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文学と昆虫

源氏物語と昆虫 第四回

<蜻蛉>の巻

 『あやしうつらかりける契りどもを、つくづくと思ひつづけながめ給ふ夕暮れ、かげろふのものはかなげに飛びちがふを、「ありと見て手にはとられず見れば又ゆくゑもしらず消えしかげろふ あるかなきかの」と、例のひとりごち給ふとかや。』(蜻蛉)

 薫が宇治八の宮の姫君たちを次々と思い出している場面。その女君たちを「蜻蛉」に見立てている。「かげろふ」とは頼りなさそうに飛びちがう羽虫である。

 「蜻蛉」の字は現在「トンボ」を指す。一方「カゲロウ」と名の付く虫は現在二種類いて、川の中で幼虫時代を過ごし、成虫になったらその日のうちに卵を産んで死ぬと言われている「カゲロウ」が一つ。もう一つはお寺の境内などの砂にすり鉢状の落とし穴をつくって蟻などを待ち伏せしている「アリ地獄」と呼ばれる幼虫が羽化したもので、「ウスバカゲロウ」などの仲間だ。こちらはけっこう長生きする。そして大きさも形もトンボによく似ているのでトンボと混同されたのも無理はない。

カゲロウ

 さて、はたしてこの「蜻蛉」は現在の「トンボ」のことか、それとも「ウズバカゲロウ」の類のことか、判断に苦しむ。別に判断する必要もないといえばそれまでだが、その虫が何であったかによって人物イメージが微妙に変わってくるので、ぜひこれは明らかにしたいのだ。

 たとえば、芭蕉の有名な句、「閑かさや岩にしみいる蝉の声」の「蝉」は「油蝉」か「ニイニイ蝉」かといった論争もそうだ。「岩にしみいる」という感じにふさわしいのはやはり「ニイニイ蝉」だろう。斉藤茂吉の説は採れない。

 ここで「蜻蛉」になぞらえられた宇治八の宮の姫君たちの中で、薫が最初に愛したのは「大君」だった。その「大君」の部屋へ忍び込んでつかまえたと思ったら、なんとそこにいたのは妹の「中の君」だった。その後まもなく「大君」は亡くなる。そこから、「ありとみて手にはとられず見れば又ゆくゑもしらず消えしかげろふ」という歌がでてくる。「大君」を忘れられない「薫」は「大君」の異母兄弟の「浮舟」という女性を知る。ところが、この女性も薫と匂宮との三角関係に悩み入水自殺を試み行方不明となる。この女性たちにふさわしいのはやはり「トンボ」ではなく、「カゲロウ」だろう。

 ところが、ここにはもう一つ問題がある。今の「カゲロウ」は昔「ひをむし」と呼ばれていたことがわかっているのだ。源氏物語にでてくる「ひをむし」は一カ所次のとおり。

『十月になりて、五、六日のほどに、宇治へまうで給ふ。「網代をこそこのころは御覧ぜめ」と聞こゆる人々あれど、「何か、その蜉蝣(ひをむし)にあらそふ心にて網代にも寄らむ」と、そぎ捨て給ひて、例のいとしのびやかにて出で立ち給ふ』(橋姫)

 薫が宇治を訪ねる場面。人々が網代を見学することを勧めるが、『氷魚(ひを)は網代にまねきよせられて捕られてしまうが、私は網代には寄りませんよ』と言って拒否する。氷魚とは鮎の稚魚のことで、網代は魚を捕るために設けられた罠である。「氷魚(ひを)」という音から「蜉蝣(ひをむし)」が出てきたのだが、「蜉蝣にあらそふ心」とは「ひをむしのようにはかなく死に急ぐような心」というような意味であろう。明らかに「ひをむし」は今の「カゲロウ」なのである。

 となると、先の「蜻蛉(かげろふ)」は今の「ウスバカゲロウ」か「クサカゲロウ」だろう。こいつは手に捕ろうとしてもなかなか捕れない。捕ったと思って手を開くと何もなく、行方も知らず消えてしまう。たまに捕まえられることもあるが、意外と弱い虫で、ちょっと強く握ると死んでしまうのだ。まさしく歌のとおりである。

「ありと見て手にはとられず見れば又ゆくゑもしらず消えしかげろふ」

うどんげの花とクサカゲロウ

 こうみてくると、改めて当時の人がいかに科学的知識をしっかり持っていたかがわかる。現代人以上に細かな知識を持ち、陰影深い日常を送っていたのである。