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2025年近況報告



トランプ大統領が登場した意味がわかった。 2025.4.11

トランプ関税が発動するたびに株が乱高下する。
私も株をやっているので、そのたびに一喜一憂させられた。
しかし、そのうちにこれはおかしいと気づかされた。
この一喜一憂はあまりに愚かなことだと気づかされた。

トランプ大統領も自分が何のために大統領になったのかたぶん知らないのだと思う。
こうやって彼の一挙手一投足が世界中の人間を毎日一喜一憂させているが、
それこそが彼のこの世での役割なのだ。
つまり、人々は次第に私のように気づいていくのだ。
これはバカバカしい、あまりにくだらない一喜一憂だと。

そう気づいた後に人はどこへ向かうか。
それは「色即是空」の境地へ向かうしかない。
この世の真実はすべて「空」であるという悟りへ向かうしかない。
私は心の底から納得した。
「色即是空」の意味がやっとわかり、株がどのように乱高下しても何も感じなくなった。

今、この瞬間にも私と同様に感じている人が世界中に1人また1人と増えているはずだ。

これこそがトランプ大統領の登場の意味である。

陰謀論でも何でもよい。彼の役割はここにこそある。

彼自身も自分で何をやっているのか知らないのだと思う。彼の行動はほとんど無意識の行動である。

それこそつまり「お釈迦様の手のひらの上で踊っている」のだ。

我々はそれを見て悟りへと向かう。その悟りへ向かう人が増えていけば、まもなくこの世は次元上昇していく。

そういうシナリオだったのだ。

オカルト研究の「釈迦が語る宇宙の始まり」へとここでつながるのである。詳細はそちらへ。

防災について 2025.4.8

あと数年のうちに必ず来ると言われる南海トラフ地震。
その災害での被害想定もされている。
そういう想定を知って人はどうすればいいのか。
ほとんどの人は防災のための準備をすればいいと考える。
防災グッズを用意したり、食料を備蓄したり、避難経路を考えたりすればいいと考える。
しかし私はそうしたこと全てに否定的である。
人が病気になるのも、災害に遭うのもすべてに意味があると考えるからである。
その意味とは何か。それはそのことにどう対処するかという自分の選択、決断にその意味が現れるのだと考える。
不幸にも逃げ遅れて亡くなったとしてもその時のその行動決断にその人の人生の意味がある。
死んだからかわいそうだとか、よく備えていなかったから死んだのだとか、
逆に生き残ったのは防災意識が高かったからだとか、よく準備していたからだとか、
そんな評価に意味があるだろうか。

あの東日本大震災では本当にたくさんの犠牲者が出た。
たくさんの犠牲者が出たからこそ大震災なのであり、生き残った我々は今までの生き方を顧みて本当に自分の魂に添った生き方を選び直し生きなおしたのではなかったか。
一人や二人の犠牲者だったら魂から問い直すことはなかっただろう。
災害にはそういう意味がある。
犠牲者にはそういう役割がある。

人生は長い短いは関係ない。
永遠の一瞬というものがあるように、
一瞬の人生にも永遠があるのだ。

だからといってもちろんわざわざ津波の起こる海岸へ逃げることを選ぶ必要はないだろう。
そういうことではなくて、
想定内の出来事は災害とは言わないのだ。
想定外の出来事を災害という。

ということはつまり、
想定内のことが起こったのなら何をしてもしなくても助かるものは助かるだろう。
想定外のことが起こったら何をしてもしなくて助かるものは助かり、助からないものは助からないだろうというだけだ。

災害が起こった時、自分がどこにいるか、何をしているか、
そんなことは想定しようがない。
電車に乗っているかもしれないし、便所に入っているかもしれないし、買い物をしているかもしれない。
それら全てを想定して、電車に乗っているときにはこうしようとか、便所にいるときにはこうしようとか、一つひとつ全部想定するのは不可能だし、意味があるとは思えない。

自治体が災害時を想定して何かをするのは問題ないが、
個人が災害時を想定して何かをするのは意味がないと考える。

あの東日本大震災のとき、大川小学校の犠牲者についてたくさんのことが言われ、たくさんの教訓が導かれた。
こうすればよかったのにとか、ああすればよかったとか、
それは結局死者に鞭打つことでしかない。

想定外のことが起こったのだから想定外の行動をとったとしてもそれは仕方のないことだ。
わざわざ検証して死者を冒とくすることはない。
死すべき運命だったのだ。
生き残った我々のために犠牲になったのだ。

逆にいえば、生き残ったからといって神に助けられたわけでもない。
まだ何も成し遂げていないから生き残ったに過ぎない。


トランプ大統領の時代

なかなか面白い時代になったと思う。
トランプさんが選ばれた理由は、たぶん人々の本音を代弁しているからだと思う。
我々は育っていく過程で、本音と建て前をうまくコントロールしながら生きるように教育されてきている。
動物一般と人間との違いはそこにある。
理想と現実のハザマに生きることと言い換えてもいい。
それは二元論の罠に陥らないための知恵だったのだと思う。
トランプさんはたぶん文学芸術の類に価値を置かない人だと思う。
文学芸術の価値はまさしくそこ、二元論のハザマにあるからだ。
民主主義の意義は少数意見の尊重だと習った。
多数派が多数派の意見をそのまま実行するのではなく、多数派が少数派を尊重して忖度して制度設計する。
そこにこそ民主主義の価値があると習ったはずだ。
トランプさんはたぶんそういう教育を受けてきていない。
もちろん、そう習った上であえて本音民主主義とでもいうものを構築しようとしている可能性はある。
しかしそれはもう民主主義ではない。

私の知る陰謀論者は大統領選のずっと前からトランプさんが大統領になるのは決まっていると言っていた。
というよりも、バイデン大統領の時代から実はもうトランプさんが本当の大統領だと言っていた。
すでにトランプさんが大統領だという意味が私には理解できなかったが、どうもそういうことらしい。
表の世界と裏の世界は違うらしい。
よくわからないが、裏の世界ではもう次の準備ができていて、そこではトランプさんが大統領になっているということのようだ。
真冬に梅の木の花の芽がすでに用意されているようなものらしい。
その陰謀論者によれば、トランプさんが大統領になったことで地球はもう救われたということらしい。

私が陰謀論者に対して違和感を覚えるのをその点だ。
そもそも陰謀論というのは、世の中の出来事をすべて何ものかの陰謀だと考えることだ。
例えばある戦争はユダヤ人の陰謀だとか、カリフォルニアの火事はグローバリストの陰謀だとか、
非常に単純に誰かのせいにする。
逆に言えば、世界は簡単に誰かによって動かせるということだ。
だからトランプさんが大統領になればもう世界は大丈夫ということになる。

つまりそこには自分が世界の一員として責任を持とうという意識がない。
私が違和感を持つのはそこだ。

私は、世界が今このような状態にあるのは、自分の責任でもあると考える。
自分の意志が反映していると考える。
誰か一部の人間が動かしているとは考えない。
動かしているとしてもその人間にそのような権限や富を与えたのは自分の責任でもあると考える。
まあ責任があるかどうかもそれほど関係はない。
要は、この世界にあり様について、誰のせいにもせず、従容として引き受ける覚悟があるかどうかということだ。
責任はなくても私は引き受ける覚悟があるということだ。

それにしても、たった一人の大統領が大統領令を連発してこの世界をいいようにいじくりまわしているのは気分が悪い。
議会など何の価値もなくなっている。
このような制度に激しい憤りを感じる。
日本の首相のように何かやりたくても野党や与党の対抗勢力に妨げられて出来ないという状況のほうがましだと思う。

もう一度まとめると、
陰謀論とは世の中のあり様を誰かのせいにすることであり、
逆に言うと自分では何も責任をとらないということであり。
その誰かが英雄に変われば世界はよくなるという考えである。

私は一人の大統領にこのような権限を与える制度はよくないと考える。
そして世界が進歩すればこのような制度はなくなると考える。
かつての長老制度のように少なくとも十人程度の長老たちによる合議によって決められるべきだ。
いわゆる議会とは別に行政府として長老制度があるのがよい。

橘玲さんは、このトランプ現象について、著書「もっと言ってはいけない」の中でこう述べている。
「トランプ現象があきらかにしたのは、ほとんどのひとは、「事実(ファクト)」など求めていないということだ。右か左かにかかわらず、ひとびとは読みたいものだけをネットで探し、自分たちを「善」、気に入らない相手に「悪」のレッテルを貼って、善悪二元論の物語を声高に語る。ヒトの脳は部族対立に最適化するよう「設計」されており、直感的にそれ以外の方法で世界を理解できない。
これは進化によってつくられた脳の「プログラム」なので、すくなくとも今世紀中は、いやおそらく30世紀になっても変わらないだろう。私たちは、ずっとこの不愉快な世界で生きていくほかはない。」と。

本当にそう思う。
兵庫県知事選の時の立花孝志の情報発信による結果について見ればそれは明かだ。ひとは見たいものしか見ない。聞きたいことしか聞かない。

高橋源一郎さんは「丘の上のバカ」の中でこう書いている。

「文学」というのは何だろうか。それは。
「複雑なものを複雑なままで理解しようとする試み」である。
それから、もう一つ、
「最初から最後まで、その対象と共感しようとする試み」である。
たとえば、その本の中に、「悪人ぽい」人が出てくるでしょ。「文学」の場合は「この人、悪そうだけど、なんか理由があるんだろうなあ」と考えるのである。

「民主主義」の根本理念を追い求めたジャン・ジャック・ルソーは「社会契約説」で、その「民主主義」に参加する人たちの」考え方が、全員異なっていることを、もっとも重要なことであると考えた。
「民主主義」においては、「決定の速さ」よりもはるかに大切なものが存在している、とルソーは考えたのである。

同じ国民を「売国奴」と罵る人は、この脆い「国民国家」という、人工のシステムを壊そうとたくらんでいるのである。
同じ国民を「売国奴」と罵ることによって、「国民国家」を分裂させようとするあらゆる試みに、反対せざるを得ない。