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2021年近況報告



保険嫌いの論理完全版の追加  2021.11.20

 

完全版を出した後に追加するのは矛盾しているが、それを承知でその後わかったことを記す。

私が保険を嫌う理由を簡単におさらいする。

まず、保険とは「悪いこと(病気や死亡)など」が起こることを想定して、そうなったときのためにお金を拠出しておくことだと理解する。つまり、「悪いことが起こる」方に掛け金を賭けるということだ。まずこの原点が私には理解できない。

私は「悪いことがおこる」方には賭けない。賭けるなら「悪ことなど起こらない。良いことしか起こらない」という方へ賭ける。

 そして、このことは実はこの世のすべてに当てはまることに気づいた。

たとえば軍事費。

これは「悪いこと(敵国が攻めてくる、アメリカの戦争に巻き込まれるなど)」が起きることを想定して、そうなったときのためにお金を賭け、軍隊を持ち、軍備を増強する。

私が保険を嫌う理由はつまりそういうことなのだ。私は戦争が起こる方に掛け金を賭けたくはない。起こらない方に賭けたい。とすれば、軍事費ではなく、援助や友好に金を賭ける。

災害も根本では同じと考える。

災害を想定して、できる範囲で対策を考えておくのは当然のことだ。家がぐらぐらしていたら暮らせないし、山が崩れそうだったら安心して暮らせない。だが、災害というのはそういう想定したことを超えたところに起こるものだ。想定していたことが起こったときにはそれは災害とは言わない。人災という。

 

スピリチュアル的な考え方によれば、人生はすべて想定内の出来事で成り立っている。生まれる前に自分が全ての出来事を想定して生まれてくる。だが人はそれを覚えていないから災害や事故に遭えば、人を恨み、天を怨む。その想定外(と思える)出来事にどう対処するかがその人の人生というものだ。人生の価値はそこにある。それは保険で解決できるものではないし、保険で解決してはいけないことなのだ。すべて自分が引き受けて解決しなければいけないことなのだ。それこそが人生の意味だ。たとえば、障害をもって生まれてきたときのことを考えてみればわかる。それは保険でどうすることもできない。それを自分と家族と社会とが引き受けて生きていくしかない。

 

災害も同じことだ。

想定外の出来事で死ぬならそれは運命だ。それに備えることなどできない。負傷するならそれも運命だ。それを引き受けてどうやって生きるかが問われている。

 

ものすごく単純化してしまえば、人は今を精一杯生きるだけでいいのだ。

今を生きるということは当然未来を生きるということだ。過去を生きることではない。もちろん今という時の中には過去も含まれている。しかし我々が過去というときそれはもう終わったことで変えることのできないものとしてとらえている。そういう意味なら我々は過去を生きる必要はない。変えられない過去にとらわれて生きるのは愚かなことだ。

そうではなくて、たぶん過去は変えられる。今の生き方によって過去も未来も変えられるのだ。変えられるという意味では過去も未来となるのだ。

 

我々は今を生きることでたえず未来を創造している。

とすれば、悪い未来を想定してそれに賭けるのは愚かなことだ。

幸せな未来、平和な未来に賭けようではないか。

 

それが私の保険嫌いの論理である。

 

自転車保険全員加入義務化は何のためか 2021.4.14

私は基本的に保険が嫌いである。
それは「保健嫌いの論理完全版」を読んでいただければわかっていただけると思います。
その上で、今回の自転車保険加入義務化について考えてみたい。
そもそも義務化は何のためなのか。
法律を作った人の言い分は、
最近、自転車事故が増えてきていて、しかも、加害者になった場合の賠償金も高額化してきているからだという。
こういう議論のときは、まず自転車事故が何年前と比べてどれくらい増えているかという数字をしっかり出してもらいたい。
自分で調べればいいというかもしれないが、法律を作った以上、こちらが調べる前にきちん数字をだしてもらいたい。
それがひとつ。
つぎに賠償金が高額化しているから保険加入してもらうという論理がよくわからない。
そもそも、自転車事故を減らしたいというのが一番の目的でなければならないのに、
減らす方法を議論する前に、賠償金の問題を持ち出す意味がわからない。
自転車事故が増えた原因を取り除くのがまず一番最初にやるべきことではないのか。
自転車の台数が増えたのか、道路事情に問題があるのか、運転が乱暴になったのか、
何が原因なのかしっかり分析してもらいたい。
その前に保険加入を義務化するという意味がわからない。

一千万歩譲って保険加入したとして、それで自転車事故が減るのか。
私は減らないと思う。
保険に加入したら運転が慎重になるという理屈は成り立たないと思います。

じゃあ、なぜ保険加入なのか。
それは、万一事故に遭っても保険金が下りるから安心ですということらしい。
誰が安心するのか。
事故を起こしてしまった加害者が安心するのでしょうか。
高額賠償金が発生しても、保険で払えるから安心だというのでしょうか。
それなら、よけい事故が起こるのではないでしょうか。
だって、事故が起こっても保険があるから大丈夫だからスピード出しても大丈夫という理屈になるから。

いや、加害者が安心なのではなく、被害者が安心なのでしょうか。
働き盛りのお父さんが自転車事故で死んでも保険金が下りるから、家族は路頭に迷うことはない、ということでしょうか。

では、働き盛りのお父さんお母さんが自転車事故で亡くなったというケースはいったいどれくらいあるのでしょうか。
その統計数値を出してほしい。

いや、そういうことじゃない。働き盛りであろうが、高齢者であろうが、人の命に変わりはない。
とにかく人が傷ついたり亡くなったりするという悲惨なことに対する対価を払うことで、加害者は自己に対する責任を自覚し、
被害者は治療費や悲しみに対する慰謝料を得ることで少しでも悲しみや苦労を少なくすることができるということでしょうか。

でも、私は、加害者が事故に対する責任を自覚するには、保険で金を支払うのではなく、自分で稼いだ金で支払うのでなければならないと思います。
また、加害者の悲しみは絶対にお金では解消できないと思います。

だから、つまり、とにかく、自転車事故が多くなっているのなら、事故を減らす対策が急務だということです。
その議論をせずに、保険加入の義務化は意味がありません。

むしろ、先ほど述べたように、加害者は安心して無謀運転するようになります。
以上。

かわいそうという言葉 2021.3.16

今日は、母のデイサービスの日。
父はひとりで自分のやりたいことをのびのびと気持ちよく一日中没頭している。
何でもいいのだ。プラモデルをつくるのでもいいし、グランドゴルフの練習でもいいし、仏像を彫るのでもいいし、
とにかく、何かに没頭していないといられない質なのだ。
それは本当に感嘆に値する。
今日はずっと昔に壊れたままだった鳩時計を直している。
93歳とは思えない集中力と根気で、何の資料を見るわけでもなく、本当に試行錯誤で自分の頭だけで仕組みを理解し直していくのだ。

そんなすごい能力の持ち主の親父が、こと人間理解となると小学生レベル。
いや、それは小学生に申し訳ない。
たぶんこの人間理解というものは、年齢にほとんど関係ないのだろう。

それは食卓で表れる。
まずは認知症でデイサービスに通っている母に対する理解が全くないことが表れる。
エビチリの皿にスプーンが添えられていて、母はたぶん父にそのスプーンのあるほうをやろうとして、皿を回転させていた。
すると、父は「何やってんだ。皿なんか回すんじゃない。いじるな。」と怒鳴った。
母はそれを聞いて、黙って抵抗して、皿をぞんざいに元に戻した。
ものすごく嫌な雰囲気に包まれるが、父はその雰囲気に気づきもしない。

さらに、世間話の中で、裏に住むお年寄りの女性が我が家の前を行ったり来たりしていたことを話題にして、
何であんなにのろのろ歩いているんだろうなあ。うちのばあさんと同じだなあ」とのたもう。

それを聞いているうちについに俺が切れた。我慢できなくなった。
「お父さんはもっと思いやりをもって人を理解したほうがいいよ。
裏の人は階段から落ちて腰を痛めて、今リハビリのために歩いているんだよ。
しばらくは庭で歩く練習をしていたけど、庭を行ったり来たりしても狭いしつまらないから道に出たんだと思うよ。」
「そうか。かわいそうなんだな」というから、

「かわいそうという言葉は思い上がりだ。
人は誰に対してもかわいそうなんて思うべきじゃない。病気の人に対しても障害のある人に対しても
かわいそうなんて思うのは失礼だ。
それがわかんないからいつまでも死ねないんだよ。」
とひどいことを言ってしまった。

私こそが思いやりのない、人間理解のできていない小学生レベルだった。

私は人がこの世に生まれてくる理由は、人間理解を深めるためだと思っている。
いろんな事件、いろんな人間に出会い、経験を積み、人間への理解を深め、思いやりをもった人間になれたとき人は死ねるのだと勝手に思っている。
だから父にあんな失礼なことを言ってしまったのだが、
俺もまだまだどうしようもない人間だと思った。

まだまだ死ねないのかなと思った。
もっと修行します。

刷り込まれた常識の壁 2021.2.21

前回に引き続き、常識についての話である。

森さんが女性蔑視する発言をして五輪組織委員会の委員長辞任に追い込まれた。
森さんは最後まで、たぶん今も、自分の発言のどこが悪かったのかわからないでいる。

刷り込まれた常識というのはそれくらい強いのだ。
だからこそ常識と呼ぶ。
そんなの常識でしょ。と言われることで、だれもが何も言えなくなる。
理屈ではない。
昔からそうやってきたのだから黙って従えというのが常識というものである。
男というものは・・・
女というものは・・・

そうやって続いてきたものを壊すのが理性の力だ。
この常識はおかしいのではないか。
だから、こう直しましょう。
そうやって一歩ずつ進歩してきたのだと思う。

男女の平等もその一つ。
しかし、平等の内容を誤解している人も多い。
なんでも同じにすることが平等だと思っている人も多い。
女にも力仕事をさせろとか、
男も育児しろとか、
すぐそういう発言になる。

そうではなくて、平等とはあくまで機会の平等(チャンスの平等)である。
女もやりたければ力仕事もできますよ。
男もやりたければ育児をどんどんやってください。
そういう話だ。

筋力が弱い女性に無理やり男と同じに力仕事をやらせることではない。
母乳の出ない男にむりやりおっぱいを出せということではない。

基本的には男女平等ではなく、個性の尊重という言葉に行きつく。

男女という言葉をつかった時点で、すでに男女の区別をしてしまっているからだ。

個性尊重といえば、そこに男女の区別はない。一人一人の区別しかない。

橋本聖子さんが委員長に就任したニュースを聞いた親父がつぶやいた。
「橋本さんもこれから大変だね。男のやってきたことを女がやっていかなきゃならないんだからね。」と。

親父は93歳になる。
もはや、刷り込まれた常識の壁を超えることは不可能だと思った。

あけましておめでとうございます。 2020.1.2

さて、コロナウイルスは果たして今年中に終息するのでしょうか。
それとも、人口の六割以上が感染し、集団免疫ができるまで終息することはないのでしょうか。
ワクチンを打つことも感染のうちに入れるとしたら、それも集団免疫による終息の中にはいるのでしょうか。

とても恐ろしいことが世界中で起こっているようにも思えるし、とてもスリリングな体験をしているようにも思える。
一つだけ気づいたことは、この感染症が流行る数年前から、人前では常にマスクをとらない人が増えていたことです。
卒業式とかの儀式ではマスクをとるようにと学校では指導していました。
なぜマスクをとらなかったかといえば、もちろん風邪をひいていたからではなく、寒いからでもなく、
人前に素顔をさらしたくないという理由が多かった。
昼間の学校よりも夜の定時制などではよけいにその傾向があった。
やはり、定時制に来る生徒にはいじめられたり、ストレスが多かったり、家庭の事情で虐待にあったり、不登校であったりする生徒が多かったから、
自分に自信がなくて、人前に出られないような精神的に弱い生徒がマスクを常用する傾向にあった。

それが、今回のコロナウイルスの流行によって、一挙に逆転したところが面白い。
今や、マスクをすることが当たり前で、人前でマスクをしていないと非難されるという逆転現象。
さらには、なるべく家から外へ出るなという。
引きこもり、不登校が奨励される。

こうした事態に直面して、痛快な思いをしている人間は多いのではないだろうか。

時代が変われば常識も変わる。
人はその時の常識で自分を評価しがちであるが、常識よりも自分の感覚を信じるべきだ。
自分がどうしても無理だと思うなら、その無理を通せばいいのだ。
そのうちその無理が常識になることもある。