表紙あらすじで読む文学作品助けと言えないいま30代に何が


 「助けてと言えない いま30代に何がNHKクローズアップ現代取材班 編著 を読む 2010.12.30


30代のホームレスが増えていて、ボランティア団体にも頼ることなく、アパートで餓死したという青年も出た。
一方では、親のスネをかじって30代に近くなっても働かずに大学院で研究などしている者もいる。
どちらも、生きるという本質から遠くなってしまっていることを実感する。
大学院でたとえば文学の研究などしている。これは明らかに「食う」という生存の本質から離れてしまっている。
アパートで餓死した青年もしかし「食う」という生存の本質から離れてしまっている点では同じだ。
職安に行っても仕事が見つからないから、一つの職場で落ち着くことができず、上司と対立して職場を辞めてしまったとか、すべて自分のせいで、「自己責任」だから誰にも頼れないとか、いろいろな理屈を並べて家に引きこもり、餓死してしまった。
生存の本質とは、腹が減ったら食い物を探すということだ。
ところが今は、腹が減ったら職を探すということになっている。
はじめに仕事ありき。

仕事がないと生きていけない、あるいは、生きていてはいけないと思いこんでいるのではないか。

高校の教科書で習う「羅生門」という小説は、飢え死にしないために、老婆から追いはぎをする下人の話だ。
飢え死にを避けるために仕方なくする悪は許されると老婆は説く。下人はそれを聞いて勇気を得て、皮肉にもその老婆から盗みを働くという筋だ。

つまり、生存というギリギリの問題に直面した時には、善も悪もなく、生存を選んでよいということだ。
だがしかし、そう一筋縄ではいかない。なぜなら、下人が生存を選ぶには老婆の理屈が必要だったからだ。
つまり、人は理屈で納得しないと生存という全ての前提さえ選べない生き物だということだ。

生存こそがすべてに優先されるはずなのに、その生存さえそれ相応の理屈を必要とする。
何という恐ろしいことだろうか。

「俺は生きていく資格がない」
「人間失格」
「生きる意味がない」
人はそういう理屈で死んでいく。

理屈、理屈、理屈。

理屈なんかいらない。
腹が減ったら食べたい。
食べるためには何でもする。
恥も外聞もない。
最低でいいじゃないか。
無様でみじめで馬鹿にされてもいいじゃないか。
皿洗いでも便所掃除でも何でもやりますから働かせてくださいと言えないか。
「助けて」と言えなくても、そういうことなら言えるのではないか。

それもかなわないなら、盗人になるしかない。

どうして盗人を選ばずにホームレスを選び餓死を選ぶのか。

ストーブの燃えている暖かな部屋で私はそんなことを考えている。