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「狂人日記」 色川武大 (新潮文庫)


 
自分の頭脳はこわれている。その実感は今のところ誰の判断よりも勝る。自分に関して云々できるものは自分しかいない。
我から狂人という者は狂人にあらず、などというが、こんな言葉くらい当てにならぬものはない。それは昔、情緒が安定していて、人がより大きなものに律せられて生きていた頃の言葉だ。
進歩するのは手術の技術で、病理の方は生体の実験でも積み重ねなければ駄目との由。
身体のすぐ横に猿が来ている。じっとみつめると、横すべりして壁の中へ入ってしまう。どうということはない。日常生活を遮断するほどのことがあるわけでもなく、自分が黙っていれば、無に近いことだ。
幾つになってもこんなことに全力を使わなければならない自分に呆れる。呆れかえるという気分は快い。できれば絶え間なく自分を呆れかえっていたい。
如何に生くべきか。そういうことを考える年齢では早くもなくなった。もう五十を越した。一生は短きもの也。このまま転げるように生き終えてしまいたいものだ。眼の中を色見本のようにいろいろな色が通りすぎる。
自分の息は臭いので、どんな敵でも辟易する。息がかかったところから腐り出すものも居る。
ついに猿が瓦解して、虫になった。数匹の芋虫に。
虫は猿になり、猿はナチ印になって飛び立ってゆく。
自分はカードの自分と、神のように俯瞰している自分と、二色の自分を持ってしまった。
いつのまにか自分一人で、例の遊びを神さまごっこと呼ぶようになった。

父親が子どもたちを集めて、破産、一家離散という意味のことを沈痛に伝えてきた。母親はすでに居なかった。
「いやなことをお訊きするようですが、左の足がやや短いのではありませんか」
「それよりも、尻の肛門付近のできものがひどくなって、手術したんですが、これがなかなか直らない。強烈に臭いましてね」
ナチのマークだと思っていた珠が、実は宇宙型をした蜘蛛だとわかる。
自分の青春はそのことで、一つの灯もともらなかった。この穴が一生埋まらないとして終生悪臭に耐えていける女なんて居るだろうか。
また自分がこの秘密を打ち明けざるをえない相手が現れたら、そうして打ち明けてしまうということが、自分の気持ちのバロメーターになると思っていた。
幻聴というものが困るのは声を聴いている時点では、はっきり幻聴と覚っているのだが、時がたつにつれて、幻聴から得たデータか、実際のデータか、混ざり合って判別しがたくなることだ。

幻像が頻繁に現れはじめたのは、久留島さんの二階にいた頃からだ
小人のスペイン人が登場して、いつまでもこちらを眺めているので、手で脇に追いやるようにした。そんなことがはじめだったと思う。
自分は何千回何万回もあらゆる方法で殺されていて、しかし蘇生するからけりがつかない。
胃腸障害で寝ている間、妙な幻想はほとんど襲ってこない。神経とは勝手なもので、他にかかずらっている間はお呼びがない。

これは病気だろうか。以上のことを一言も口外しなければ、病気だと立証できない。
そこのところが以前からわからないが、他の人もこういうことがあるのかどうか。あっても黙っているのか。死んでもいわぬと深くかくして、平気そうに生きているものなのか。
自分は誰とも一体になれないのか。人と一体になるにはどうすればよいのか。

ともかく自分は、寺西圭子が用意した部屋に同居人として移住することにした。
「闇の坂 これより先に道なしと 蛙の声の昇りくるなり」
ここでは自分という病者に対して彼女は健常者の位置にあり、長いこと病者の位置にいた彼女にとって、それがとても魅力的だということは頷ける。

病気ならいっそ病死してしまえばいい。自分たちの病気はレントゲンでもCTスキャンでも映らないから、誰も正体を見た者がない。

俺は手が拡がるのは平気なんだよ。収拾がつかなくなっても切り口を見ないから
気狂いが気狂いといわれて怒るなんて・・と下の細君が言った由。
自分はこれまで我を忘れて怒るということがなかった。できなかったというべきか。
どういう目に会っても怒るより先に、ばたっと心を閉ざしてしまい、自分の穴に潜り込んでしまう。

それが治療ですか。自分を簡略にしようとするくらいなら、こうして質問なんかしません。
自分がどうにかここまで生きてこられたのは病人だったからだ。それ以外の何ものでもない。

死んでやろうと思う。ずいぶんよそよそしい言葉で、人に告げても信じるまい。自分にもまだ嘘くさく聞こえる。死んでやろうじゃない。死ぬよりほかに道はなしということだ。それで自然死がよろしい。今日から食わぬ。

有馬忠士さんの絵