表紙あらすじで読む文学作品七番目の男


 「七番目の男」 村上春樹 2012.2.9


何回も読みなおすが、「山月記」の読後のような、嫌な味が残る。
自分のことを言われているようで、空恐ろしくなるのだ。
「山月記」はプライドばかり高くて、努力をしなかったために虎になってしまった男の話。
この小説は、恐怖に背を向けたために、自分の人生を見失ってしまった男の話。
どちらも自分のことだ。
自分の人生を生きるという最も大事な事から逃げてしまった男の話。
台風によって起こった巨大な波に友達のKが飲み込まれてしまう。それを見ていながら、恐怖のために自分だけ逃げてしまったことを一生後悔して、自分を罰して死んだように生きる男。
「K」といえば、漱石の「こころ」にも出てくる。
村上春樹は明らかにこれを念頭に置いて書いている。
「こころ」の主人公も「K」を自殺においやったのは自分だと思い込み、それを後悔して、自分を罰して死んだように生きる男だ。
同じような状況に追い込まれれば、誰でも同じ行動をとってしまうに違いない。
そう思わせるのが小説の怖さだ。
「K」は純粋な生き生きした真っ直ぐな心を持った少年だった。
「K」を失ったということは、そうした生き生きした真っ直ぐな心を失ったということだ。
それ以来、自分の人生でありながら、結婚もせず、死ぬこともせず、ただ抜け殻のように日々を送る。
表面上はごく普通の人と同じ生活をして、ちょっとした趣味を楽しみながら生きている。
だが、心では、もうこの世に何も興味を持てない状態。ただ生きているだけ。
囚われているという意味では、囚人と同じ。
狭い檻に閉じ込められている。
外に心が向かって行かない。
「いじめ」にあって、以後、外へ出られなくなった状態とも似ている。
失恋して二度と誰かを好きになれなくなった状態にも似ている。
挫折して二度と挑戦する勇気を持てなくなった状態にも似ている。

しかし、村上春樹は最後にこの主人公に人生をやり直す結末を用意した。
やり直すのに遅いということはない。
50代半ばでも、やり直すに遅くはない。
そうした希望を与えている。
ただの小説ではない。

ほとんど希望のメッセージだ。
それがこの小説の価値を落としているかもしれないし、小説でなくしているかもしれない。
そんなことはどうでもいいのだろう。
作者はただ希望を書きたかったのだろう。