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自由とは何か


 とりあえず、自由には三つの段階があると考えてみましょう。話を具体化するために、アメリカで起こった服部君射殺事件を取り上げてみます。この事件をきっかけに今アメリカは銃規制へと動きはじめています。そこで、この銃をめぐる自由の三段階を以下に示します。

1 銃を持つ自由
2 銃を持たない自由
3 銃を持っていても使わない自由

 今までは自由とは専ら(1)の自由のことでした。
そして、(2)は自由ではなくむしろ自由の束縛だと考えられてきました。しかし(2)も立派な一つの自由なのだということがようやく認知されつつあり、アメリカは(2)に向っている。日本は早くからこの自由を行使してきたわけだか、問題がないわけではない。それはどうしても上からの押し付けの形をとったり、法律などの罰を伴う強制のカタチをとったりしがちだということです。次の(3)と(2)の違いはどこにあるかというと、(2)は危険を避けるために、あらかじめ対象となる物そのもの(銃や軍隊)を遠ざけるわけだが、(3)は(1)と(2)の自由を保ちながら、ただ自らの意志と責任において、その自由に伴う危険を回避しようというものだ。つまり、手を伸ばせばすぐ届くところに銃がありながら、なおかつそれを決して使わないということだ。これはきわめて不安定な状態である。だから人は(2)の自由を選びたがる。高校生のバイク三ない運動や、アルバイト禁止、制服着用の校則などはすべて(2)に入る。これらを自由の束縛と考えず、積極的な自由の行使と考え直す時、新しい可能性が生まれるだろう。しかし実のところ、こんな分類は何の意味もない、人間にはもともと(3)の自由しかないということもできる。
たとえば

(1)人を殺す自由(殺しても罰せられない)
(2)人を殺さない自由(殺すと死刑になる)
(3)人を殺す自由をもちながら殺さない自由

こう三つを並べた時気づくのは、(1)(2)は特殊な場合だということだ。(1)は主に戦争という特殊な場合である(特殊であってほしい)。(2)は殺さないということを共同体が全体として選び取り、律法などで禁じた場合である。つまり最も自然で本質的な状態は(3)である。なぜならいくら法律で禁じても人は人を殺せるからである。愛する人を殺された時、人は自分が死刑になろうがどうなろうがそんなことは考えずに相手を殺すかもしれない。つまり本質的には(1)(2)(3)の区別はできないのだ。本質的に人は人を殺す自由を与えられている。しかしその殺したいほど憎い相手を許す自由も与えられている。死刑制度反対論の根本にこういう自由への認識があるのは疑いない。この自由は決して当たり前の自由ではない。動物の闘争においては相手が降伏の姿勢をとった場合はそれ以上の攻撃ができないように本能的にプログラムされている。人間だけが真に自由なのだ。従って人間の自由とは結局(3)に他ならないのだが、この(3)の自由は決して生易しいものではない。殺したいほど憎い相手を許す時、私たちは相手の血を流さない分、自分の血を流すだろう。目の前に御馳走を並べられながら食べないでいること。目の前で楽しい笑いの聞こえるテレビを消して受験参考書を開くこと。クーラーを消してウチワであおぐこと。自動車を使わずに傘をさして子供を迎えにゆくこと。そうした一つひとつを自己点検していったとき、(3)がいかに困難か納得できるだろう。しかし、その困難に打ち克つことが今日ほど求められている時代はない。人類の存亡がかかっているのだ。人類は進化の最終段階にきているのだ。法律で予め危険を回避する(2)の段階は無効になりつつある。クーラーをつけないとか自動車を使わないとかを法律で禁じることは不可能だ。しかし、法律でどうにもならないそういう一つひとつの小さなことが地球滅亡へと確実に連動しているのだ。私たちはそういう困難な時代に生きている。人類史上に現れた偉人たちは例外なく、この(3)の段階に達していた。宗教が例外なく禁欲を説くのはそのためだ。孔子の有名なことば「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」とは(3)の究極的理想を表明したものだ。「自分の心の欲するままに自由にふるまって、しかも善の道を踏み外すことがない」というのだ。あの孔子でさえ、そこに到るまでに七十年かかっているのだ。我々凡人ではとても無理だとあきらめたくなる。我々は孔子よりも二千年以上も後に生まれているのに、どうして孔子の到達した地点から歩き始められないのだろう。そこにまた人間のどうしようもない宿命がある。
 しかし、いたずらに嘆くことなく、できる一歩を踏み出すしかない。その一歩とは(3)に到るための訓練として自らに禁欲を課すことだ。これは市民運動のようなものになったらだめだ。なぜならそれは(2)の段階だからだ。毎月一日はノーマイカーデーにしましょうとか、そういうことには全く意味がない。ただ自分の責任で全く孤独に自ら決めて実行することに意味がある。ある人は車の免許を捨てた。ある人は常に自分の箸を持ち歩いている。ある人は買物篭を持って買物に行く。ある人は肉を食べることをやめた。
 私ももう何年も魚以外の肉は食べないようにしている。宮澤賢治もベジタリアンだった。それは殺される動物がかわいそうだとか、そういうセンチメンタルな理由からではなく、(3)の自由へ到るための訓練として自らに課していることなのだ。
 このような自己の欲望のコントロールにしか人類を救う道はないというのが現在の私の結論である。いやあえて蛇足を加えるならば、人類の未来などどうでもいいのだ。人類が滅びようとどうしようと私には関心がない。人類を滅亡から救うことよりももっと大事なことがあるというのが私の予感である。それについてはいずれまた書く機会があろうかと思います。

おわり