表紙特集記事一覧>微妙なる問題


その他の微妙なる問題


 このところひじょうに難かしい問題がいくつか私の頭の中にある。みなさんのご意見をぜひお聞きしたい。

 

その一「かえるいじめ論争」

 朝日新聞に、ある中学生の女の子の投書が載った。小学生の男の子が二人でマンションの下と上に分れて何か言いあって遊んでいる。見ると、上にいる子がカエルを放り投げて「死んだか?」と聞いている。下にいる子が「まだ生きてるぞ」と答える。どの高さから放り投げるとカエルが死ぬかを彼らは実験していたのである。それを見た中学生の女の子は残酷でかわいそうだと嘆いていたのである。
 それに対して、次の日の新聞にある主婦の意見が載った。それはかわいそうとかそういうことではなく、科学的探求心というものであり、だれでも子どもはそういう残酷な体験を通して、生命の尊さとか、死とかを実感として学んで成長していくのだと述べられていた。
 果たしてカエルは人間の成長のために犠牲になる運命を甘んじて受け入れなければならないのか、また、果たして人間はそのような残酷な体験をしないと学べないのか。

 

その二「暴力団ボランティア」

 先日の阪神淡路大震災の時、大阪のある暴力団が水や食料などの救援物資をもってボランティア活動を行ったそうです。果たして、この救援物資をもらうべきか、もらわざるべきか。
 ある人は、その気持ちは尊いものだから、もらうべきだという。またある人は、どうせ悪いことをして稼いだ金から買ったものだろうし、こんな時に恩を売ろうという意図がみえみえだから、もらうべきではないという。さて、あなたならどうする。

 

その三「表現と犯罪」

 先日、加納典明の写真集がワイセツ物だということで、典明氏と出版責任者が逮捕されたが、その大本には、性表現の自由化は性犯罪を増加させるという議論がある。ここで言っているのは「表現の自由」という問題ではない。性表現が増えると性犯罪が果たして増えるのかという単純な相関関係を問題にしているのである。これは、暴力表現が増えれば暴力犯罪が増えるという議論と全く同じことである。 今、大人気の「ドラゴンボールZ」にも、片っ端から人間を殺していくキャラクターが登場する。また、核戦争後の世界を描く「アキラ」や「北斗の拳」などに乾いた暴力が淡々と描かれている。これらの漫画がサリン事件などに何らかの影響を与えているのではないかというのだ。  ところが一方、逆にそういう表現が、現実生活の安寧を保証しているのだという議論もある。東映のやくざ映画が男たちの闘争本能の代償となってストレスを解消し、平和な日常をもたらしているというのである。これは、先の「かえるいじめ論争」と本質的なところでつながっている。果たして表現と犯罪は相関関係があるのかないのか。

 

その四「単純さと複雑さとではどちらが複雑か」

 単純さと複雑さはどう違うかという問題である。例えば、人間はアメーバなどの単細胞生物から進化してきたといわれるが、顕微鏡で見れば分かるとおり、一つ一つの細胞そのものの構造はほとんど変化していない。つまり人間は細胞の数が増えただけであって、すべては量の問題であるという意見がある。複雑さと単純さの違いは量の違いだというのである。確かにコンピューターのことを考えても、その原理は電気のONとOFF、1か0かということであり、それは64ビットの超高速コンピューターになっても全くかわらない。結局、量の違いだと言われればそのとおりだ。
 しかし一方で、量が一定量を超すと質の違いになるという考えもある。一定量とはどこをもって判断するかというと、数えられるか、数えられないかという点をもって判断する。数えられなくなったらそこが量から質への転換点である。つまり質とはアバウトの世界である。確率の世界である。アメーバはすべてを一つの細胞でまかなっているが、人間の細胞はすべて分業化されており、ある細胞は腎臓としてしか働かない。ある細胞は脳としてしか働かない。これは明らかに質的に異なるというわけだ。これも納得できる議論だ。
 しかし最近の遺伝子工学の研究により、一つの細胞の中にすべての遺伝情報がつまっていることが大きくクローズアップされた。映画「ジュラシックパーク」では、一片の細胞の化石から、恐竜をよみがえらせることが原理的に可能であることを示した。つまり部分は全体なのである。そうなると単純さはそのまま複雑さだということになる。

 では、単純さこそ複雑なのではいか。

おわり