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「冥途 IN INDIA」

    ==インド旅行記==第一回

 1997年12月。

一生日本から出ないと誓った「たこつぼの誓い」をあっさりと破り、私はインドへと旅立った。

 それにしてもなぜインドなのか。理由をつければいろいろある。一つは宗教的関心。カースト制度を温存させている宗教の力をみてみたかった。もう一つは混沌へのあこがれ。合理主義、効率主義、秩序の対極にある混沌のエネルギーを体感してみたかった。・・というのは嘘で、本当はインドの山奥で修行してレインボーマンになるのが私の長年の夢だったのだ。レインボーマンは提婆達多の魂を宿しているのだが、この提婆達多とはお釈迦さまのライバルなのだ。釈迦と一緒に修行していたのだが、釈迦があまりに有名になってしまったので、悔しくなって自分も一派を作ろうとしたのだ。しかしいつしか邪教扱いされて歴史から消されていった人物だ。レインボーマンはだから元々そういう屈託のあるヒーローだった。虹の力を利用するのだが、虹というのもはかない蜃気楼のようなものだからそんなに強い能力があるはずもなく、どこか頼りないヒーローだった。でもそこがかえって人間的な魅力的にあふれ、忘れられないヒーローに仕立てられていたのではないだろうか。

 いずれにしても、私の長年の夢であったインド行を実現するための第一歩を踏み出した。

10月の下旬

 まず、JTBのインドツアーに申し込む。ところがなんと!予約が0人。最低でも10人いないとこのツアーは成立しない。いったいどうなってるんだ。何でこんなに人気がないんだ。インドだぞインド。あこがれのインドじゃないか、みんなレインボーマンになりたくないのか。なぜ俺しかいないんだ。急に心細くなる。そこで、もう一つの似たようなコースのツアーを予約することにした。それは最低2人いれば成立する。しかし、こちらもまだ0人。私が名前を登録してあと一人の参加者を待つことにした。忙しいことに11月13日〜17日まで修学旅行なのだ(私は田舎の高校教師である)。この間、JTBと連絡がとれないので、12日に予約状況を最終確認して、だめならキャンセルすることにした。

11月5日、

 JTBより学校に電話があり、パスポートの写しがどうしても必要だという。

11月6日、

 放課後すぐにパスポートセンターに行き、その足でJTBに寄る。残念ながらまだ予約は私一人であることが判明。これではインドへ行けないと焦った私は、JTBの店を出てすぐ目の前にあった電話ボックスに入り、雑誌「ABROAD」に載っていた四季の旅社に電話する。日本語のうまいインド人が電話口に出る。「デンワありがとござまーす。わたし、ゴスワミいいます。」「こうして毎日少しずつ予約埋まってくでしょ、だから早く予約したほういいです」などと、なまった発音で言うから不安だったが、ええいままよ、と勢いに乗って予約してしまった。12月21日発のインドツアーだ。11月11日がキャンセルのタイムリミット。それ以降はキャンセル料を取られる。

11月10日

 予定より早くJTBに行き、キャンセルする。やはり予約は私一人だった。

12日

 正式に四季の旅社のツアー申し込み書を郵送して修学旅行に出発する。

18日、

 旅行から帰った翌日、代休なので四季の旅社に確認の電話を入れる。すると申し込み書が届いていないという。何か嫌な感じがするがここでやめたら今までの苦労は水の泡だ。もう一度書類を送ってくれるように頼む。よく聞くと、実はこのツアーの予約もまだ私一人らしい。ゴスワミの奴、嘘をつきやがった。先日の電話では、もうあと残り3人で締め切りだとかほざいたくせに。

「あなたが一人だけですので、ゆっくり自由に回れますよ。でもまだこれから増えると思いますよ」などと意味のない言葉が次々出てくる。「最低二人ですけど、大丈夫、一人でも成立します。」などと、これまたわけの分からない言葉が出る。彼も生き馬の目を抜くインド人だったのだ。そうだ、もうインド旅行は始まっていたのだ。インド旅行は、だましだまされる快感を味わう旅だと私は心に決めている。ここで負けてはならない。いずれにせよ、一人部屋料金がさらに32000円加算された。こういうふうに次第しだいに安いと思った値段が高くなっていくのだ。でも一人部屋料金は仕方ない。それ以外はもうなるべく相手の言葉に乗らないように注意していくつもりだ。さらにビザ取得料金が6800円かかる。インドはビザを要求する数少ない国なのだ。これもしょうがない。

 それはそうと、申込書が届いていないというので郵便局に電話してみた。やはり埒はあかない。先方に届かないというだけではどうにもならない。郵便というのも不確かな制度だ。書留にしない限りこちらに何の証拠も残らない。四季の旅社が客の申込書を隠して何か得があるとも思えないし、どうも疑心暗鬼になってしまっている。いかんいかん。ブッダが悟りをひらくにあたって瞑想にふけっていると様々な悪魔が様々な誘惑をして邪魔しようとしたことを思い出す。私のインド行もいろいろと邪魔が入るが、そんなことで気持ちをぐらつかせてはならない。

 そんな折りも折り、エジプトの日本人観光客がテロに巻き込まれて死亡するという事件が18日に報道される。親父はそのニュースを聞くとまた例によってあの調子で言う。

「おい、旅行者が死んでるぞ。やっぱりインドは危ない」

「インドじゃない、エジプトだよ」

「いや、だいたい同じようなもんだ」

「何が同じなんだよ」と埒の開かない会話をするはめになる。たしかにインドで列車爆破テロを起こしたのもイスラム原理主義と呼ばれる人々のようだ。全く関係ないわけではないが、あまりに短絡的な物言いには少々いらいらする。

19日、

 四季の旅社から請求書が届く。

ツアー代189000

ビザ代3600

ビザ取得手数料5250

保険料6010

一人部屋代32000

ホテルUPグレード代22000

計257860

 現地での費用はこれ以外はほとんどかからないということを確認した。現地ガイドはもちろん日本語がわかるということだ。

12月7日

 深夜のテレビニュースによると、インド南部の鉄道に爆弾テロ。死傷者が出た模様。しかし、翌日の新聞には何も載らない。

外務省の観光情報をFAXで取り寄せる。それによると、渡航自粛勧告などというものが「ジャム、カシミール州」にでているではないか。さらに、注意喚起が「マニプール、アッサム州」に出ていることがわかった。ニューデリーでは今年10月に入って4件のテロ爆破事件が起こっていることもわかった。ほとんど日常茶飯事という感じだ。

12月14日(土)

 四季の旅社から旅行最終旅程表が届く。これでいよいよ本当に行ける。8時間も飛行機に乗っているというのが不安といえば不安である。

 学校から借りた本を読む。

タゴールえい子さんの「嫁してインドに生きる」とプーラン・デヴィーの「女盗賊プーラン」の二冊。 タゴールさんはインドの最上級カーストに嫁し、ノーベル賞作家のタゴール氏の親戚にあたるので、それらの要人たちとの交流も含めて全体的に華やかな雰囲気のただよう作品である。文化的な摩擦、障害はあっても育ちの良さと伝統にはぐくまれた人々の善意が基調にある。一方、「プーラン」の方は下層カーストのマッラに生まれ、10歳で無理矢理結婚させられ、性欲過剰な中年夫のために犯されるところから始まり、数奇な運命を経て盗賊の首領となり、今までの復讐をとげていく過程が描かれている。カーストが違うと同じ人間として扱われない現実。強姦も強盗も全て泣き寝入りするしかない現実。プーランの父はその泣き寝入りの代表である。母はその理不尽な現実を容認せず、きちんと言うべきことを言う。しかしやはりしきたりの外に出てまで自己主張しようとは思っていない。私はここでもプーランの父に最も強く感情移入してしまった。娘が目の前で強姦されているのに抗議できない。黙って背を向けて耳をふさいでいる父。世界はそのようにできているのだと考える父。仕方がないのだとあきらめる父。ひたすら堪え忍ぶことしかしらない父。それに対して、暴力には暴力をといって立ち上がるプーラン。この違いは何なのか。世界を脅威として見る人間と世界を自己と対置する人間。自己があって世界があるとすれば、世界は自己と同義である。対等である。世界がどんなに大きく、自分がどんなに無力であっても、それはいわば見せかけの違いである。世界はいつも自分の手の中にある。闘う人間はつねにその都度世界を作り出している。自分自身がつくりだしている。強姦されたら相手の蛇(ペニス)を粉々に打ち砕く。そこで初めて世界は均衡を保つ。強いという言葉では片づかない。単純に考えればただの平衡感覚なのだ。やられたらやりかえすという平衡感覚なのだ。

 それではいったい泣き寝入りの父はどこで心の平衡を保っているのか。父の神はその忍耐を評価してくれる神なのだろうか。苦しければ苦しいほど、耐えれば耐えるほど父の神はやさしく来世での上昇を約束してくれるのだろうか。父よ、私はこの父に限りなく共感する。しかし肯定はできない。自分を犠牲にしてプーランを逃がした僧侶をすばらしいと思いながら、全てが運命の輪の中に収まっているような奇妙な感覚が残る。プーランがいま仏教に改宗して、国会議員となって人権問題、女性開放に向けて努力しているのを聞くと、全てがお釈迦様の手の上で行われていたという感覚が離れない。果たしてこれほどの波乱万丈の人生と泣き寝入りの父の人生とが同じ人生だということの不思議。またしても私の思考はそこに帰ってくる。

12月21日(日)

 高崎発7時50分の新幹線で成田空港へ向かった。東京駅から成田空港まで、成田エクスプレスに乗る。列車を待つ間、ホームの売店で新聞を見て衝撃を受ける。「伊丹十三が飛び降り自殺」。すぐに新聞を買って読む。女性関係が原因のようなことが書いてある。どうにも信じられない。「家族ゲーム」で目玉焼きをちゅーちゅー吸っている姿を思い出す。半熟でちゅーちゅーすすることができなければ目玉焼きじゃないという、日常の細部に渡るこだわりは、歩き出すとき右足から出るか左足から出るかという私のこだわりと重なるものであった。彼が死ぬなら私も死なねばならない。同じ新聞に、インドネシアで旅客機の墜落事故があり、ほぼ全員死亡という記事もあった。みんな私の身代わりに死んでくれたような気がする。

 空港に到着し、団体受け付け場所で名乗ると、航空券と預けてあったパスポートが渡された。四季の旅社の職員がいるのかと思ったら誰もいない。あとは全部自分でやれっていうのか。しょうがないから、まず一万円ばかりドルに両替した。75ドルくらいしか戻ってこなくてすごく損した気分。ドルは強い。その後、空港使用税などというわけのわからん金を払ってチェックインする。中のレストランで食べたのはやっぱりカレー。

 さていよいよインド航空の搭乗手続きだ。インドは置き引きとか抜き取りとかが多いと聞いていたので、私はカバンの全てのチャックに鍵をかけた。おかげで、持ち物検査の時、中身を見せろといわれてえらい手間取ってしまった。機内はもう超満員だ。日本人の数よりやっぱりインド人の数の方が多い。いったい日本で何やってる人々なのだろう。

 指定された席にいくと既に座っている人がいて困った。(だれやねん)聞いてみると女ばかり4人の団体で、なぜか私の席はその4人の真ん中にあたる。頼まれて席を替わると窮屈な席になってしまったが仕方ない。ちらっと見ると、その席を替わった人が持っていたのは私と同じ四季の旅社の行程表だ。私一人だと思っていたが、ツアーの仲間がいたのか。しかしよくみると、巡る場所は全く同じなのだが、彼女らは列車を利用しないコースなのだ。

「最近インドの列車はよく爆破事件があるでしょう。やっぱり危ないですからねえ。あら、列車で行く人にこんなこと言っちゃわるかったわね」などとよくしゃべる人だ。旅慣れていてもう海外旅行は数え切れないという自称遊び人の女性。最近は夫も子どもも勝手に行ってらっしゃいという感じで一緒に来たがらないという。他にその人の友人と母親と親戚の中学生の4人の団体だ。「中学生はまだ学校は休みになってねえだろう。旅行なんかしていいのかよ」と言おうと思ったが自分も同じ立場だった。

 機内映画で「ジュラシックパーク」の続編のようなものを見る。人がバコバコ食われるので気分が悪くなる。おまけに飛行機がやたらに揺れる。

 父が前日、安い飛行機は危ないという話をしていたのを思い出す。エアーインディアなんて聞いたことないから大丈夫かと心配していた。インド最大の航空会社だと言っても自分が知らないものはろくなものではないという論理なのだ。父がアメリカで乗った飛行機は小さな航空会社のものだったので、冷たい空気が上の方からスースー入ってきて何か危ない感じだったという。何が危ないのかと思ったら、機体のどこかに穴があいていてそこからすきま風が入ってきたと思ったらしい。穴があいてたらとっくに墜落してるよと言ってもピンときていないようだった。

 さて、右隣りに座った夫婦は五十歳前後で、海外は25回目だという。これまたベテランだ。ヨーロッパはほぼ全て周ったが、やはり自分にはアジアが一番あっているという。アジアには生の原点があると語る。私は初めての海外でやや緊張して疲れてしまったので眠る。

 約9時間30分かかってデリー空港に到着。時差3時間30分なので、まだ6時30分くらいだ。今日は一日が27時間半あるわけか。うーむ、わからん。搭乗券を出口で渡し、機内で一緒だった夫婦と自称遊び人の女性に「ご無事で、また帰りの飛行機で会いましょう」といって別れる。IMMIGRATIONで待つこと20分。パスポートとEMBARCATIONを渡すと入国スタンプを押してくれる。ちょっと歩くとすぐまたパスポートを見せろという人がいる。何だこいつはと思うがこれも係員だ。税関を通るとタクシーとか両替とかいろんな窓口が並んでいる所に出る。全て通過してやっと外へ出ると、もうあたりは真っ暗だ。たくさんの旅行社の人が名前を書いた紙を掲げて待っている。その中に私の名前はない。ちょっと不安。思いついて四季の旅社のバッヂを胸につけると、一人のやせた若者が近づいてきて紙を見せる。そこに小さな文字で私の名前がローマ字で書いてある。よかった。路頭に迷わずにすんだようだ。すぐに車に直行。運転手が待っていて、ようこそいらっしゃいと言って、いい匂いの花輪を首にかけて歓迎してくれた。ハワイじゃあるまいしと思ったがありがたく好意をちょうだいして首につけておいた。車に乗ると一気に疲れがでてきた。空港からの道路は片側3車線か2車線で、車の流れはかなり激しく、割り込みもするどい。よく事故にならないと感心する。道路の両側は森のように木がこんもり生えている。これは政府によって10年ほど前に整備されたということだ。途中その森のところどころでテント生活をする人々がいる。20〜30分でホテルに到着した。


第一回 完