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2020年近況報告



父に学ぶ健康法 2020.11.5

世の中にはたくさんの健康法が喧伝されている。
たくさんの健康に良い食品も宣伝されている。
たとえば〇〇酵素など。
宣伝しているのはとても健康そうな俳優たち。
〇〇酵素を食べているから健康なのか、健康だからその宣伝に駆り出されたのか、判断ができない。
〇〇酵素を食べているから健康なのだとしたら、いつから食べているのか、食べなかったときはどんな状態だったのか(健康でなかったのか)、
そういう情報がないと判断できない。

ただひとつの判断材料が我が家にはある。
それは父だ。

父は今年93歳になるが、いたって健康だ。
その父は〇〇酵素など、体にいいと言われるものは一切とっていない。
むしろ、世間で推奨されているような健康法は全くやっていない。

たとえば、食い物に関しては偏食がはげしい。
牛乳は下痢になるからといって絶対に飲まない。
少しでも辛い物は苦手だといって食べない。キムチ鍋などや麻婆豆腐などは食べない。
たまごも下痢になるからといって食べない。
なんでも下痢になるようだ。

そして、好きなものはいくらでも食べる。
アイスクリームが大好きで、夏は寝る前に必ず一つ食べる。昼間はもちろん二つぐらい食べる。
若い時は甘いものが大好きで、あんこ類、羊羹などを食べまくっていた。

だから、結論としては、人それぞれだということ。
好きなものを食べて、特に健康に留意しなくても元気な人は元気だということ。長生きする人は長生きするということだ。
以上。

いまだ生を知らず、いづくんぞ死を知らん 2020.10.25

東京に住む兄から電話があり、今年はコロナの終息も無理そうだから、今年の帰省は遠慮したほうがいいのではないかという相談だった。
両親が元気ならとりあえず延期して様子を見たいということのようだ。

元気かと言われれば、元気と答えるしかない。
年々弱ってきているし、症状も進んでいるし、帯状疱疹などにかかったりして大変な時もあったが、
それでも元気だと言わざるを得ない。
ご飯も残さず食べているし、風呂も毎日入っているし、
自分でトイレにも行けるし。

でも、91歳の誕生日を迎えて、もういつ何があってもおかしくない歳であるのは確かだ。
一年に一回の帰省をとりやめるということは、二年合わないということになる。
それでいいのかどうかという問題だ。

万一、コロナをうつしてしまって両親にもしものことがあったら、後悔することになる。
そう言われたらもう何も言えない。

でも、逆に帰省しなかったために、別の病気や事故で親が亡くなってしまい、あのとき帰省しておけばよかったと後悔することにならないか。

とりあえず、父に相談してみる。
「今年は帰省をどうするかという電話なんだけど、どう思う」というと、父は、
「証明書を持っているんだろう」
「別々の部屋でビニール越しに会えばいい」
などという。

仕方なくそのまま伝えると、兄は当然のことながら、
「じゃあ、今年は見合わせることにするよ」と言った。

父にそう伝えると、
「冗談で言ったのに」
と言う。

本当にこれが自分の親なのかと思うと、がっかりしてしまう。
たとえ本当に冗談だとしても、冗談を言う時と場合がある。
このタイミングでいうべきことではないし、
実は冗談で言ったのではないことは、ふだん一緒に住んでいる私にはよくわかっている。

父はとにかく長生きしたいのだ。
死にたくないのだ。
だから、コロナにかかりたくないのだ。
現に、昨日、地元の企業でコロナ患者が5、6人つづけて発生したというニュースを聞いて、
「たいへんだ、たいへんだ。えらいことになった」と本気で心配していたのを知っている。
私が町内会の会議に出る時も、
「マスクを忘れるなよ」と本気で心配して言った。

正直にいえば、93歳まで生きたらもう、いつ死んでもいいという心構えや覚悟が出来ていてほしい。
自分は何のために生まれたのか、生きるとはどういうことか、
そういうことを正面から問い続けてきていれば、
「死にたくない」とか、「死ぬのが怖い」とか、そういう子供のような言葉は出てこないはずだ。

もちろん、答えなどない。正解などない。
だから、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」というところまで、どうやっても到達するはずなのだ。
ここまでくればもう、死の恐怖はない。
なぜなら、「死はわからない」からだ。どうやってもわからないのだから恐れる理由がない。
死ぬまでは生きている。
この単純な事実しかない。
だから、ただ今を生きるしかないのだ。死ぬまで生きるしかないのだ。
死ぬまで生きる。
そう覚悟したら、そこに「死」の入り込む余地はない。

なぜそんな単純なことがわからないのだろうか。

それは、本当に「死」と向き合って来なかったからだ。
そうとしか考えられない。

残念ながら、これが父の現実だ。

帰省の是非を問う兄に対して、ただこう言ってほしかった。
「私はもう十分生きてきた。いつ死んでもいいと思っている。コロナなど恐れるに足りない。いつでも帰ってきなさい。」と。

親父のいる風景 2020.9.5

今朝の食卓で。
テレビで、イワシは今が旬だと宣伝をしていたのを見て、
「おいしくても俺はイワシはだめだ。細かい骨があってたべられねえ」と親父が言った。
そのすぐ後でこう付け加えた。
「俺は猫舌だからな」

猫っていつから魚の骨が苦手になったのかとしばし考えた。

お盆の作法について2020.8.15

迎え火、送り火は祖先の霊が迷わないようにするために火をたくのだという。

どうでもいいけど、霊というのはそんなに幼子のようなたよりない存在なのでしょうか。自分の家がわからないほど意識がもうろうとしている存在なのでしょうか。百歩譲って、そうだとしても、この時期、あっちの家でもこっちの家でも迎え火をしているのに、どうやって自分の家を判別するのでしょうか。自分の子孫が焚く火と他人が焚く火を区別する能力があっても、自分の家を判別する能力はないというのはどうにも理解できません。霊を馬鹿にしているとしか思えないのは私だけでしょうか。

戦争を語り継ぐことの意味 2020.8.14

戦後75年ということで、テレビではさかんに戦争をどうやって語り継いでいくかと模索する試みがなされていることを報道している。

さて、戦争を語り継ぐ意味とは何か。

悲惨な戦争を二度と繰り返さないためだと言われる。

では、そのような悲惨な戦争を語り継いでいけば戦争は二度と繰り返されることはないのか。もしそのような効果を期待するなら、広島長崎の原爆や沖縄戦や東京大空襲など、日本の被害状況ばかりを流すのは明らかに偏っている。

中国では日本軍による被害映像を流し、アメリカでは日本軍による真珠湾奇襲の卑劣さと捕虜虐待の非道映像を流し、それぞれの国がそれぞれの被害だけを繰り返し語り継ぐことで本当に戦争は二度と繰り返されることはなくなるのか。

そういう偏った見方、自分の国だけしか見えない視野狭窄が戦争を導いたのではなかったのか。

それが一点。

もう一点は、その戦争の悲惨さを語り継ぐときの口調だ。「ありふれた平和な日常が一瞬にして奪われた」という根拠のない言葉だ。

広島に原爆を落とされた時、果たして日本に「ありふれた日常」などがあったのだろうか。東京大空襲があったときに、果たして東京に「平和な日常」などがあったのだろうか。いずれも戦争末期である。食うものもなく、着るものもなく、「欲しがりません勝つまでは」などと言っていた日常が「あたりまえの日常」だっただろうか。

ここに大きな倒錯がある。

今、コロナウイルスによってわかったことがある。

それは、ありふれた日常などというものはいつの時代もなかったのだということ。

毎日が奇跡だったということ。

今もこうして生きていることが奇跡だということ。

一瞬も永遠だということ。

だから、いつ死んでもいいように毎日を悔いなく生きていくことが大切だということ。

 

戦争も、大震災も、コロナも、すべてそのことを教えてくれている。

 

戦争は人災であり、人間の意志でなくすことができるが、震災は自然が相手だから人間の意志ではどうにもならないといって区別することはできない。

 

震災もコロナもつきつめれば人災であることに、もういいかげん気づいたほうがよい。

 

では、どうすればいいのか。

死の恐怖を克服すること。

これが私の今の時点での答えだ。

 

もちろん人間の欲望、エゴがもとになっていることは間違いないが、そのエゴの大本には死の恐怖が隠れている。

 

コロナ時代の「マスク警察」も死の恐怖がもとにある。

死の恐怖に襲われると(気づかないと)人はどんな残虐なこともやってのける。

だから、死の恐怖に気づきさえすればいいのだ。

気づきさえすれば克服は容易だ。

 

この平和な日常は奇跡であり、今自分はその奇跡を生きている。

これがたとえ一瞬であっても、この一瞬は永遠であり、一瞬でも奇跡を生きられたことに感謝できれば、死の恐怖を克服できる。

 

一歳で亡くなった命と、百歳まで生きた命と、そこに大きな違いはない。

奇跡を生きたという点で違いはないのだ。

それが腹の底から納得できれば、死の恐怖は克服できる。

長生きすることがそんなに大きな意味をもたなくなる。

 

私たちは常に永遠の一瞬を生きているのだ。そこに長短はない。

 

 

「老若男女」の読み方について 2020.7.23

大辞泉には、老人も若者も、男も女も含む、あらゆる人々。

この語の場合には「ろうじゃくだんじょ」とは読まない。

と書かれている。

 

自信たっぷりに書かれている。

1足す1は2ですよ。11じゃないですよ。というような上から目線で書かれている。この目線という熟語も「めせん」と読みますけど、本当は「視線(しせん)」が正しい言葉であり、「めせん」なんて言葉は間違いですよ。なんてことを、これまた自信たっぷりに言う人がいます。

 

これらの物言いはいったい何なんでしょうね。

国語の教師として、こういうことを平気で教えてきたのですけど、教えながら常に、「それがどうした」「だから何なんだ」「どうでもいいじゃないか」と心の中でつぶやいてきた。

言葉というやつは、すべて理由や根拠なんてありゃしない。

昔からそう読んできたからそう読む。

昔はそう読まなかったら間違いだ。

そういう言葉はなかったから間違いだ。

そう言っておしまい。

 

「ろうじゃくだんじょ」って読んだっていいじゃないですか。

どうしてだめなんですか。

という質問は即刻却下。

「だって昔から四字熟語のときだけ違う読み方だったんだから、だめなんです。」

って言われるだけで、ただ暗記させられるわけです。

 

たとえば、「ろうじゃくだんじょ」と読むと、意味が全く違ってしまうとかいうのならわかる。

しかし、「ろうじゃくだんじょ」と読んでも「ろうにゃくなんにょ」と読んでも意味は全然変わらないじゃないですか。

老は年寄り、若は若者、男はおとこ、女はおんな。

それなのに、どうして「ろうにゃくなんにょ」と読まなければいけないのですか。

誰もその疑問に答えてくれない。

 

漢字の元祖である中国には、「多音字」というのがあって、同じ「字」でもたくさんの読み方をもつものがある。

たとえば、「和」という字には四つの読み方があって、その発音の違いは意味の違いとなってはっきり分類されている。

これなら納得できます。音が違えば意味も違うんだから、しっかり区別して覚えようと思います。

 

でも、しつこく言いますけど、「老若男女」をなぜ「ろうにゃくなんにょ」と読まなければいけないのですか。「ろうじゃくだんじょ」と読んではいけないのですか。

 

このような無益なことを小学校から延々と学習させられるから落ちこぼれとか言われる人たちが出てしまうわけです。

逆に言えば、落ちこぼれをつくるために、わざとそういうどうでもいいことを覚えさせられるのです。

 

一部のエリートたちは、そんなどうでもいいことはどうでもいいままに平気で覚えてしまって、さっさと自分の好きな勉強に時間をさけるわけです。

 

どうでもいいことにひっかかってウロウロしている間に周りがどんどん進んでしまって、気づいたら「落ちこぼれ」とか言われてしまう子供たちもたくさんいるわけです。

 

もういいかげんやめたほうがいいですよね。

漢字の本家本元の中国が、難しい漢字を易しい漢字に直して教えているのに、日本はいつまでたっても難しい漢字を難しいままに教え、書き順だとかなんだとか、どうでもいいことに血道をあげている。

 

どうしても漢字を教える必要があるなら、現代中国語の発音も一緒に教えればいいと思う。

例えば「現代」は日本語で「げんだい」と発音する。中国語では「シエンダイ」と発音する。中国語には四つのアクセントがあるからそれも同時に教える。「現代」の意味は日本語も中国語もほぼ同じだから、ほんのちょっとの寄り道で中国語も一緒に覚えてしまう。これで、13億人の中国人と仲良くなれる。日本人は他の外国人と比べると、中国語を学ぶのにはものすごく有利なのです。

 

でも絶対これを言い出す人はいない。

日本はアメリカの同盟国?だから。アメリカの属国?だから。

英語は小学校から学ぶようになったけど、学校で中国語を教えようなんて言い出す人は誰もいない。

日本人は中国人が何となく嫌いだと思っているし、何となく馬鹿にしていたりする。これこそ洗脳ではないだろうか。

だって、漢字は中国の発明であることはまぎれもない事実です。

日本には文字がなかったから中国からいただいたわけです。

その漢字から、ひらがな、カタカナを発明したのは日本人ですけど、もとは漢字ですからね。それは認めないといけないですよ。

 

中国とは今やなくてはならない関係になっている。貿易総額では中国が圧倒的首位にある。政治体制はとりあえずカッコに入れておくというのが今の日本のスタンスでしょう。

それだったら、中国語を学ぶことはもっと奨励されていい。

仲良くなって、日本の自由、平和主義、民主主義のよさを伝えていけばいい。

 

話が脱線しすぎました。

私はただ、老若男女の読み方について言いたかっただけです。

ウイルスでも何も変わらない世界 2020.7.11
東日本大震災があり、地球温暖化による異常気象による台風や大雨洪水被害があり、今回のコロナウイルスがあり、
それでも世界は何も変わらない。変わろうとしない。
だが、絶望はしない。
世界の変化は一人の人間の変化の結果として現れるからだ。
たった一人でも変われば、その結果として必ず世界も変わる。
世界そのものの変化を求めることは間違っているのだ。
一人の人間の変化を求めればいいのだ。

ケン・ウィルバーの「インテグラル理論」にこう書かれている。

「「真の多様性「垂直的多様性」とはどういうことか

人間というものが、意識的な努力では容易に克服できない構造的な限界にとらわれた存在であることを認識するということ。

共同体とは、このように意識的な努力では克服できない認知的な限界にとらわれた多様な人間が共存している場といえます。

そして、垂直的な多様性を認識するとは、容易には共有できない多様な「光景」(世界観)を見ている多様な人間が共存していることを理解するということです。

それはとりもなおさず、真の意味で相互に分かり合うことのできない多様な人間が共存していることを認識するということに他なりません。

統合的な発想とは、そこのこを前提としながら、共同体が「重層的存在」という全体としてどう調和することができるのかを探究するものと言えます。

 

インテグラル・リーダーシップを実現する三つの基礎能力

@    組織の重層性を把握する

A    機動力を鍛錬する。「驚き」に自らの存在を開くことで、世界観を広げる。

B    それぞれがもつ叡智を紡ぐ。共同体を恣意的に変化させたり、進化させたりすることではなく、そこに重層的に存在しているそれぞれの行動論理が健全なものとなるように、条件を整えることなのだ。変化はそこに存在する無数の条件が積み重なることで、結果として生まれるものでしかない。

 

ナチス・ドイツの例を挙げて、「社会そのものが狂気に覆われたときには、そこに適応することは果たして善といえるのか」とう問いを立てることができる必要がある。

 

発達段階が高いことは必ずしも善ではない。」」

「変化はそこに存在する無数の条件が積み重なることで、結果として生まれるものでしかない」ということだ。
「この世界は、意識的な努力では克服できない認知的な限界にとらわれた多様な人間が共存している場」だと理解することが大切なのだ。

本当に日々試されているその42020.5.21
前回、ATMで理不尽な男に遭遇した話を書いた。
妻にその話をすると、妻もその近所で同じような理不尽な経験をしていることがわかった。
妻が国勢調査を依頼されて、1軒1軒書類をもって回っていた時のことだ。
庭で何かをしている男の人がいたので、「こんにちわ」とあいさつをすると、
「何がこんにちわだ。ふざけんな。ぶっ殺すぞ」と言われたというのだ。
妻は追いかけられそうになって急いで逃げ帰ったということだ。
どうもそれと同じ男ではないかと思われる。

その話を親父にすると、親父は、それはどこの家だ?場所はどこだと熱心に聞いてくるj。
場所を教えると、それは〇〇さんちだ。たぶん、〇〇さんの次男の息子に違いない。その親父さんは昔の国鉄に勤めていたんだ。・・・・。と延々とその人のルーツにさかのぼって説明を始めた。
途中で私はその話を遮った。
「お父さんは何で、その人の先祖の話になるんだい。今はそういうことを話しているんじゃなくて、その男がどうしてそういう対応をするかということを話しているんだ。
なぜ、挨拶をすると怒るのか。なぜATMで並んで待てないのか。「早くしろ。のろのろすんな」などと人に失礼なことを言うのか、
どうしてそのような人間になってしまったのか。何を考えて生きているのか。
そういうことを話しているのに、
お父さんはそういうことに興味がなくて、その男のルーツに興味があるのはどういうことなのか」と。

父はそれに対して明確な返答をしない。しないかわりに、
「その男はそれでどうした」と、話を合わせようとした。

それがまた滑稽で、私はさらに追及した。
「お父さんのその興味の持ち方はどういうことなのか、私にはわかりません。
うちに本物だか偽物だかわからない系図がありますけど、さかのぼるとうちは〇〇城の城主だったそうですけど、そういうルーツをたどって何が面白いんですか。
結局のところ、「〇〇城の城主だったとして、それでどうしたの?」という話でしょ?
「30代さかのぼると、日本人はみな親戚になるって話でしょ。だから、だれがだれと親戚だとか、そんなこと考えても意味ないでしょ」
と言ってみた。

親父は、「いや、うちの祖先は立派な人だったんだ」と言って、全く平行線のまま、この話は終わった。

どうしてこれほどまでに話がかみ合わないのか、同じ人間で、しかも親子という血のつながりがありながら、全く話が通じない。
これはこれで面白いことだが、血つまり肉と心つまり魂とは全く別の物であるということだろう。

今日はいろいろと勉強になる1日だった。

本当に日々試されているその3 2020.5.21
銀行のATMを操作していた時だ。
後ろからいきなり「早くしろよ。何のろのろしてんだ」という声が聞こえた。
一瞬自分に向けられた言葉とは理解できなかった。
しかし、もう一度同じ言葉が繰り返され、自分が言われていることに気づいた。
私はとっさに、「先にやりますか」と言って、操作を途中でやめてその男に譲った。
私は郵便局の中の椅子に座ってその男が終わるのを待った。
その間、男は何かぶつぶつ大きな声で文句を言いながらATMの操作をしていた。
切れ切れに聞こえるのはこんな言葉だった。
「まったく低能なやつを相手にするのはくたびれるぜ」
「どうせ何か計略を練って来たにちがいねえ」
などという言葉だった。
それは最初、私に向けられた言葉だと思った。だが、どう考えても譲ってやった俺のことを「低能」だとか「計略を練る」とかいうのはおかしい。
どうもATMに来る前に何かトラブルがあったらしい。
そういうことは後になって気づいたことだ。
その時は、正直、怒りと戸惑いと未知の生き物に遭遇した時のような恐怖を感じていた。
そして、本当はどうすべきだったのかを考えていた。
こんな奴のために譲ってやる必要はなかったのではないかとか、警察を呼んでやろうかとか、無視して操作を続ければよかったのだとか、
いろいろと考えていた。
例えば、とりあえず譲ってやってもいいが、そのまま男の後ろにぴったりくっついて、「遅いなまったく、早くしろよ。何のろのろしてんだ」と同じ言葉を大きな声で言ってやるのはどうだ。
そいつが文句を言ってきたら、「あなたが言ったのと同じ言葉を言っただけですよ。どんな気持ちがしますか?」と言い返してやる。
これはとても気持ちがよさそうだ。
だが、私はただ譲ってやっただけで何もできなかった。それがずっとストレスになり、家に帰っても憤りが収まらなかった。
本当はどうすればよかったのか。
考えてもわからなかった。
しかたなく、読みかけの本の続きを読んだ。
「奇跡のエンジェルコンタクト」という本だ。
日常的に守護天使が見えるという人の本だ。
そこにはこんな話が書かれていた。
ある少年は両親がいなくて路上生活を強いられていた。
少年は空腹と口渇にあえぐ日々を送っていた。
彼は、ある家に行き、「コップ一杯のミルクをもらえませんか」という言葉が言えず、「コップ一杯の水をもらえませんか」と頼んだ。
その家の女性は、「あなた、おなかがすいているように見えるけれど」と言って、一杯のミルクを持ってきてくれた。
その少年は思いがけずに受けた親切によって、生きる勇気を与えられた。
その出来事がきっかけとなり、見知らぬ人たちからの親切がたび重なるようになり、ついには教育を受けたいという夢まで叶った。
その後、ミルクを与えてくれた女性が癌になり手術を受けた。
手術は無事成功し、彼女の手に請求書が渡された。
「どうか手術費が高くなくて、家族が払える金額であるように」と祈りながら、恐る恐る請求書を開いてみると、こう書かれていた。
「コップ一杯のミルク代として、お支払いは不要です」「と。
その手術をした外科医はあの時の少年だったのだ。

私はこれを読んですべてを悟った。
ATMのあの男に対してどうすればよかったのか、すべてを悟った。
すべきだったのは復讐ではない。親切だったのだ。
私のやったことは間違っていない。だが、さらにもっとやるべき親切があったのではないかと考えた。
すべての人間は祝福されているはずだ。
すべての人間には守護天使がついているはずだ。
あの男にはそれが見えない。見えなくなっている。
あの男は完全な孤独にさいなまれている。周りの人間がすべて敵に見えているのだ。
あの男の心をほぐすのは並大抵ではないだろう。
だが、周りの人間の一人一人が優しく接していけば、いつか自分も孤独ではないと気づくだろう。
やるべきことは常に一つしかないのだ。
「いま、愛なら何をするだろうか」と問うことだ
私はすぐにそれを忘れてしまう。
そうして、ちょっとしたことですぐに「復讐だ。鎧を持て」と自分で自分を蔑んでしまう。
ATMであの男と出逢ったこと、
そして、そのすぐ後で、この本のエピソードに出逢ったこと。
これこそが、神の計らいだろう。
私は神の存在を信じる。
心洗われる出来事だった。


本当に日々試されている
その2 2020.3.25

コロナウイルスという名前も示唆的だ。
コロナ (Corona) とは、太陽の周りに見える自由電子の散乱光のこと。もしくは、太陽表面にあるもっとも外縁にある電気的に解離したガス層 。「太陽コロナ」との呼び方もある。 (コトバンクより)

これは太陽が関係しているらしい。
このコロナの出現によって、世界は一時的な休戦状態にある。
軍備拡張を唱える人々はいない。
軍備に金をつぎ込もうという人はいない。

コロナとの戦いに世界中が一致団結を強いられているからだ。
だが、「戦い」という言葉を使う限り、これは終わりになることはないだろう。
最終的には「共存」しかないのだ。
どのような異質なものであっても、「共存」するしかない。
それをこのウイルスは教えようとしているのだ。

本当に日々試されている 2020.2.29

東日本大震災につづき、このコロナウイルスの脅威。
本当に私たちは試されていると感じる。
一人ひとりが試されている。
どう生きるか。
何を選択し、どう動くか。
恐怖と不安にどう対処するか。
自分だけは助かりたいというエゴとどう向き合うか。

北朝鮮が不気味だ。
全く情報が入ってこない。

東日本大震災のときにも、目に見えない放射能という脅威にさらされた。
今回も目に見えないウイルスという脅威にさらされている。
全く同じ試練だ。
あの時も、福島の人々がバイ菌扱いされた。
今回は正真正銘のばい菌だ。

首相が小、中、高の一斉休業を指示した。
私はこの要請を是とする。
むしろ、東日本大震災のときにも同じように学校一斉休業すべきだったと思う。
停電続きで交通機関も麻痺し、ガソリンも供給されなかったのに、
なぜ休業もせず、同じ日常を続けさせたのか、今もって納得できない。

これは母なる地球からの明らかなメッセージなのだ。
学校などに行ってる場合ではない。
仕事などしている場合ではない。

だから、学校を休業にするだけでは全く無意味だ。
すべての仕事も大幅に縮小しなければならない。
そのとき、衣食住という最低限の営みがクローズアップされる。
その原点に戻る必要がある。

グレタさんが、学校を自主休業して地球のために行動を起こした勇気を称えたい。
本来なら、安倍首相に指示されなくても、自主的に休業すべきものだ。
学校など行かなくても、いくらでも好きな時に好きなだけ好きなことを学べる。
学校現場では、期末試験をどうするかとか、成績をどうやってつけるかとか、
本当につまらないことで悩んでいるようだが、
これは本当に貴重なチャンスなのだ。

人は何のために生きているのか。
本当に大切なことは何なのか。
自分は何のために生まれたのか。
自分のやりたいことは何なのか。
地球はいまどうなっているのか。
グローバルとはどういうことなのか。
こういうとき、人は何を考え、どう動くのか。世界の指導者はどう動くのか。
こんなに面白い教材はない。
自分の目で、耳で、体で感じる、生きた教材だ。

しかし、なぜこのウイルスは子どもにはあまりかからないのか。かかっても軽症で済むのか。
とても面白い。
2月11日の「中国疾病対策予防センター」の資料がネットに出ていたが、
0〜9歳のり患者416人(死亡0)
10〜19歳のり患者549人(死亡1)
となっている。

このウイルスがある選択基準をもっているようにも見える。
未来ある人間を生かし、未来のない人間を滅ぼすという選択基準。
高齢化社会を一気に解決する最終兵器なのか。

そうだとすると(そんなわけないが)、安倍首相の指示はとても的外れだということになる。
しかし、人生と真剣に向き合うすばらしいチャンスを作ってくれたことには間違いない。
その一点で私は安倍首相の決断に初めて賛同する。
空前である。
絶後かもしれない。

どうでもいいけど、頭にきた話 2020.2.15

一週間ほど前、近くのスーバーマーケットで店内改装のため、おもちゃが安売りしているので、見て回った。
すると、七割引きで5000円くらいの値札のついたプラモデルがあった。
七割引きで5000円は高いなあと思って箱を手に取り、いろいろ書いてあることを読んでみたがどうみてもこれは店の間違いだと思った。
箱は小さいし、中身はただのプラモデルである。リモコンだとかそういうメカがついているわけではない。
そうして決定的なのは、全く同じ大きさの箱で、同じシリーズの別のプラモデルが500円くらいの値札がついている。
つまりは、一桁間違っているのだ。
これはやはり見過ごせないと思った。
明らかに店のミスだが、取りようによっては詐欺のようにも受け取れる。
500円のものを5000円で売っているのは詐欺だろう。
そこで、近くにいる店員に指摘した。
するとどうだろう。
私の言うことを信じなていないようなのだ。
「だって、同じシリーズが500円ですぐ隣に売ってますよ」と教えた。
それでも、釈然としないようで、何も言わないので私はその場を離れた。

そして、今日、同じスーパーに行ったので、あのプラモデルを見に行ったら、
なんと、あのときの5000円の値札がそのままついているではないか。

この店はどうしようもないと思った。
社員教育がまったくなっていない。
たぶん、私の言葉をただのクレームとでも思ったのだろう。
原価を確かめることさえしていないのだ。

私は頭にきて、店長を探したが、いきなり店長も大人げないので、
サービスカウンターへ同じことを訴えた。
サービスカウンターの女性は一応低姿勢で、すぐ担当者に連絡すると言ったが、
どうもあてにならないと思った。

腹の虫がおさまらないので、このページに写真を掲載することにした。
でも、店の名前を出すのはやはりかわいそうなので、ただ商品の値札だけ掲載する。

「枕草子」に「思うこと言はぬは腹ふくるるわざ」というような言葉があったと思う。
そういうときは、地面に穴を掘って、その穴に向かって言いたいことを言って、穴を埋めるのだという。

それにならって、現代はこのインターネットがストレス解消の「穴」になってくれることを願う。


下が間違って貼られていた値札の写真。バンダイのプラモデルで、ピカちんロボ お掃除カラスのデューク&迷探偵アルマジロのシャーロックセット (プラモデル)税込み2200円でネットでは売られている。
値札には、70%割引で、「5334円」と書かれている。


今年の目標 2020.1.9

@短波放送の中国語が聞き取れるようになる。
Aあらゆる電波をキャッチするアンテナを設置する。
(あらゆる波動をキャッチする松果体を活性化する)
Bあらゆる電波はキャッチする受信機を自作する。
C常に意識的に生き、無意識な状態を排除して生きる。
(食事中にうっかり舌を噛んで口内炎になったりすることから、相手を傷つける言葉をうっかりもらすことまで、あらゆる無意識な行動をなくしていく)
D自然と対話する生活をこころがける。
(自然災害の意味を探り、災害とも共生する。害虫との共生。豊かな土づくりなど)
E地域貢献
(地域行事でのボランティア)(地域環境整備ボランティア)
Fあらゆる出会いに感謝し、心からのコミュニケーションを心がける。
Gあらゆる出来事に感謝し、魂を磨く契機とする。
H是を是とし、非を非とする社会の実現。
(目的のために手段を選ぶ)