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保険嫌いの論理完全版


 世の中にはどうしても保険が嫌いだという人間が存在する。何を隠そう、この私もその一人である。それは折りにふれて表明してきたが、今回、2000年という記念すべき年にあたり、ここにはっきりと宣言しておきたい。そして、以後、このことにはふれたくない。保険の仕事に誇りをもってあたっている人を否定する気持ちは全くないからだ。私はただそっとしておいてほしいと石の下で願うだんご虫の心境なのである。 ではなぜ保険が嫌いなのか、その理由をこれから列挙していきたい。

一、自分が死んで誰かが喜ぶことへの偏狭な反発

 これは単なるひがみである。自分が死んだことによって残された者に大金がころがりこみ楽をする、というのはどうしても許せないというわけだ。自分が死んだら悲しんで欲しい。金が入ったりしたら悲しみの涙の下で笑いがこぼれてしまうではないか。そんなことは許せないというわけだ。これはあまりに根性が曲がった考えであり、ひねくれていると思われるかもしれないが、案外一番大きな理由かもしれないのである。

二、設計された人生への嫌悪

 これはつまり保険というものが人生というものを管理し、設計し、計画し、先を見通し、システム化し、我々を時間軸にそって組み込んでいくという感覚が嫌いなのである。そもそも人生設計という言葉を聞いて叫び声をあげて逃げ出したくなる人間なのである。芭蕉のように「のざらしを心に風のしむ身かな」という心でつねに生きたいのである。保険に入ったとき、その人の青春が終わると言ったのは誰だったか。保険は人生が守りに入ったことを意味し、青年のわがまま、奔放さ、自由さを失うことなのである。この世には守るべきものなど存在しないのだ。

三、生命を金に換える思想への嫌悪

 ここに諸悪の根源がある。近代人の堕落の根源がある。保険金殺人の例を待つまでもなく、ここからあらゆる近代人の精神的ゆがみが生じたのだ。すべては金に換算される。年寄りの値段は安い。病気持ちは保険に入れない。そういうことを誰がどうやって決めたのですか。確率ですか。病気持ちは病気のない人よりも死ぬ確率が高いから保険金も高くなるのですか。一人一人が確率の中に埋没する。これも人間疎外だ。

 児孫のために美田を買わずといったのは西郷どんであったが、死後に金を残してろくなことはないのである。再婚資金になったり、パチンコに消えたり、まあそれはむしろ健全なのかもしれない。死んだ人が本当に大切な人であったとすれば、金がその空白を埋めてくれるはずはない。さびしくってパチンコに狂ったとしたらそれはそれでよくわかる。しかし現実は、さびしくって保険金を無駄遣いするのではない。堕落するのである。それはなぜか。保険とはバクチだからだ。そう言ったのはアメリカの推理作家である。保険の掛け金は文字どおり賭け金である。自分で自分が死ぬ方に賭ける。こんな倒錯した賭けがあるだろうか。賭けに勝つということは自分が死ぬということなのである。せいぜい好きなだけ大金を賭けるがいい。

四、独我論的信念

 独我論とはつまり、この世においてはこの自我だけが唯一であり、すべてであって、他人や、自分の周囲は自己規定の結果にすぎない(現代哲学事典 講談社)という考えである。 自分以外の人物や出来事はすべて自分が見ている映画の場面のようなものであり、自分が死ねばテレビのスイッチを切るように全てが消えてしまう、この世界全てが消えるという考えだ。自分が死んでもこの世界はそのまま存続するという証拠はどこにもない。自分にそういう意識があるように他人にも同じ意識があると考えるのは勝手だが、それも結局自分がそう考えるだけであって、どこまでいっても自分しかいないのである。だから、自分が死んだ後のことを考えるのは意味のないことなのである。自分の死後には何も残されないのだから。世界そのものが消滅してしまうのだから。

 仮に一歩譲って、自分の死後そのまま世界が存続するとしてもですよ、それはもう完全にこの世界とは別の世界ではないでしょうか。そもそも自分がいない世界というものに何か意味があるのですか。自分があの世にいけば、この世もあの世になるのです。わかるでしょうか。わからない人はたぶんとても幸せな人です。どうぞ保険に入ってください。おめでとうございます。心から祝福いたします。これは掛け値なしの本当の気持ちです。