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2023年近況報告



「精神世界3.0」を読む  2023.11.29

江原啓之 「人生からそういう英才教育を受けた気がする。まさにそれを体験するようにあちらから仕組まれてた。そんな感じ。小学校の時のことだけど、席替えに対して、賛成派、反対派で言い合いになった。私が最後のひとりになった。固執したわけではないけど、一応反対の側。でもまあ、なんだか言い争うのがめんどうになって、それなら椅子を動かそうかなと思ったとき、担任の先生が私の肩に手を置いて動けないようにした。そして、「最後の一人になっても、自分自身がこうだと思うことを貫きなさい」と言われたの。そんなこと小学一年の子に言う?
変な話だけど、今の人生に起きることって全部それに似たことなの。そういう風に人に出会わされて、教育を受けていた気がする。」

これを読んで思い出したことは、私がやはり小学生だったころのこと。
いろいろあって、不眠症になって、夜が怖くなって、母に泣きついたときのこと。
「お母ちゃんだって勤めに行ってて明日も早く起きなくちゃならないんだから。夜中に起こされたらお母ちゃんも寝られなくなっちゃうじゃないか。
眠れないなら本でも読んでいな」と言われたのだった。

その時から私は母に甘えることをきっぱりとやめた。
自分は自分。親は親。全く別の人格なのだと理解した。
その時は何と非情な母親だろうと思ったが、母は私を自立させてくれたのだと今では思っている。
母の無意識に言った言葉が私を教育してくれた。江原さんと同じように、まさにそういう風に人に出会わされて教育を受けていた気がする。

またこれも小学校低学年のときのこと。
作文で担任の先生について書くことがあって、「先生はとても厳しい先生だけどいい先生だと母が言っていたので、先生にほめられるような生徒になりたい」と書いたことがある。
その時のその担任の反応はこうだった。「先生にほめられるようになりたいなどと考えてはいけない。誰かに気に入られるとか、誰かにほめられるとか、誰かのためではなく、自分のために何でもがんばるんだよ」と。
その時も私は先生のことをとても冷たい人だと思ったが、今になって思うとそれはとても大事な教えであったと思う。
小学校の時にはわからなかったが、それは今もずっと生きている教えだ。
人に依存せず、人の評価を気にせず、自分のものさしで常に物事を判断して生きていこうと決めたのだ。


ジャニーズ問題とビッグモーター問題 2023.9.20

ジャニーズのタレントは被害者で何もわるくないのだから、いろいろな企業がジャニーズタレントを起用しないのはおかしいという議論がある。
一方で、ビッグモーターの従業員は上からの命令でやらされていた被害者だから、ビッグモーターの社員を救うためにビッグモーターを利用しようという議論はない。
ジャニーズとビッグモーターとは全く違うのだろうか。
ジャニーズのタレントは従業員とは違うのだろうか。
契約書を取り交わして雇用されているという意味では同じではないだろうか。
ジャニーズのタレントがかわいそうだというなら、ビッグモーターの従業員もかわいそうだと思う。
でもそういう声はほとんど聞こえてこない。
私はそこに違和感をおぼえる。

ビッグモーターの従業員は上からの厳しいノルマに責められて不正を行ってしまった。
ジャニーズのタレントはジャニーさんというカリスマに洗脳されてあるいは判断能力を奪われて虐待を受け入れてしまったり、見て見ぬふりをしてしまった。
今、世の中の流れとしてはいじめを見て見ぬふりをするのもいじめと同罪だという考えになってきている。
ほとんどのジャニーズタレントたちは噂としては知っていたが何もできなかったと言っている。
噂としては知っていたというのは事実として知っていたのとどのように違うだろうか。
噂として知っていたのは知らなかったのとほぼ同じと考えているようだが、はたしてどうだろうか。
噂といっても実名はすでにフォーリーブスの時代から伝わっている。
実名が出ている以上、噂ですますことはできないだろう。
つまりこれは見て見ぬふりの典型的な例だと考えられる。

しかも、ジャニーズの再生に指名されたのは東山何某というジャニーズのタレントである。
被害者ではない。
見て見ぬふりをした完璧な加害者である。

もうそろそろタレントとかスターとか騒ぐのはやめたらどうだろうか。
私の尊敬する人は宮澤賢治と中島みゆきと内田樹と、、、
たくさんいるけれども、すべて作品を通して出会い、作品を通して生き方を学んだ人である。
やはり作品がすべてだ。その人と会う必要など全く感じない。

COVID-19(コロナ)感染報告 2023.1.17

昨年12月13日に妻が発熱。もしかしたら・・というので近くの個人医院に電話して状況を伝える。車で待機してくださいというので、車で待つこと30分くらいで医師と看護師が防護服を来て登場。
車の窓をあけて顔を出すと綿棒を鼻に差し込み検体を採取し五分ほど待つ。結果は陽性。濃厚接触者となった私は熱はなかったのだが鼻水や痰が出ていたのでついでに検査を受ける。
するとやはり陽性が出て、そのまま自宅待機、自宅療養となる。検査代治療代など無料だという。薬は薬局から自宅に届けられた。これも無料。六十歳以上は支援センターの対象者ということで連絡がきていろいろ聞かれる。私もいつの間にか発熱。午後には三十八度になっていた。
要介護4の母がいるのでケアマネジャーにすぐ電話する。デイサービスも出禁となる。このへんは非情である。助けがほしいときに「来るな」と言われる。ほぼ寝たきり状態だから世話をするのは感染した家族しかない。母に感染するのを防ぎようがないだろうと推測する。
95歳になる父はそんな状況を把握せず、のんきに帽子をかぶってきてグランドゴルフに出かけるという。濃厚接触者なんだから絶対ダメだと言い聞かせて止めた。

翌日、案の定親父も発熱。母も発熱したが数時間後に下がる。昨日かかった医者が往診してくれるという。地獄に仏。検査すると親父は陽性。母は陰性。本当だろうか。
それから五日間はもらった薬を飲み続ける。母の介護をする。
五日目が終わるころ、母の症状が悪化する。熱はないがほとんど食事がとれなくなる。のどに痰がからんでゼロゼロしてつらそうになる。
口に食べ物を入れるとそのまま口の中にある。飲み込めない。仕方なく全部口からかき出して口の中をゆすぐ。
そんなことを繰り返す。その症状を件の医者に伝えると、再び往診してくれるという。地獄に菩薩。
だが、往診予定の時間前に母の様子が悪化。あまりにゼロゼロがひどくなり反応もないので救急車を呼ぶ。
コロナ感染の疑い濃厚ということで救急隊員は完全防護。到着までに20分ほどかかる。到着してから搬送先が決まるまでさらに30分ほどかかる。
どこも病床がいっぱいだという。もしかしたら県外になるという。しかし一番近い総合病院が受け入れてくれるという。たいへんラッキーだった。
病院到着後すぐ検査して、コロナ陽性と判明。他に誤嚥性肺炎を併発。その治療も同時に行うという。

長生きする人の考え方 2023.3.13

先日、歯を磨いていたら、右上の差し歯がそっくりぽろっと落ちた。
何だか一気に年を取った気がした。
COVID19のせいで歯医者にも四年近くご無沙汰しているから、そろそろかという予感もあった。
さっそく予約して茶の間でその話題になると、うちの95歳になる親父が言ったのだった。
「なんだ、まだ歯医者なんぞに行くのか、まったくしょうがないな。俺なんぞは60歳前に総入れ歯だぞ。以来歯医者なんぞ行ったことがない。総入れ歯はいいぞ」
長生きする人の考え方はこういうことなのだと感心したのであった。

また今日の夕食時の話題は「大江なんとかいう作家が死んだぞ。それと扇千景が死んだぞ」と、死んだ人を数えることと、
「近所の佐藤さん知ってるだろ?あの人が脳溢血で入院してからもうどんどん悪くなっているそうだ」と、病気の人を数えること。
自分はまだ元気であることをそうやって確認しているようなのだった。

そこで私はいつものようについ口を出したくなる。
「お父さんは大江健三郎という人の小説を読んだことあるんかい」
すると親父は、「あるさ」と答える。
「何を読んだの」と聞くと、「まあ読んだことはないけど」と答えた。

私は正直言って、誰が死んだとか誰が病気だとか、全く興味がない。
私の尊敬する人が亡くなったときには、確かに、その人から新しい言葉を聞くことが出来ないということ、同じ次元にいないということにとまどいを感じた。
しかし、人が死ぬということ自体にそれほどの感慨はない。
講演を一度直に聞きに行ったことがあり、本当に同じ次元に生きているのだなあと実感したことはあるが、
それはたった一度だけであり、あとはその人の本を読むことでしかつながりはない。
そういう意味ではその人が現実に生きていることと死んでいることにそれほどの違いはないのだ。
また、本当に尊敬する人は私が生まれたときにはすでに死んでいた。
私はその人の書いたものだけを読み、その作品をこよなく愛し、こよなく尊敬し、その人のように生きたいと思った。
そういうことだ。
生きているか死んでいるかは問題じゃない。
だから誰が病気だとか、死にそうだとか、死んだとか、どうでもいいことだ。
ましてや、読んでもいない作家の死を話題にする意味がわからないのだ。