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だじゃれ学入門


 ええ、皆さん、今日はだじゃれがなぜおもしろいかについて考えてみたいと思います。皆さんは不思議だと思ったことはないですか?だじゃれのどこがどうして面白いんでしょうか。まずだじゃれの基本型をみて下さい。

 基本型 ◆隣の空き地にへーができたってね
     ◆へー

ただ単に「へー」という同じ発音で別の意味を表わす言葉が並んだというだけじゃないですか。ところが、これを聞いて私たちの体はどういうわけか笑ったりしてしまうんですね。これは理屈ではないんです。へー理屈といいます。体の無意識的反応です。ということはおそらく我々の遺伝子にプログラムされたものなんです。
 この同音異義語に快感をおぼえるというプログラムは、おそらく「性」の発生にまでさかのぼるでしょう。それについてはまた後で考えることにして、次に平安時代の和歌を見てもらいましょう。

◆花の色は うつりにけりな いたづらに
  我が身よにふる ながめせしまに

有名な小野小町の歌です。「花は賞美されることなくもう色あせてしまった。私がぼんやり物思いにふけっている間に」といった意味の歌ですね。この「花」はもちろん小町自身を指しています。絶世の美女と言われた小町は言い寄る男を次々と振り捨てているうちに、いつの間にか誰にも実際に愛されることなく年をとってしまったというわけです。小町という名でオリンピック体操選手のコマネチを思い出してしまうのは私だけでしょうか。あの華麗な少女も今ではしわしわのおばさんです。「コマネチ」という股に手をやるギャグもありました。ほうら、もう皆さんは小町といったらコマネチのことを思い出してしまう。これがだじゃれなんです。さて、話を戻しまして、この小町の歌には「掛詞」という技巧が用いられています。いわゆる同音異義語です。「ながめ」が「ぼんやりもの思いにふけって眺める」という意味と「長い雨」という意味です。「ふる」が「経る=歳をとる」という意味と「(長雨が)降る」という意味です。これはイメージがきれいですので文学と呼ばれているのですが、原理はだじゃれと同じものです。
さらに江戸時代になりますと、「俳諧(はいかい)」が流行します。俳諧は主に夜作られました。深夜はいかいなんちゃっておじさん。例えば次のようなものがあります。

◆年も人もそだつはじめはむつき哉

これは殆どだじゃれです。「むつき」には「睦月=一月」と「襁褓=おしめ」の意味があります。一年は一月から始まり、人もおしめから始まるというわけです。これも一応文学と呼ばれていますが、だじゃれとの境界線がたいへん難しいと思います。いや私に言わせればこんなものは文学じゃない。別に文学が偉いとかそーゆーことではなく、別のジャンルだというのです。それについてはまた後日あらためて論じたいと思います。
 さて、だじゃれというものが大変古い歴史をもっているということは分っていただけたと思います。結論から申しますと、だじゃれとは、異なるものを無理やり結び付けたものなのです。そして、異なるものが結び付いた時快感をおぼえるというのは、さかのぼれば、男と女、オスとメス、つまり「性」の起源まで行くのはもう誰が考えても明らかです。そこで次のような美しい定義が生まれます。

 だじゃれは愛の表現である

相異なるものが結び付く時、私たちの脳は共振を起こします。この共振が快感を生むのです。だじゃれは最も簡単な共振装置なのです。「ものまね」がなぜ面白いかというのも、これでおわかりでしょう。全然別の人間が、声や顔が似ているということで無理やり結び付けられるので私たちの脳は共振を起こすのです。「ものまね」はイメージのだじゃれと言ってもいいでしょう。

「だじゃれは愛の表現である」という定義について説明しました。相異なるものが結び付く時、人は快感を感じるようにプログラムされているのだ、ということを述べました。今回はそのつづきです。

勉強がなぜつまらないかというと、「愛」と逆方向に向う営みだからです。「愛」は違うものを結び付ける。ところが、「勉強」は逆にどんどん細かく分けていく。「蜘蛛」は昆虫ではありません。「蟻」は昆虫です。秋にかかるのが「霧」、春にかかるのは「霞」といいます。「蛾」と「蝶」はヒゲの形が違います。1リットルは10デシリットルです。「来る」はカ行変格活用で、「来たる」はラ行四段活用です。とまあこういうぐあいだ。だから何なんだ馬鹿野郎と怒鳴る声があちこちから聞こえてきます。こうやって細分化し、断片化していくと、われわれの心から「愛」が失われていきます。作品について説明した時、そこにはもう感動はありません。説明とは分解だからです。「鑑賞とはただひたすらその作品を繰り返し繰り返し読むこと」なのです。繰り返し読むうちに、その作品と自分が一体化してくるのです。それが「愛」です。「勉強」はつまらない、しかし「学問」はおもしろい。なぜなら「学問」とは異なる事実をたくさん積み重ねて、それを結び付けて一つの法則を見出す営みだからです。リンゴが木から落ちるのと、月が地球と引き合うのと、この全く異なる現象が、実は同じ引力という働きだということに気づいた時の感動を思いやってみてください。異なるものが結び付いた時、人は快感を感じる。異なれば異なる程、それが結び付いたときの快感も大きいといえるでしょう。ニュートンが、女性との愛を捨てて、学問の愛を選んだのもわかる気がします。

 さて、「愛」とはこのようにすばらしいものですが、「愛」はエゴイズムでもあります。一人の女性を愛したら、その人だけが大事になります。自分の子どもが生まれれば、その子どもが一番かわいくなります。それが拡大して民族になります。日本人は同じ日本人を他の外国人よりも大事に考えます。これは「愛」というものの持つ本質的なジレンマです。これを解決する方法は果たしてあるのでしょうか。この問題に対して、様々な人が様々な解決方法を試みていますが、宮沢賢治さんは、エゴイズムを拒否するには「愛」を拒否するしかないと考えました。だから彼は一生独身でした。もちろん、これは彼が熱心な日蓮宗の信者であったこととも無関係ではありません。彼は全人類を愛するために、ある特定の人への愛を拒否しました。ある会合で、ある女性が賢治にカレーライスを作ってくれたそうです。しかし賢治はそれを食べようとしませんでした。せっかくの好意を無にしました。その女性が傷つくということはもちろんわかっていたでしょうが、それを受け入れてしまうと彼の大きな生き方の体系が崩れていくことを知っていたのでしょう。彼はまた、全人類を愛するために常に銀河系から地球を眺めようとしました。彼が化学の先生で、相対性理論など最新の科学を熱心に学んでいたことはよく知られています。こうしてみると、彼の一生は科学と宗教を結び付けることにあったのではないかと思われます。
 さて、「愛」を実現するためには「愛」を拒否しなければならないという逆説がここに出てきたわけですが、彼が実現しようとした「愛」は自己と仏身とを結び付けることだったといっていいでしょう。
 「だじゃれ学」はいったいどこへ行くのか書いている本人にさえわからかくなってきました。つづきを乞う御期待!


     だじゃれ学入門のおまけ 「だじゃれグッズ」

 だじゃれになっている楽しい商品を開発したいと思っている。できればこれで特許を取って大金持ちになろうという下心もある。

       @愛の無恥シール

 いまだに学校では体罰が絶えない。学校のみならず、家庭でも児童虐待が問題化している。自分の子供を殴ったり蹴ったりする。そういう時に大人がいう理屈は「愛の鞭」だ。学校では絶対に体罰はいけないことになっている。いかなる場合でも体罰はいけない。そこで欲求不満になった教師や、親たちに提供するのがこの「愛の無恥シール」だ。
 例えば宿題をわすれた生徒や、授業中内職をしている生徒を見かけたら、その生徒のおでこに、この「愛の無恥シール」をバシッと貼り付けてやる。質問しても答えられない生徒には「こんな簡単な質問にも答えられないのか、こうしてやる!」といって、「愛の無知シール」をおみまいする。「無知」と「無恥」10枚セットで300円くらいでどうだろうか。とりあえず、明日の授業で試してみようと思う。

おわり