表紙文学と昆虫>源氏物語と昆虫 第一回


文学と昆虫


 地球上で最も繁栄している動物は昆虫である。数の上でも種類の上でも群を抜いている。地球上の生物の80%は昆虫なのである。地球は昆虫の惑星なのだ。人間がどうあがいても昆虫には勝てない。私は小さい頃からこの昆虫の多様さに目を見はってきた。核戦争で人類が滅亡しても必ず昆虫は生き延びるだろう。そういう意味では地球の未来について私はひじょうに楽観している。
 ともあれ、この昆虫と人間とのかかわりを文学をとおしてたずねてみたいというのが本稿のねらいである。
 はじめに「源氏物語」をとりあげてみたい。

源氏物語と昆虫 第一回

<蝉>の巻

 「源氏物語」に描かれた蝉を、その意味するもので分類すると次の三つになる。

 1,夏の暑さを強調する景物としての蝉
 2,空蝉(うつせみ)=抜け殻としてのむなしい存在としての蝉
 3,ひぐらし=山里の夕暮れの時を告げる景物としての蝉

 それでは、一つ一つみていこう。
『』は本文の引用。()は巻名。

 
1,夏の暑さを強調する景物としての蝉

『風いとよく吹けども、日のどかに曇りなき空の、西日になるほど、蝉の声などもいと苦しげに聞こゆれば、「水の上無徳なる今日の暑かはしさかな。無礼の罪はゆるされなむや」とて寄り臥し給へり』(常夏)

 源氏が水の上に建てられた釣殿で暑さをしのいでいるところだが、とにかく暑くて水の上にいてもちっとも涼しくない。「蝉の声も苦しげに聞こえる今日の暑さだ」といってだらしなくも横になってしまう場面だ。蝉といえばやはりこのように暑いときに鳴いて余計に暑苦しくさせる虫だろう。これはアブラゼミ、ミンミンゼミ、クマゼミといったたぐいだ。しかし、この暑苦しい蝉としての用法は実はこの一カ所しか出てこないから不思議だ。

 
2,空蝉(うつせみ)=抜け殻としてのむなしい存在としての蝉

 『空蝉の身をかえてける木のもとになお人がらのなつかしきかな』(空蝉)

 ある事件をきっかけに伊予の介という地方の役人の後妻が「空蝉」とよばれるようになるのだが、その事件とは人妻のこの女性に現時が無理矢理迫ったときのことである。この女性は源氏が忍び込んできたのを察して、上着の薄い衣をその場に残してそっと逃げ出してしまう。ちょうどそれが蝉の抜け殻のようだったので「空蝉」と呼ばれるようになるのだ。源氏は仕方なく帰るかと思いきや、その場にいた別の女性と関係してしまう。全く節操がない奴だ。その上、脱ぎ捨てられたその衣を家に持って帰り、その夜はその衣を着て寝たりするのだ。そのときの気持ちを詠んだのが上の歌だ。「抜け殻としてこの衣になつかしいあなたの人柄が匂ってくるようです」というフェチな源氏である。下着でないところにかろうじてポルノとの境があるのだった。

 別の例としては・・・

 『おとど見送りきこえ給ひて入り給へるに、御しつらひよりはじめ、ありしに変はる事もなけれど、うつせみのむなしき心地ぞし給ふ』(葵)

 源氏が正妻「葵の上」の亡骸を見送った後の場面。「うつせみ」は明らかに死骸を連想させ、またここでは主人を失ったむなしい部屋をも象徴している。

 3,ひぐらし=山里の夕暮れの時を告げる景物としての蝉

 『すこし大殿ごもり入りにけるに、ひぐらしのはなやかに鳴くにおどろき給ひて、「さらば、道たどたどしからぬほどに」とて、御衣などたてまつりなほす・・・中略・・・夕霧に袖ぬらせとやひぐらしの鳴くを聞く聞くおきてゆくらむ』(若菜下)

 身分上は正妻扱いの「女三宮」を見舞った源氏がついうとうとと眠ってしまったところ、いつしか夕暮れとなり、ヒグラシの声で目覚める。いかにもありそうである。起きた源氏が身分上は第二夫人だが最愛の妻である「紫の上」のもとに帰ろうとしたとき、上記の「女三宮」の歌があるのだ。「ヒグラシが鳴くのを聞きながら私を置いて言ってしまうのですね、一人ここで泣いていろというのですね」という恨み言めいた歌である。こういう歌に源氏はけっこう弱くて、立つに立てなくなってしまうのである。
 ひぐらしの声で目覚めるという場面は「夕霧」の巻にもある。

 『ひぐらしの声におどろきて、山の陰いかに霧ふたがりぬらむ・・・といとほしうて』(夕霧)

 目覚めたのは源氏の息子の「夕霧」である。「夕霧」は今、正妻の「雲井雁」のもとにいるのだが、山里に住む「落葉宮」という女性のことを思っているのだ。「雲井雁」が「落葉宮」から「夕霧」にとどいた手紙を隠してしまったので、「夕霧」は困っているのである。今頃「落葉宮」は返事を待っているだろうなあと思いやっているのである。ヒグラシの声ははなやかだが、どこか寂しげで何かを思い出させる響きをもっている。遠い日の記憶、別の女性・・・・・。

 『つれづれと我がなきくらす夏の日をかごとがましき虫の声かな』(幻)

 これは最愛の妻「紫の上」をなくして源氏がひとり泣き暮らしている自分を詠んだ歌だ。「なきくらす夏の日」のところに「ひぐらし」という語が隠れている。そこでこの虫はヒグラシだとわかるのである。このように、虫は登場人物と心を通わせ、共に泣いてくれるやさしい生き物なのである。

おわり