、皇太子を廃しては意のままになる人物を皇太子に立てた。文宗(14代、位826〜840)は宦官を除こうとして失敗し、宦官の勢力は以後ますます強まった。

 この間、徳宗(9代、位779〜805)は、安史の乱後の回復を図り、楊炎(727〜781)の献策によって両税法(後述)という新税法を実施する(780年に全面実施)画期的な税制改革を行い、財政は一時好転したが、後に再び財政難に陥った。財政の立て直しのための増税、宦官や節度使の横暴、外民族の侵入による軍事費の増大などは結局人民に負担増としてのしかかってくる。こうした中で、逃亡して流民となる農民が続出し、貧富の差はますます大きくなり、社会不安が増大した。このような状況の中で起こったのが黄巣の乱(875〜884)である。

 黄巣(?〜884)は、山東省に生まれ、科挙をめざしたが数度受験に失敗した。後に塩の密売人となって富裕となり、多くの侠客を養っていた。

 塩は言うまでもなく生活必需品だが、唐はこれを専売とし、重要な財源であった。唐の財政が窮乏する中で、塩の価格はつり上げられ、750年に1斗10銭であったのが、788年には370銭にもなった。塩の密売人は、政府の価格より安く売っても大きな利益を得ることが出来たし、貧しい人々からは喜ばれた。彼らは大規模な組織を作り、自ら兵を養って武装して行商し、貧しい農民や流民を養った。

 同じ塩の密売人の王仙芝(?〜878)が、河北で挙兵し(875)、山東に進出してきた。黄巣はこれに呼応して河南・山東を荒らし回ったが、王仙芝が唐の官職につられて投降しようとしたので、これと別れ、王仙芝が敗死したあと、その軍を吸収して、江南・福建を経て広州を陥れ、そこから北上して長江流域に進出し、北上して洛陽・長安を占領し(880)、帝位について国号を大斉と称した。長安に入ったとき反乱軍は60万にふくれあがっていた。しかし、唐の反攻にあって長安を撤退し(883)、故郷の近くの泰山で自殺した(884)。

 黄巣の乱はほぼ10年にわたり、四川以外のほとんど全中国を荒掠した。唐が安史の乱後も150年間近く続いたのは、経済の中心である江南が荒廃をまぬがれたためである。その江南が荒掠されたことは、唐に決定的な打撃を与えることとなり、唐は全く衰退してしまった。日本からの遣唐使が廃止(894)された理由の一つは、黄巣の乱によって中国を旅行することが危険になったことであった。

 朱温(852〜912)は黄巣の乱の有力な部将の一人であった。彼は安徽省に生まれたが、早く父を失い、母と貧しい生活を送っていたが、黄巣の乱が起こるとこれに加わった(875)。しかし、黄巣軍が長安を占領したが略奪・放火・殺人などで人心を失うと、黄巣を見限って唐に寝返り、「全忠」の名を与えられ(以後、朱全忠と呼ばれる)、開封の節度使に任じられた(883)。朱全忠は、黄巣の乱鎮圧の功によって着々と力をつけ、昭宗(19代、位888〜904)を殺して、哀宗(20代、唐最後の皇帝、位904〜907)を即位させ、哀宗に迫って禅譲させ、907年についに皇帝となり、国号を梁(後梁(こうりょう)と呼ばれる)と称し、都を開封に置いた。

 こうして20代、約290年間続いた唐はついに滅亡した。

907-960,計54年 五代(Five Dynasties)

907-923,計17年 後梁(Later Liang)

907 開平:太祖(朱全忠,852-912)
911 乾化
913 末帝(朱友貞,-923)
915 貞明
921 龍徳
923 後梁(907-923)亡

936-946,計11年 後晉(Later Jin/Chin)

936 天福:高祖(石敬塘,892-942)
942 出帝(石重貴)
944 開運
946 後晉(936-946)亡

923-936,計13年後唐 (Later Tang)

923 同光:莊宗(李存勗,-926)
925 明宗(李嗣源,-933)
926 天成
930 長興
933 閔帝(李從厚,-934)
934 應順
934 清泰:廢帝(李從珂,-936)
936 後唐(923-936)亡

947-950,計4年 後漢(Later Han)

947 天福:高祖(劉知遠,-948)
948 乾祐:隱帝(劉承祐,-950)
950 後漢(947-950)亡

951-960,計10年 後周(Later Zhou)

951 廣順:太祖(郭威,-954)
954 顯徳:世宗(柴榮,-959)
954 出廢佛令
959 恭帝(柴宗訓)
960 後周(951-960)亡,五代(907-960)結束

902-979,計78年 十國(Ten Kingdoms)

902 呉立(902-937)
904 甲子年
907 王建(847-918)立前蜀(907-925)
907 呉越立(907-978)
907 楚立(907-951)
907 南漢立(907-971)
909 立(909-945)
924 南平(荊南)立(924-960)
925 前蜀亡
934 孟知祥立後蜀(934-965)
937 李環立南唐(937-975),都金陵
937 呉亡
945
951 北漢立(951-979)
951 楚亡
958 後周行均田法
960 南平(荊南)亡
961 南唐(937-975)後主(李,937-978)即位
964 甲子年
965 後蜀亡
971 南漢亡
975 南唐亡
978 呉越王錢俶獻地降宋,呉越亡
979 北漢亡
979 十國(902-979)結束
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