天・地・人

●‘天’‘地’‘人’は、世の森羅万象を3つに分けたもので、これを‘三才’と言います。

’とは

    自然が持つ定石的変化を言います。
    天の変化の最も特徴的なことは‘規則性が高い’と言うことです。

’とは

    古来より農耕を中心とした中国は、大地をその多大な人民を養う源泉としました。
    天の変化によって育まれたいわば‘恵み’の得られ方を言います。
    それは天から受けた、定石的変化への反応です。

‘人’とは

    天から受ける環境や、地から受ける滋養供給という影響下とはまた別の、個人個人が持ついわば心性を中心としたパーソナリティーの差、社会というもう一つの森羅万象を観ることから始まった向かい合う対象です。
農耕で考えると解りやすいと思います。

農作物を栽培するとして、

その農耕に環境は適しているのかが大切です。その環境を‘天’といいます。日当たりがよく暖かければ、その作物は良く伸びて、日当たりの悪いところでは余り伸びません。

しかし日当たりが良くっても、畑の土が痩せていたり作物と適していなかったりするとうまく育ちません。この養分の量と適合性を‘地’といいます。

ところが同じ環境、同じ畑であっても、それぞれの作物の育成に微妙なばらつきがあります。この個々の差、パーソナリティの違いを‘人’といいます。

この分け方の特徴的なことは‘人(ひと)’と言う観察媒体を通して、確認したことを真実とします。

つまり人間が
その‘意志を持って観察をした事実’

中心なわけです。

古代ということもあって、現代科学の尺度から見ればご都合主義的なばらつき観が漂うかもしれません。

しかし、大自然と向き合おうとした探求目的は、
変化する自然を発祥段階からありのまま活用しようというものでした。

ありのままを活用しようと言う姿勢とは、 

まず人の外では、
大自然の多様性のある変化を無為にまま受け入れて
そして、ただそのままに整理しておくことをして、
 
内に於いては、
活用という目的に向かって
機械的に整理されたデーターを能動的に分析していく訳です。
この分析手段の最も大括りなものが‘三才’と言う考え方です。
 

T天Uの象形はで,T大Uは人の正面形,その上に頭部を意味する円,もしくは空を意味する線を加えた形です。象形の正面の人型は,いわゆる人間全般ではなく,王であり神聖の意味をこめます。

一般のT人Uは側身の形でありその象形は,です。
また王の象形はで,これは戉(鉞:まさかり)の刃部を下にして玉座の前に置いた形です。戉は王位を示す儀器としていました。鉞に口(祝詞のときの供えの器を象徴)を加えるとT鍼Uになります。
その鉞の上部に玉飾りを加えるとT皇Uで象形はです。玉光が放射する形です。
ちなみにT帝Uはというとが象形で神を祀る(まつる)祭卓の形です。T示(ネ)Uも祭卓を意味しますが,締脚を加えたより大がかりなものがT帝Uです。自然神系列のものを帝とし,その最高神はT上帝Uとしていました。

T地Uの象形は。也は声符で蛇の形,もしくは地勢の起伏の状を示すものとされたらしいですが,象形では。これはT(い)Uと呼ばれるが象形の水器です。水を注ぐ器とされ,儀礼,士虞礼(しぐれい)に用いました。
地の初文はT墜Uですが,実際はTUの部分がTUになります。象形はでT阜UとT土UとTUの会意です。阜は神梯。土は象形をとして,これは土をまるめた地主神の形で,社(やしろ)を意味し神が降りる場所です。土の初文はT社Uです。『広雅,釈言』に「土は瀉なり」つまり地中の生物を吐出するの意味があります。TUのは牲獣を意味しますが,TUのは牲犬の垂れた耳を示します。
『淮南子』墜形訓に「元气始めて分かれ,輕清にして昜(陽)なるものは天と為り,重濁にして(陰)なるものは地と為る。地は万物の陳列するところなり」とあります。

 

まず、原典に求めると

淮南子・天文篇
天地創造〜訳文へ

原文です。

天墜未形、馮馮翼翼、洞洞濁濁、故曰大始。
「馮馮(ヒョウヒョウ)」とは、ぶつかるときの音の形容。
「翼翼」とは、傷つけられぬようにかばうさま。ひやひやと不安なさま。
天と墜(地)未だ形なさずして、馮馮翼翼(ひょうひょうよくよく)、洞洞濁濁(どうどうしょくしょうく)とし、故に大始と曰う。
 
道始、虚生宇宙、宇宙生元気、元気有涯
「于」ウ;わあ、ああという嘆息の声をあらわすことば。<同>吁。
     語気をあらわすことば。詩のリズムを整える間拍子(マビョウシ)として用いる。
     「燕燕于飛=燕燕ココニ飛ブ」〔詩経〕
「垠」ギン;かぎり。はて。
道(どう;タオ)は虚かく(きょかく)を始め、虚かくは宇宙を生み、宇宙は元気を生み、元気は涯垠を有する。
 
清陽者、薄而為天、重濁者、滞凝而為地。
「靡」ビ;なびく。外から加わる力に従う。
     「喜則交頸相靡=喜ベバスナハチ頸ヲ交ヘテアヒ靡ス」〔荘子〕
清陽なる者は、薄靡して天と為し、重濁なる者は、滞凝して地と為す。
 
之合易、重濁之凝難。故天先成而地後定。
「妙」ミョウ、ビョウ;きめ細かい。細かくて見わけられぬ不思議な働き。「常無欲以観其妙=常ニ無欲ニシテモッテソノ妙ヲ観ル」〔老子〕
「専」セン;もっぱら。それだけひとすじに。ひたすら。<対>雑。「専一」「専以其事責其功=専ラソノ事ヲモッテソノ功ヲ責ム」〔韓非〕
「竭」ゲチ;つくす・つきる(ツク)。力や水を出しつくす。力や水がつきはてる。からからになる。「事父母能竭其力=父母ニ事ヘテヨクソノ力ヲ竭ス」〔論語〕
清妙の合専は易く、重濁の凝竭は難し。故に天が先に成し地は後に定す。
 
天地之精為陰陽、陰陽之専精為四時、四時之精為万物。
「襲」シュウ、ジュウ;かさねる(カサヌ)。衣服をかさねて着る。また、物事をかさねる。「襲衣=衣ヲ襲ヌ」「重仁襲義兮=仁ヲ重ネ義ヲ襲ヌ」〔楚辞〕A{単位}かさね。上下がそろった衣服を一セットとして数えるときのことば。<類>套(トウ)。「一襲」
「散」サン:ちる。ちらす。ばらばらにちる。ばらまく。ちりぢりに四方に分かれる。<対>集・聚(シュウ)。「集散」「離散」「壮者散而之四方者=壮者、散ジテ四方ニ之ク者」〔孟子〕
天地の襲精は陰陽と為し、陰陽の専精は四時を為し、四時の散精は万物を為す。
  
積陽之熱気生火、火気之精者為日、積陰之寒気者為水、水気之精者為月、日月之気、精者為星辰。
「淫」イン;度を越えて深入りするさま。
積陽の熱気は火を生じ、火気の精なる者は日を為し、積陰の寒気なる者は水を為し、水気の精なる者は月を為し、日月の淫気、精なる者は星辰を為す。
 
天受日月星辰、地受水塵埃。
「潦」ロウ;ながあめ。ふり続くながあめ。
天は日月星辰を受け、地は水潦塵埃を受ける。
 
昔者共工与争為帝、怒而触不周之山。天柱折、地維絶。
昔あるとき共工はと帝を為すことを争い、怒りて不周の山に触れる。天の柱が折れ、地維が絶った。
 
天傾西北、故日月星辰移。地不満東南、故水潦塵埃帰焉。
「焉」エン;いずくんぞ(イヅクンゾ)。いずくにか(イヅクニカ)。どうして。どこに。
      疑問や反問をあらわすことば。
天は西北に傾き、故に日月星辰は移うこととなる。地は東南に満ず、故に水潦塵埃が帰する。

訳文。

タイトルの通り天地創造について書かれています。

天地が未だなかった頃は、ただもやもやとしていてそこは時間や空間もなくそれを太始と言いました。
道(どう)という原理の基に虚かく(カオス?)という漠然と広がっていくものが始まり、そこから初めて時間と空間で見た世界観:“宇宙”が生まれます。
しだいに清く(混ざりもののない)陽か(あきらか)なものは薄くなびいて天となって、重く濁ったものはとどまって固まり地となりました。
清くきめ細かければ一つになり易くて、重く濁ったものは固まりつきることが難しいため、天が先に出来上がり後から地が定まりました。
天と地の折り重なりのエキスが陰陽となって、陰陽そのもののエキスは四季となって、四季の広がったエキスで万物が出来上がりました。
陽が積み重なれば熱気を生じて火を生み火気のエキスは日をなして、陰が積み重なれば寒気を生じて水をなし水気のエキスは月をなして、月と日にとっても度を超えた気のエキスは星の運行と移ろいとなりました。
天は月と日と星の運行と移ろいの性質を受け止め、地は水の流れや降り続く雨、塵や埃を受け止めました。
むかし共工がと五帝のうちの二番目の帝の地位を争ったとき、その争いの最中の怒りで不周の山に触れてしまいました。すると天の柱が折れ地面が平衡を失いました。
天は西北に傾いたため、月と日と星の運行は北西に向かったようでした。地の東南が低く虚ろになったため、水の流れや降り続く雨、塵や埃は東南に向かって流れたようでした

つまり、

  • 天地の発生とその関係性によって、陰と陽という区別の仕方が明確化して
  • その明確化が四季を生じさせ
  • 四季の変化によって万物が育まれたというわけです。
  • もう少し噛み砕いて考えてみます。

    〜天の説明〜

    <天地の発生とその関係性によって、陰と陽という区別の仕方が明確化して>
    とは、
    例えば、太陽が南方のほぼ真上に位置して動かず、ずっとそのままだったとします。地形には山や谷がありますから、するとずっと日の当たっているところとずっと日陰の所だけになります。この日の当たっているところが陽、日陰の所が陰になります。少なくともこの段階で陽の所は暖かい、明るい、陰の所は涼しい、暗いの差があります。ただこの仮定の中では四季どころか一日という変化もありません。
    大昔、何だかごちゃ混ぜだったものが、澄んで軽いものと濁って重いものに分離して天と地となったわけです。
    その時の性質の差の陽性と陰性が、天の日が地に当たることで日向が生じ陽と確認でき、身近なものとして火をシンボルとしました。火は形状があっても実体が無く、光と熱を発します。その時に燃やされる燃料の性質を燃え方で現すこともできて陽という性質のシンボルとして適切でした。
    また、日が当たらなかったところは地の性質のままの陰と確認でき、身近なものとして水をシンボルとしました。水は温度を受けないと硬い氷のままで、しかし一度温度という陽の作用を受けるとその作用の強さで液体・気体と変化します。また熱いものを冷ます作用があります。そのため陰という性質のシンボルとして適切でした。
    暖かい、明るい、涼しい、暗いの差は、天の陽性と地の陰性が人意で区別できる具体的な作用だったわけです。このことが<天地の発生とその関係性によって、陰と陽という区別の仕方が明確化して>ということになります。

    <その明確化が四季を生じさせ>とあります。

    実は四季の前に一日が生じるわけですが、なぜ生じたかの理由付けに地形を利用しました。

    中国中原では西方に山があって東方に海があります。そのため川の本流は西から東に向かって流れます。東の方が低いからなわけですが、川の水だけではなく世の中にある全てのものは低い方へと転がっていきます。
    ではなぜ天のものは逆に東から西に移動するのか?それは<全てのものが低い方に転がっていく>の定義を当てはめて天は西の方が低いとしました。この天は西が低く、地は西が高いの理由に神話の力を借りたのが共工の話でした。これは、共工以前は四季も一日もなかったという意味にもなりますが、そうなると共工以前にいた黄帝は四季も一日の移ろいも知らないことになってしまい、黄帝内経の根幹に矛盾が生じてしまいます。だからこの共工の話は例えなわけです。なぜこういった例えを入れたかというと、日が当たる場所と当たらない場所という最もシンプルな陰陽の状態から話を立ち上げていく必要があったためだと思います。

    ところで淮南子が書かれた当時の人は、神話が理由で納得してたのでしょうか?

    たぶん、理由なんてどうでも良かったんだと思います。淮南子を作った人も必要とした知識層も、必ず儒学は学んだ人達でした。つまりはじめから神話なんて信じるような人達ではありませんでした。地面では川は東の低い方に向かって流れ、太陽や月や星は西に向かって回転する。この事実だけで充分なのですが、大自然の壮大さにただ向かうだけでない余興として、神話を用いたのだと思います。この余興の味わいを解ることが、知識の詰め込みに終わらない生きた学問の発揮できる部分だったのだと思います。きっと老荘思想はこういう使われ方をしていたのでしょうか。

    さて陰陽の具体的な作用から生じた四季ですが、

    とりあえず川が流れ日月星辰が回転し始めたため、まず一日が出来ます。日が傾いて日陰と日向の差が徐々に無くなり同じになったときが夜です。天に日の陽気の作用が無くなったため、地の陰気の作用のみになったととらえます。月と星が天に現れ暗く寒くなります。月と星が西の空へ回転していき徐々に東の空が明るくなっていきます。日陰と日向の差が次第にひろがって昼になったとき、天の日の陽気の作用が最大になって地の陰気の作用が大きい日陰さえも、夜より明るく暖かくなります。そうして反転してまた日陰と日向の差が無くなって夜になります。このとき月の出る時間や形が多少変化しています。
    よる、天の陽気の作用が無くなって地の陰気だけの状態の、その陰気の象徴に月を見ました。太陽は陽気の目映い発光源ですが、夜に出る陰性の月は形を持つことで陰気の象形となり、欠けて変化することで一ヶ月という期間と自然界が持つ陰気の状態を象徴しました。
    その月の満ち欠けが一巡する頃には、昼に出る太陽の高さや夜の星の位置もいくらかづつ変わります。それは<天傾西北、地不満東南>とあって、天が回転する軸はブレているからとしたんですね。<天傾西、地不満東>でも<天傾北、地不満南>でもないんですね。だから、月の満ち欠けがおよそ三巡すると、はっきりと気候に差が出てきます。季節が変化したわけです。昼、太陽が最も高く昇ったときでも、一番暑かった時期より南の方に下がっていて、明るさは充分あるのですが、日差しと暖かさが弱まります。天の日の陽気の作用が一番暑かった時期より弱くなり、その分、地の陰気の作用が昼でも残るようになります。この昼間の天の日の陽気の作用が一番弱くなった時が冬で、最も弱くなった以降、また転じて強くなっていきます。最も強くなったときが夏です。また同じ季節に戻ったときが一年で、月の満ち欠けの三巡が四回なのでそれぞれに季節を一つずつ入れて四季になります。

    ただ歴史的に、始めは二季だったようです。

    春と秋だけでした。つまり認識としては、暑くなっていく季節と寒くなっていく季節だけだったようです。
    <四季の変化によって万物が育まれた>とは、
    〜地の説明〜へ・・・・・

    ところで、

    「清陽者、薄靡而為天、重濁者、滞凝而為地。清妙之合専易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。」

    <清陽なる者は、薄靡して天と為し、重濁なる者は、滞凝して地と為す。清妙の合専は易く、重濁の凝竭は難し。故に天が先に成し地は後に定す。>

    の箇所は、陰陽が二分される以前から二分されたばかりまでの話です。
    これは人が意を持って何かに向かったとき、その向かったものは意を向ける前は陰陽が混濁していると考えます。それは意を向けたときにその意を向けた人の意識の中で、はじめて陰陽が分離されたと認識される、と言う意味も含まれています。
    これがそのまんま、治療家が患者に対峙したときに、まず陰陽を区分すると言うことにつながるわけです。