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予言とは何か


 「予言」とは何かを考えるにあたって、「意志」との違いを考えてみよう。例えば「弁護士になろう」というのが「意志」で、これはもっぱら自分自身の未来に関して心に期するものである。一方「予言」といえば、例えば「大地震が起こる」というように、一般には、個人の「意志」ではどうすることもできない未来の事に関して述べられた言葉である。
 ところが、最近この「予言」と「意志」の違いがたいへんあいまいになってきたのである。というのは、「個人の意志ではどうすることもできない事」と従来考えられてきたことが現代ではどんどんできるようになってきているからだ。「大地震」というのも起こそうと思えば起こせる力を人類は身につけてしまったのだ。「人類滅亡」も「予言」ではなく「意志」の範疇に入ってしまったということだ。いや、実はそもそも始めから「予言」というものはなかったのかもしれないのだ。すべては「意志」だった。
 キリスト教にとって、預言はたいへん重要な働きをしている。イエス・キリストの(救世主である)最大の証拠は、預言である。その福音を信じさせるために預言が必要だった。イエスは、自分が弟子の一人ユダに裏切られ、十字架にかけられて殺されることを預言し、そのとおりになった。しかしこれは預言ではなく明らかに「意志」だ。ユダはイエスに洗脳され暗示にかけられたと考えたほうがわかりやすい。(イエスを十字架になどかけず、ただの変人として釈放していれば今日のキリスト教はなかった)
 また別の例としてマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」をあげよう。彼らはこの著書の中で、ブルジョア(資本家)階級の没落とプロレタリア(労働者)階級の勝利を宣言している。これは科学的な分析による歴史的必然という形をとっているが、明らかに「予言」であり「意志」である。彼らの「予言」はロシアで実現し、日本では共産党員の大量の逮捕者と拷問死を生んだ。当時の政府は徹底した情報操作を行い、「共産党は怖い」という考えを民衆に植え付け、共産党員の逮捕を民衆に納得させた。(この共産党員をオーム信者と置き換えることもできる)

 このように考えてくると、「予言」とはすべて「意志」であり、人類の歴史はすべてだれかの「意志」によって動いてきたのであり、今も刻々と動いているのである。そういう意味でもこの世に「偶然」というものはないのである。そのことを日々刻々意識すべきである。これは実はものすごく重要なことなのである。重要だなどという言葉では表せない、とてつもない、革命的な、コペルニクス的な転換なのである。
 つまり、どういうことかというと、我々が自然現象、自然法則とよんでいることもすべて我々の「予言」=「意志」に従っているということである。
 朝、太陽が昇るのも我々の「意志」であり、その都度我々は「予言」しているのである。それを実感するためには、朝はやく、太陽が昇る前に起きて、東の空に向かって「太陽が昇ってくる」と予言してみればいい。太陽は「予言」したとおり昇ってくるだろう。これが「予言」の真の意味なのである。また例えば旅先で雨に降られた時は「私は雨を予言していた」といえばいいのである。「私は雨を望んでいた」といえばいいのだ。この時、見ている風景は一変するはずである。これは決して「気休め」でいうのではない。事実がそうだからそう言うのである。
 すべては「意志」であり、望んだことなのだから、すべては喜ぶべきことなのである。哀しい結末を望んだ場合は、望んだとおりに哀しい結末を迎えたことを喜ぶべきなのである。
 これはたいへん危険な考えでもある。例えばルワンダ難民は、難民になることを望んだのだから、同情したり、援助したりする必要はない、などという馬鹿なことを考える奴が必ずでてくる。しかしそうではないのだ。一番最初に、「意志とはもっぱら自分自身の未来に関して心に期するもの」だと述べたことを思いだしてほしい。私は「私自身」の意志について述べたのであり、ルワンダ難民の意志について述べたのではない。自分以外の他人にもそれぞれやはり「自分」というものがあり、自分自身の「意志」を持っていると考えるのは自由だが、だからといって「自分」の考えを他人にあてはめることは絶対にできないのである。それでは今まで述べてきたことはすべて無意味ではないか、といわれるかもしれないが、そのとおりなのである。今まで述べてきたことはただ「私自身」にしかあてはまらないことなのである。これが「たこつぼ」の「たこつぼ」たるゆえんなのである。「たこつぼ」の真の意味はそこにある。

おわり