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東京奇譚集 村上春樹 新潮社 偶然の旅人 筆者には過去に不思議な偶然の一致を経験していた。 いずれもジャズにかかわることで、一つは、トミー・フラナガンのライブ演奏を聴きながら、どうしても二曲最後に聴きたいと思っていた、まさその曲を弾いてくれたこと。二つ目は、ペパー・アダムスの「10to4 at the 5Spot」という古いレコードを購入し、店を出ようとしたときに時間を聞かれ腕時計を見たら、まさしく4字10分前だったこと。 知人のピアノ調律師が話してくれた話である。 自分がホモセクシュアルであることをカミングアウトして家族中からうとまれ、親しかった姉とも仲違いした。あるとき、書店のカフェでディケンズの「荒涼館」を読んでいると、たまたま同じ本を読んでいる女性に声をかけられ深い仲になろうとしたとき、ホモであることを告白する。女性は乳ガンの手術を前にして不安だったのだ。姉と同じところにホクロがあったことから、知人は急に姉のことを思い出して電話すると、姉も偶然乳ガンの手術をひかえて苦しんでいたのだった。姉弟は仲直りした。 −かたちあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。それがぼくのルールです。 −音楽の世界というのは神童の墓場なんだよ −偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます。まるで真っ昼間打ち上げられた花火のように、かすかな音はするんだけど、空を見上げても何も見えませんl。しかし、もし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるんです。 「ハナレイ・ベイ」 サチの息子は十九歳の時に、ハナレイ湾で大きな鮫に襲われて死んだ。サチが遺体を引き取りに行ったとき、現地の警察官はこのことでこの島を恨んだりしないでほしいと言った。 それから毎年、この島に来るようになった。 ある年、日本の若者が二人、サーフィンにやってきたのを案内してやった。 サチは好きでピアノを弾いていたが、コピーしかできないと悟り、プロになるのをあきらめて、ピアノ・バーの経営者となった。 −サチは息子を人間としてはあまり好きになれなかった− −わがままで集中力がなく、やりとげたことがない、うそをつく− 二人の若者は片足のサーファーを見たという。死んだ息子に違いなかった。 東京でその若者に会った。 −女の子とうまくやる方法は三つしかない。 ひとつは相手の話を黙ってきいてやること、 ふたつは着ている服をほめること みっつ、できるだけおいしいものを食べさせること 「どこであれそれが見つかりそうな場所で」 夫の父は三年前に都電に轢かれて亡くなりました。 女の夫はトレーダーで、義母の24階の部屋へいった帰り、26階の部屋に戻らず行方不明になった。 私は無償で消えた人を捜す仕事をひきうけている。 24階から26階まで歩いてはいろんな人と会った。ある人は言う。 −私たちはあるときはむしろ、自らを生きさせないことを目的としてものを考えているのかもしれません。ぼんやりするというのはそういう反作用を無意識的にならしている、ということなのかもしれません。 ところがとつぜん、依頼人から電話があり、夫が仙台の駅の待合い室で寝ていたという。20日間の記憶はないという。 −胡桃沢さん、現実の世界にようこそ戻られました。 不安神経症のお母さんと、アイスピックのようなヒール靴をはいた奥さんと、メリルリンチに囲まれた美しい三角形の世界に 私はまたどこか別の場所で、ドアだか、雨傘だか、ドーナツだか、象さんだかのかたちをしたものを探し求めることになるだろう。どこであれ、それが見つかりそうな場所で。
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