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個性とは何か


 個性の尊重という空疎な言葉が新聞や人々の会話に聞かれない日はない。個性を育てる教育とか、個性を伸ばすとかいうのを聞いていると、個性というのは育てたり伸ばしたりできるものと考えているらしい。また、制服や髪の毛の丸狩りが個性を奪ってきたなどという嘘が公然とまかり通っている。私も丸狩りには反対だが、それと個性とは何の関係もない。そもそも個性とは伸びたり縮んだりするものではないし、丸狩りにしようが、制服を着ようが、どうしても出てきてしまうものをいうのであって、髪の毛を赤く染めてみんなが別々の服になって、ああ個性的になったなどと言えないのは当然である。そのあたりのことをわかっているようでいてわかっていない人が多すぎる。
 「個性尊重論者」のいう「個性」とは太ってるとかやせてるとか、趣味だとか、自分の意見をもってるとか、何が好きだとか嫌いだとか、だいたいそんな程度なのだ。最近ではそれにもう一つ加わった。足が不自由だとか、目が不自由だとか、そういう障害をもっているのも個性だというのだ。個性だから周りの人も変に気をつかったり同情したりする必要はないし、本人も卑屈になったりする必要もないということなのだろう。しかし、このような言葉のすりかえはもういいかげんにやめたい。どうしてもすりかえたいのなら、「われわれは誰もが障害者である」といいかえるべきである。「健常者」などというものがどこかにいるわけではない。われわれはみなどこかを病んでいるのだ。特に現代人は「自分という病い」を病んでいる。個性尊重論者はその「自分という病い」を「個性」と勘違いしているのだ。趣味をもつとか、自分の意見を持つなどというのは全て「自分という病」にかかった人の症状にすぎない。「自分は熱帯魚の特に卵生メダカが好きで、何と言っても西アフリカ産のノトブランキウス属がいい」などとつまらぬところで専門用語を使ってみたりするのが「自分という病」に冒された人間の特徴である。そんなものは個性でもなんでもない。趣味でさえない。ただ、その人間の表面に浮かんでは消える泡のごときものにすぎない。
 それでは個性とは何か。私は個性というのは運命の別名だと考えている。その人間の魂に刻印されたものを個性と呼びたい。それ以外の個性など私には何の関心もない。人間ならだれでも当然、個性を持っている。そしてそれはその人間を否応なくたった一人で世界に立ち向かわせるものだ。だから、個性豊かな人間を育てるとかいう言葉はきれいごとだ。個性に豊かも貧しいもない。個性とは本来呪わしいものである。しかし、個性のない者も確かにいる。つまり、人間ならだれでも個性をもっているのだが、「一度も人間にならないで、蛙のままだったり、上のほうが人間で、下のほうが魚になっているのもずいぶんいる」ということだ。そういう人は一生幸せに過ごせる。もちろん、そういう人だって泣いたり笑ったりずいぶんつらいこともあるだろうが、その人の蛙が泣いたり笑ったりするのであるから幸せなのだ。

   話を元にもどそう。「個性」は呪わしい。できれば「個性」などないほうが幸せな一生を過ごせるということだ。「個性を尊重すべきだ」などという人は「個性」の本当の恐ろしさを知らない人だ。いい例が「いじめ」だ。私の考えでは「いじめ」には確かに「個性」がからんでいる。いじめるのもいじめられるのも大きくそれぞれの「個性」が関わっているのだ。個性を尊重しあえばいじめはなくなるなどというが、むしろ逆に個性がいじめを生んでいるのだ。個性を尊重せよというなら、いじめを認めなければならないのだ。「個性尊重論者」はそのあたりを全くわかっていない。いじめを認めないなら個性など尊重すべきではない。いじめで自殺がおこるのも当然である。いじめにはその人間の「個性」すなわち「運命」がかかわっているのだから。先に述べた「障害は個性である」という言葉も、いいかえれば「障害は運命である」といっているのと同じなのだ。そういう意味でなら私もこの言葉に賛成である。しかし、「障害は運命だ」といわれて、障害者は何と思うだろうか。

 「個性的人間」というとき、だれでもすぐに思い浮かぶのは、学校や社会制度に反発し、その叫びを歌にして走り続けた「尾崎豊」や、女性と繰り返し自殺を試みては失敗し、最後に成功した「太宰治」。小さい頃、親に漫画を書くことを禁止され、一度は医者の道を選ぶが、結局漫画家として書きに書きまくって死んだ「手塚治虫」などだろう。しかし、私が「個性的人間」といって真っ先に思い浮かべるのは、みんなが自分の手ばっかり見るから嫌だといって学校に来なくなった生徒や、死刑囚永山則夫や、間引かれて一生欠席する寺山修司の弟や、政府の役人たちに迫害され、家の二階に上がったきり死ぬまで下りてこなかったアイヌ人の老婆のことだ。
 いずれにせよ、尾崎豊が一つの学校に10人もいることを想像したら、個性を大切にしようなどと安易にいえないことだけはわかるだろう。

おわり