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皇太子万歳主義とは何か


 ここ数日のうちに次々とショッキングな事件が起こりました。わたしは死ぬほど悩んでおります。真剣に悩んでおります。自分の立っている場所がぐらぐらと崩れ落ち、見渡す限り東西南北砂漠の真ん中にいるようで、全く方向を失ってしまいました。こんな時はどうすればいいか。それは空の月をみることです。月が方角を教えてくれます。

 たこつぼや はかなき夢を 夏の月
 
 あらためて「たこつぼ」の時代とは何か。
 一人一人が孤立して自らを神と錯覚してしまう時代。
 「人を殺す経験をしてみたかった」という十七歳の犯罪。バスジャックの十七歳。彼らは深い深い底の見えない「たこつぼ」にはまってしまった。でもわずかな出口から空の月を見上げることができたなら、そこからあの月が見えたなら。あの月だけはこの世にただ一つのもの。孤立した我々を結びつける唯一のもの。我々が今どこにいるかを教えてくれるもの。

 それでは「月」とは何か。
 月は太陽がなければ光ることができない。しかし常に太陽の存在を教えてくれる。太陽が消えてしまったわけではないことを確かに教えてくれる。そういう存在が今ほど必要な時代はない。太陽はそのままでは光が強すぎて直接みることは出来ない。見てしまった者は盲目となる。それが「オーム真理教」であり「サイコーですか」の宗教である。しかし、月は太陽を写す鏡である。直接見ると危険な太陽の存在を確かに実感させてくれるもの、そういうものが今必要なのだ。
 
 わたしはずっと「相対主義」を掲げてきた。宗教を含めて「絶対」を拒否してきた。しかし、この本格化した「たこつぼ」の時代にあたり、あえて「絶対」を選び取りたいと思う。しかし、その「絶対」は自己放棄の「絶対」であってはならない。
 
 それは「相対的絶対」とでも呼ぶべきもの。
 
 自分が神になってはいけない。神はあくまで自分の外になければならない。しかしその神は太陽のように強すぎてはいけない。だから「月」なのだ。
 
 では、わたしにとってその「月」とは何か。
 
 それは「皇太子」である。
 
 さあ、ついて来られない方はどうぞお引き取りください。わたしはかまわず続けます。
 
 わたしはあの背が低くちょっぴり太めでたくましくやさいい目をした常に冷静で決して早口にならずゆったりと歩みそして一人の妻をいつくしみ愛する「皇太子」をわたしの「月」とすることに決めた。

 今日ここにそれを正式に宣言します。

 わたしは今日から「皇太子万歳主義者」となります。
 
 これは決して冗談ではありません。
 真剣そのものであります。
 
 ですからもうみなさんとはこれっきりになるかもしれません。それはとてもかなしいことですが、わたしがともかく歩き出すためには方向をきめなくてはならないのです。わたしの決めた方向について来られない方はまことに残念ですがここでお別れです。さようなら。
 


 補注1:
 これを書き終わった数日後、森首相の「天皇中心の神の国」発言があった。そのため、わたしのこの文章はすっかり色あせ、意味合いがねじれてしまった。
 しかし、よく読んでいただければ全く違うことがおわかりいただけると思います。
 違いとは、天皇ではなく皇太子であること。
 (太陽ではなく月であること)
 (絶対ではなく相対的絶対であること)
 (観念ではなく具体的個人であること)
 (イデオロギーではなく個人的好みであること)
 などなど。
 
 補注2:
 天皇が太陽なら月は皇后ではないかという反論が当然あろうかと思いますが、そのへんの整合性はそれほど重要ではないということをお断りしておきます。
 


 2000.5.28