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「教師の鏡事件」    その後


 数年前に東毛地区の高校の先生が女子トイレの一つに潜み、隣のトイレに入ってきた生徒を鏡で覗こうとした事件があった。これを私は「教師の鏡事件」と名付けた。かつて「教師の鏡」とは、模範的な教師の意味であったが、今や、最低のスケベ教師のことを意味するようになってしまったことを嘆いたのだった。

 しかし、その後も「教師の鏡事件」に類する事件は後を絶たない。
 今月八日、富山県の中学教師が中学校の教室内で、16歳の少女の裸を撮影したという。
 聖心女子大の助教授がトイレを覗いて捕まったという事件もあった。

 これらの事件でいまだに根本的に誤解されていることがある。それは、これらの事件の犯人は「とってもスケベ」な人だと思われていることだ。彼らは決して「スケベ」の度が過ぎてこれらの事件を起こしたのではない。ほとんどの場合が、ストレスと孤独が原因である。家族関係、人間関係がうまくいかず、孤独におちいった人間が、小さな救い、小さな愛情を求めた結果があのような事件になって現れるのだ。「エッチなことばかり考えて悶々とした生活を送っていた男が欲望を抑えきれなくなって起こした事件」などというのは全く見当違いなのだ。そう思われてしまうのがこうした事件の悲しいところだ。

 これについては、精神分析のフロイトの考えは今でも有効だ。フロイトは性的衝動(リビドー)が人間の根本的な生のエネルギーだと考えた。だからリビドーは赤ん坊にもある。赤ん坊はだれかとエッチしたいわけではない。赤ん坊のリビドーはおっぱいを吸いたいという形をとって現れる。おっぱいを吸わなければ生きられないからだ。

 だから「性の衝動」はそのまま「生の衝動」なのだ。そしてそれには快感が伴う。快感はご褒美だという考えがある。生きるためにどうしても必要なことには必ず快感が伴う。ものを食べないと人は死んでしまう。だから食べた後には快感(ああおいしかったという満足感)が伴う。トイレに行かないと死んでしまう。だからトイレに行った後には快感(?)が伴う。子どもを残さないと人類が滅んでしまう。だから子どもを残すためには快感が伴う、というわけだ。

快感というのは必要なことをした後のご褒美だったのに、これが倒錯すると、快感を求めるために必要もないときに無理にそれをするということが起こってくるのだ。たとえば「過食症」などがそうだ。必要以上に食べてしまう。食べることをやめれらない。それは食べた後の快感(安心感)を求めてしまうからだ。はじめに快感ありき、ということだ。この食欲というのもリビドーの一種であり、「食べちゃいたいくらいかわいい」という表現はそれをよく表している。

 しかし、食欲と性欲を一緒にするのはちょっと無理があるのではないか、と思われるかもしれない。そこがこのフロイト理論のポイントだ。リビドー(性的衝動)というのは、結局のところ「生の衝動」だと言った。

では、「生の衝動」とは何か。それはやはり「愛」の衝動なのだ。「愛」とは自分と世界との関係性である。愛とは世界と自分が交わる感覚である。自分が世界に何かを与え、世界から何かを与えられるという感覚である。食欲は世界から自分の中にものをとりこみ、世界と交わることだ。排泄は逆に、自分の中から世界にものを与えることだ。性欲はその関係性の最もはっきりした形をとるから、世の中の事件もいきおい「性」にからまる事件が多くなる。しかし、「性」はあくまでリビドーの一つの現れに過ぎない。「愛」を求める衝動がたまたまスケベ事件となって現れただけなのだ。

 以前担任した男子生徒の中に、自分のモノを女子中学生に「露出」して警察に補導された生徒がいた。彼は決してスケベで毎日そればかり考えていたような生徒ではない。真面目でおとなしく目立たない生徒だった。そしてものすごくハンサムな生徒だった。もし性格が明るかったらきっとものすごく女の子にもてたに違いない。しかし、彼はいつも優秀な兄と比べられて、両親に愛されていないと感じていた。だから自分をだめな人間だと思っていた。そしていつも孤独だった。それが「露出」事件となって現れたのだ。父親はとても厳格な人で、子どもがこんな事件を起こして恥ずかしいと言っていたが、これはスケベとは関係ない、ただお父さんの愛情がほしかっただけなのですよ、と私は伝えようとしたがうまくいかなかった。父親はあまり理解できないようだった。

 この事件以来、私は「スケベ事件」が起こるたびに切なくなるのだ。その人の孤独が見えるような気がするのだ。「スケベ事件」は決してスケベな人が起こしている事件ではないということを私は声を大にして言いたいのだ。