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演劇とは何か


 要するに私は死にたいのである。

ということはつまり、私は生きたいのである。だれよりも生きたいのである。芥川龍之介は「将来に対する唯ぼんやりとした不安」を抱いて自殺したのだそうだが、人は絶対にぼんやりとした不安などでは死なないのである。私は「歯が痛く」て自殺した人を知っている。「頭がかゆく」てたまらず自殺した人を知っている。「自転車に乗れない」ことを悲観して自殺した人を知っている。そういう本当に全く確かなリアルな具体的理由なしに人は決して死なないのである。それくらい人間というのはどうしようもなく現実的な(精神的な)生き物なのである。
 連続幼女誘拐殺人犯の宮崎勤さんは、右手がうまく回らなくって、箸を使うのが苦手で、とてもふつうの結婚はできそうにないので、小さい子どもに声をかけるようになったのである。全ての犯罪はこのように確かな理由があるのだ。ましてや、明確な理由のない自殺などあり得ない。
 新聞で「お母さんに叱られた」とか「学校で友達に馬鹿にされた」などというだけで自殺してしまう小学生の話を聞いてみんながうろたえるのは、「自分もあの時死ぬべきだったのになぜ死ななかったのだろう」と思い知らされるからなのだ。お母さんに叱られたら誰だって生きてはいられない。お母さんを殺すか、自分が死ぬか、どちらかしかないではないか。
 もう一度繰り返すが、「ぼんやりした不安」などでは人は死なないのである。そうして私は死にたいのである。その理由をここに書くわけにはいかない。なぜ書かないかというと、それは芥川が書かなかったのと同じで、「自殺者の自尊心」によるものである。小学生にはまだそういうひねくれた「自尊心」などというものがないので、自殺の理由を明確に書き置くのである。
 私はここで自殺とは何かを論じようというのではない。人間に「自然死」などありえないということがいいたいのだ。人間は死のうと思ったとき死ぬのだ。これは間違いない。たとえば車を運転するとき、人は必ず「死」を意識する。このハンドルを右に十五度回すだけで死ねる。私は毎日その誘惑と闘っている。人間とは常に既にそういう存在としてあるのだということがいいたいのだ。

 たしかに私はかつて、心そのものになりたいと思ったことがある。手も足もないただの意識というものになりたいと思ったことがある。しかし、それはどこかおかしいと今では思っている。どこがおかしいか。−−ひとはそもそも目がなくても見ることができるのだ。耳がなくても聴くことができるのだ。いやむしろ、この目など無いほうがたくさんのものを見ることができる。この耳など無いほうがたくさんの声を聴くことができる。にもかかわらず、目があり、耳がある。そこにこそ存在の秘密があると思うようになったのだ。遠くまで見る必要があるなら、人の目は望遠鏡にだってなれたはずだ。最近のCMで、カーペットのダニや水虫菌をわざわざ拡大して見せるのがあるが、そういうものを見分ける必要があったなら、人の目は顕微鏡にだってなれたはずだ。しかし、ならなかったのはその必要がなかったからだ。もし顕微鏡の目を持っていたら、恋人の顔は見るに堪えず、恋などできないだろうと思う。

 私が演劇に興味を持つのは、この人間の肉体の条件が先鋭に表れるからだ。私はなぜこの「私」でしかないのか、なぜここにいて、あそこにいないのか、それが演劇の出発点だ。俳優は何にでもなれて、大変自由な存在だと思われているが、実はその逆なのだ。わざわざ劇場という小さな空間に自己を閉じ込め、脚本というものに自己を縛り付ける。こんな不自由な存在はない。寺山修司は、だから劇場を飛び出し、脚本を無化していったのだが、しかし彼は演劇というものがわかっていなかった。彼がやったのは演劇の改革ではなく、人間の条件、人間そのもののあり方を改革することだった。

 先日、私は演出家の川和孝氏の講演を聞きに行った。氏はそこで、「あいさつの出来ない者は俳優になる資格はない」と言った。演劇がそんなものなら、私は演劇などに興味はない。私に言わせれば「あいさつ」は最も難しい演技であり、演技の始まりではなく、むしろ演技の完成である。少なくとも私は、「あいさつ」ができないから演劇をやったのである。「あいさつ」のできる人は演劇などに関わる必要はないではないか。

 「マクベス」は魔女の予言どおりに王を殺してしまう。人はみな筋書きどおりに生きることしかできないのだ。
 演劇とは、「脚本がなければあいさつさえできない人間」というものの、どうしようもない不自由さを明らかにする営み以外のなにものでもないというのが私の考えである。

 だから人間に「自然死」などはありえないのだ。
人はみな筋書きどおりに生きている。筋書きどおりに生きる快感を最もよく知っているのが俳優である。そして最も大きな快感を与えてくれる筋書きは、もちろん「自殺」である。

おわり