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だんご虫の唄


 どうしても生きる方向ではなく、死の方向へ思考や感情が向かってしまう、そんな(遺伝子でもなんでもいいけど)傾向をもつ一群の人間がいることは間違いない。人生を浪費するということはどういうことかよくわからないが、死にたい死にたいと思いながら生きていることは生き物の定義に反する気がする。

 周りの思惑ばかり気にしている。もともとそういう人は「自分を生きて」はいないのだ。生きることは「自分を生きる」ことだとすれば、これまた定義に反している。

 気が小さいという言葉もある。気が弱いともいう。気とは生命力の別名かもしれない。しかし、兎のように逃げることで生き延びる生命力もある。あれは気が小さいとは言わない。虫のように死んだ真似をして生き延びようとする一群もある。危険をやりすごすことが体にプログラムされているのだ。危険を解決するのではない。ただやりすごす。通り過ぎるのを待つ。だんご虫は体を丸くしてただ危険が通り過ぎるのを待つ。つまり、対処すべき問題が目の前に迫っているのに、体が動かなくなってしまうのだ。人間にもこういう種類の人間がいてもおかしくない。それで成功する場合もあるからだ。でも成功する確率は低い。低いから、その手の人間は数としては少ない。少ないけれども決してなくなることはない。多様性を残すのが生物の生存戦略として重要だからだ。とすれば、要は、鷹派も鳩派もどちらも必要な戦略としてこの世に存在するのだと悟り、そこに価値観や倫理観を持ち込む必要はないということだ。

 つまり、鳩派の人々、あるいは「だんご虫派」ともいうべき人々がいかに自己嫌悪に陥らずに生きられるかということが問題なのだ。「だんご虫派」は逃げる戦略をもって生まれた。しかし、その戦略は人間の倫理観として「卑怯者」などと呼ばれる。そこに「だんご虫派」の苦悩がある。「だんご虫派」はその周りの評価を無視できないような性格に生まれついてもいるのだ。逃げる戦略と気の小さい性格とが一体化している。ここがやっかいなところだ。逃げて何が悪いと開き直る性格は持ち合わせていない。そういう性格なら逃げないで戦うだろう。ではどうすればいいのか。酒の飲めない人々が飲まないことの正当性を主張したように、「だんご虫派」も逃げることの正当性を主張する団体をつくるのがよい。とはいえ、「だんご虫派」は絶対に団体など作らないこともわかっている。

 だんご虫はあくまでひっそりとこの世界の片隅に生き、ほとんどこの世の何一つ作り変えたりせずに、できれば自分以外の何者にも(子孫を残す相手以外だれにも)会わずにその一生を終えたいと願っている。

 それでもだんご虫は生きている。ひたすら生きている。どうしようもなく生きている。純粋に生きている。生きる(息をする)ということ以外いったい何をしているだろうか。何もしていない。

ああだんご虫、だんご虫。

それでも私はだんご虫の唄を一生唄っていきたい。