事故現場に花を手向ける習慣について 2025.5.30
結論から言うと、やめてもらいたい。
私にはその習慣の意味がわからない。
あの花束はいずれ朽ちていく。
あの飲み物はいずれ捨てるしかない。
誰がいつどうやって処分するのか。
あの花束やあのペットボトルやらをそこに置いた本人が片づけるとは思えない。
では誰がいつどうやって片づけるのか。
それを考えただけでもうやめてほしいと思わずにいられない。
そもそも亡くなった現場に花や飲み物を置く理由がわからない。
亡くなったらほとんどの人にはちゃんとしたお墓や仏壇などがあるだろう。
もしどうしても供養したいのならそちらに行って線香をあげるなり何なりするべきだろう。
いや、本当に供養したいならどこであれ心の中でその人のために祈ればいいことだろう。
わざわざ死んだ現場に、たいていは道端に置くのはなぜなのだろうか。
置く人はその理由がわかっているから置いていくのだろうが、
私にはわからないから推測するしかない。
いわゆる地縛霊のようなものになって事故現場にさまよっていると考えているのだろう。
さまよっているから成仏してもらうためにその現場に花を手向けるのだろう。
それ以外に私は理由を思い当たらない。
地縛霊とかそういうものを信じない私にはだから花を置く理由がわからないのだ。
それと同じ理由で御巣鷹山慰霊登山の理由もわからない。
なぜ亡くなった現場に行かねばならないのかわからない。
亡くなったその人が御巣鷹山の登山が大好きだったのならわかる。
しかし、たぶんその人たちは御巣鷹山などで死にたくはなかったであろう。
御巣鷹山などは忘れたいと思っているであろう。
そんな悲惨な死に方をした場所にはとどまっていたくないであろう。
一刻も早く忘れたいだろう。
そうではないだろうか。
私だったらそう思う。
そんな悲惨な場所に行って悲しみを新たにする意味がわからない。
人生にどんな意味があるのか。
それはわからない。
しかし、何等かの意味があるのだと信じたい。
というよりも、自分の人生の意味は自分で見出したいと思う。
だれか他人から自分の人生の意味をあれこれ決められたいとは思わない。
だとすれば、御巣鷹山で短い一生を無理やり閉じたからかわいそうとか決められたくない。
御巣鷹山で亡くなったとしてもその御巣鷹山に意味があるとは思えない。
意味があるとすればどんなに短くてもそれまで生きてきた日々そのものに意味があるはずだ。
その一日一日に意味があるはずだ。
事故現場に意味があるとは思えない。
そう思えば御巣鷹山に来るのではなくて、亡くなった人と過ごしたそれまでの日々を思い出し、
その日々を愛おしむことこそが供養になるのではないか。
私の近所にある片側二車線の国道にもう何年もずっと花とペットボトルが置かれている場所がある。
交差点ではなく、交差点から10メートルくらいも離れた植え込みのコンクリートの縁に置かれている。
その場所で事故でなくなったのだとしたら交差点の信号を渡らずに植え込みを超えて片道二車線の道路を横断したことになる。
それは明らかに亡くなった人に落ち度がある。
よほどせっぱつまった状態で信号を渡る余裕がなかったということになる。
誰かを助けるためだったのかもしれない。
だからずっと花と飲み物が供えられているのかもしれない。
それでも私はあえて言いたい。
お墓でもない場所に、公共の場所に花や飲み物を供えるのはやめてもらいたい。
【追記】
事故現場で慰霊するのは、その事故の教訓を風化させないためだという理屈はわかります。
しかし、日航機の事故の場合ならば日本航空の整備ミスが原因だとするならば、御巣鷹山で慰霊するのではなく、
日本航空の会社や空港などで毎年慰霊するべきではないでしょうか。
そうでなければ事故の教訓が生きないと思います。
一番教訓を生かさなければならないのはその事故を起こした側だからです。
被害者が教訓を生かすというのはおかしいでしょう。
加害者側が教訓を生かさなければならないのなら、加害者側が毎年慰霊して教訓を反芻すべきです。
というわけで、事故現場で慰霊することを否定したいと思います。
トランプのディールと隣保班でのお付き合いについて考える 2025.5.1
先日、うちの畑でできたサニーレタスを隣家のお嫁さんに差し上げた。
すると、二日もしないでそのお嫁さんから畑で採れたニラを一束輪ゴムで結んでいただいた。
私は正直言ってこういうディールが好きではない。
というよりも嫌いである。
もう二度と何もやり取りしたくないと思ってしまうのだった。
何がそんなに嫌なのかと考えると、それが人と人とのお付き合いではなく、トランプ大統領の得意なディールと感じるからであろうと思う。
トランプさんは全てをディールと考えるのが好きな人であると思われる。
実際「ディール」という言葉を連発している。
アメリカは損しているからその損した分を返せと言っている。
その損得勘定を貿易の収支だけで判断しているようなのだ。
あまりに単純計算で頭がクラクラしてくる。
国と国の関係を人と人との関係に単純に当てはめることはできない。
しかし人間関係に当てはめて考えたくなる誘惑に勝てない。
今回のケースに当てはめると、私は単純に畑で採れすぎた野菜をどう処分するか困っていた。このまま置いておくと塔が立って(花が咲いて)食べられなくなってしまうから、それではもったいないからもらってくれる人がいればとてもありがたいのだ。でも、サニーレタスが家にたくさんあるとか、嫌いで食べないとか、そういうことがあっては押しつけになってしまうから一応「食べますか」と聞いて食べると言ったから差し上げた。もしもらいっぱなしで気が引けるなら、何か余ったときなどにお返しを考えてくれればいいし、忘れてしまっても全くかまわない。
ところが、今回、二日と経たずにお返しをもってきたということは、明らかにディールとして考えているということだ。
ディールとは損得勘定である。損をしたら損を取り返す。得をしたらその分を代価を支払う。
人間の損得勘定はかなり大きな部分を占める。おそらく遺伝子レベルで無意識に行っている。
それはたぶん何かをもらうということが負債、負荷として無意識にインプットされるのだろう。
負債負荷を返さないとそれは負い目となり、無意識に相手に支配されるという権力関係に発展するのであろう。
それが嫌だからすぐにお返しをして負債負荷を返すという行動に出るのだろうと思う。
「さあ、もうお返ししたからね。これで私たちはもう平等だよ。あんたに支配されないからね」と言っているのだ。
そこがとても嫌なのだ。
私は単純に人としてお付き合いをしたいだけなのに、相手はディールとして見ているのだ。
そこで私は、「あなたがそのようにディールとして見るのであれば、以後そのようにあなたとはすべてディールとしておつきあいします」としか言えない。
こう書くと、自分がとても嫌な人間に思えてくるが、実際私は嫌な人間だと思う。つきあいたくない人間だと思う。
でもそう思ってしまうのがこの私なのだからどうしようもない。自分に向かって「そんなかたいことを言うな。つまらないことにこだわるな」と言ってみたところで、
「はいわかりました。以後そのような考えはやめます」というわけにはいかない。
これが自分なのだから。
そこでトランプのアメリカなのだが、
何でもディールというトランプのアメリカとは付き合いたくないというのが結論である。
これまででアメリカはなんだかんだ言っても世界の警察官のような立ち位置で、国際援助にも積極的で、世界のリーダーとして尊敬されてきた。
だから、ドルが世界の基軸通貨として尊重されてきたのだと思う。
しかし、トランプのアメリカはもう世界のリーダーから足を洗うことにしたようだ。
尊敬される必要もない。尊敬されても一銭にもならないから、これからは全て損得勘定で、ディールでいくと言っているようだ。
日本にはすばらしいことわざがある。
「情けは人のためならず」
人に情けをかけること、困っている人を助けることは、その困っている人のためにするのではない。めぐりめぐって自分のためになるという意味だ。
人のためじゃないというのはもちろん言い過ぎで、もちろん困っているその人のために情けをかけるのだが、相手に負担負荷をかけないためのエクスキューズなのだ。
私がお隣に野菜をおすそ分けしたのもまさしく自分のためであって、「人のためならず」
それが分からない人はすぐにディールに持ち込もうとする。
教育もしかり。
子育てもしかり。
みな「人のためならず」
自分のためにやっているのだ。
次世代の子供たちを教育することで国を豊かにし、老後の世話になる。
国も同じだ。
貧しい国を助けることによって、ゆくゆくはその国が豊かになって、世界に貢献してくれるようになる。
かつてのアメリカがやってきたのはそういうことではなかったか。
トランプ大統領が登場した意味がわかった。 2025.4.11
トランプ関税が発動するたびに株が乱高下する。
私も株をやっているので、そのたびに一喜一憂させられた。
しかし、そのうちにこれはおかしいと気づかされた。
この一喜一憂はあまりに愚かなことだと気づかされた。
トランプ大統領も自分が何のために大統領になったのかたぶん知らないのだと思う。
こうやって彼の一挙手一投足が世界中の人間を毎日一喜一憂させているが、
それこそが彼のこの世での役割なのだ。
つまり、人々は次第に私のように気づいていくのだ。
これはバカバカしい、あまりにくだらない一喜一憂だと。
そう気づいた後に人はどこへ向かうか。
それは「色即是空」の境地へ向かうしかない。
この世の真実はすべて「空」であるという悟りへ向かうしかない。
私は心の底から納得した。
「色即是空」の意味がやっとわかり、株がどのように乱高下しても何も感じなくなった。
今、この瞬間にも私と同様に感じている人が世界中に1人また1人と増えているはずだ。
これこそがトランプ大統領の登場の意味である。
陰謀論でも何でもよい。彼の役割はここにこそある。
彼自身も自分で何をやっているのか知らないのだと思う。彼の行動はほとんど無意識の行動である。
それこそつまり「お釈迦様の手のひらの上で踊っている」のだ。
我々はそれを見て悟りへと向かう。その悟りへ向かう人が増えていけば、まもなくこの世は次元上昇していく。
そういうシナリオだったのだ。
オカルト研究の「釈迦が語る宇宙の始まり」へとここでつながるのである。詳細はそちらへ。
防災について 2025.4.8
あと数年のうちに必ず来ると言われる南海トラフ地震。
その災害での被害想定もされている。
そういう想定を知って人はどうすればいいのか。
ほとんどの人は防災のための準備をすればいいと考える。
防災グッズを用意したり、食料を備蓄したり、避難経路を考えたりすればいいと考える。
しかし私はそうしたこと全てに否定的である。
人が病気になるのも、災害に遭うのもすべてに意味があると考えるからである。
その意味とは何か。それはそのことにどう対処するかという自分の選択、決断にその意味が現れるのだと考える。
不幸にも逃げ遅れて亡くなったとしてもその時のその行動決断にその人の人生の意味がある。
死んだからかわいそうだとか、よく備えていなかったから死んだのだとか、
逆に生き残ったのは防災意識が高かったからだとか、よく準備していたからだとか、
そんな評価に意味があるだろうか。
あの東日本大震災では本当にたくさんの犠牲者が出た。
たくさんの犠牲者が出たからこそ大震災なのであり、生き残った我々は今までの生き方を顧みて本当に自分の魂に添った生き方を選び直し生きなおしたのではなかったか。
一人や二人の犠牲者だったら魂から問い直すことはなかっただろう。
災害にはそういう意味がある。
犠牲者にはそういう役割がある。
人生は長い短いは関係ない。
永遠の一瞬というものがあるように、
一瞬の人生にも永遠があるのだ。
だからといってもちろんわざわざ津波の起こる海岸へ逃げることを選ぶ必要はないだろう。
そういうことではなくて、
想定内の出来事は災害とは言わないのだ。
想定外の出来事を災害という。
ということはつまり、
想定内のことが起こったのなら何をしてもしなくても助かるものは助かるだろう。
想定外のことが起こったら何をしてもしなくて助かるものは助かり、助からないものは助からないだろうというだけだ。
災害が起こった時、自分がどこにいるか、何をしているか、
そんなことは想定しようがない。
電車に乗っているかもしれないし、便所に入っているかもしれないし、買い物をしているかもしれない。
それら全てを想定して、電車に乗っているときにはこうしようとか、便所にいるときにはこうしようとか、一つひとつ全部想定するのは不可能だし、意味があるとは思えない。
自治体が災害時を想定して何かをするのは問題ないが、
個人が災害時を想定して何かをするのは意味がないと考える。
あの東日本大震災のとき、大川小学校の犠牲者についてたくさんのことが言われ、たくさんの教訓が導かれた。
こうすればよかったのにとか、ああすればよかったとか、
それは結局死者に鞭打つことでしかない。
想定外のことが起こったのだから想定外の行動をとったとしてもそれは仕方のないことだ。
わざわざ検証して死者を冒とくすることはない。
死すべき運命だったのだ。
生き残った我々のために犠牲になったのだ。
逆にいえば、生き残ったからといって神に助けられたわけでもない。
まだ何も成し遂げていないから生き残ったに過ぎない。
トランプ大統領の時代
なかなか面白い時代になったと思う。
トランプさんが選ばれた理由は、たぶん人々の本音を代弁しているからだと思う。
我々は育っていく過程で、本音と建て前をうまくコントロールしながら生きるように教育されてきている。
動物一般と人間との違いはそこにある。
理想と現実のハザマに生きることと言い換えてもいい。
それは二元論の罠に陥らないための知恵だったのだと思う。
トランプさんはたぶん文学芸術の類に価値を置かない人だと思う。
文学芸術の価値はまさしくそこ、二元論のハザマにあるからだ。
民主主義の意義は少数意見の尊重だと習った。
多数派が多数派の意見をそのまま実行するのではなく、多数派が少数派を尊重して忖度して制度設計する。
そこにこそ民主主義の価値があると習ったはずだ。
トランプさんはたぶんそういう教育を受けてきていない。
もちろん、そう習った上であえて本音民主主義とでもいうものを構築しようとしている可能性はある。
しかしそれはもう民主主義ではない。
私の知る陰謀論者は大統領選のずっと前からトランプさんが大統領になるのは決まっていると言っていた。
というよりも、バイデン大統領の時代から実はもうトランプさんが本当の大統領だと言っていた。
すでにトランプさんが大統領だという意味が私には理解できなかったが、どうもそういうことらしい。
表の世界と裏の世界は違うらしい。
よくわからないが、裏の世界ではもう次の準備ができていて、そこではトランプさんが大統領になっているということのようだ。
真冬に梅の木の花の芽がすでに用意されているようなものらしい。
その陰謀論者によれば、トランプさんが大統領になったことで地球はもう救われたということらしい。
私が陰謀論者に対して違和感を覚えるのをその点だ。
そもそも陰謀論というのは、世の中の出来事をすべて何ものかの陰謀だと考えることだ。
例えばある戦争はユダヤ人の陰謀だとか、カリフォルニアの火事はグローバリストの陰謀だとか、
非常に単純に誰かのせいにする。
逆に言えば、世界は簡単に誰かによって動かせるということだ。
だからトランプさんが大統領になればもう世界は大丈夫ということになる。
つまりそこには自分が世界の一員として責任を持とうという意識がない。
私が違和感を持つのはそこだ。
私は、世界が今このような状態にあるのは、自分の責任でもあると考える。
自分の意志が反映していると考える。
誰か一部の人間が動かしているとは考えない。
動かしているとしてもその人間にそのような権限や富を与えたのは自分の責任でもあると考える。
まあ責任があるかどうかもそれほど関係はない。
要は、この世界にあり様について、誰のせいにもせず、従容として引き受ける覚悟があるかどうかということだ。
責任はなくても私は引き受ける覚悟があるということだ。
それにしても、たった一人の大統領が大統領令を連発してこの世界をいいようにいじくりまわしているのは気分が悪い。
議会など何の価値もなくなっている。
このような制度に激しい憤りを感じる。
日本の首相のように何かやりたくても野党や与党の対抗勢力に妨げられて出来ないという状況のほうがましだと思う。
もう一度まとめると、
陰謀論とは世の中のあり様を誰かのせいにすることであり、
逆に言うと自分では何も責任をとらないということであり。
その誰かが英雄に変われば世界はよくなるという考えである。
私は一人の大統領にこのような権限を与える制度はよくないと考える。
そして世界が進歩すればこのような制度はなくなると考える。
かつての長老制度のように少なくとも十人程度の長老たちによる合議によって決められるべきだ。
いわゆる議会とは別に行政府として長老制度があるのがよい。
橘玲さんは、このトランプ現象について、著書「もっと言ってはいけない」の中でこう述べている。
「トランプ現象があきらかにしたのは、ほとんどのひとは、「事実(ファクト)」など求めていないということだ。右か左かにかかわらず、ひとびとは読みたいものだけをネットで探し、自分たちを「善」、気に入らない相手に「悪」のレッテルを貼って、善悪二元論の物語を声高に語る。ヒトの脳は部族対立に最適化するよう「設計」されており、直感的にそれ以外の方法で世界を理解できない。
これは進化によってつくられた脳の「プログラム」なので、すくなくとも今世紀中は、いやおそらく30世紀になっても変わらないだろう。私たちは、ずっとこの不愉快な世界で生きていくほかはない。」と。
本当にそう思う。
兵庫県知事選の時の立花孝志の情報発信による結果について見ればそれは明かだ。ひとは見たいものしか見ない。聞きたいことしか聞かない。
高橋源一郎さんは「丘の上のバカ」の中でこう書いている。
「文学」というのは何だろうか。それは。
「複雑なものを複雑なままで理解しようとする試み」である。
それから、もう一つ、
「最初から最後まで、その対象と共感しようとする試み」である。
たとえば、その本の中に、「悪人ぽい」人が出てくるでしょ。「文学」の場合は「この人、悪そうだけど、なんか理由があるんだろうなあ」と考えるのである。
「民主主義」の根本理念を追い求めたジャン・ジャック・ルソーは「社会契約説」で、その「民主主義」に参加する人たちの」考え方が、全員異なっていることを、もっとも重要なことであると考えた。
「民主主義」においては、「決定の速さ」よりもはるかに大切なものが存在している、とルソーは考えたのである。
同じ国民を「売国奴」と罵る人は、この脆い「国民国家」という、人工のシステムを壊そうとたくらんでいるのである。
同じ国民を「売国奴」と罵ることによって、「国民国家」を分裂させようとするあらゆる試みに、反対せざるを得ない。