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教育とは何か


「金八先生」が今回も視聴率を稼いだ。

はっきり言ってくだらないが、子ども達は毎週楽しみにして見ていた。

「ペダルをこいで、ペダルをこいで」とくちずさみながら。

なぜこれほど人気があるか。

 それは誰もがドラマを欲しているからだろう。ドラマはドラマチックであればあるほどよい。死と暴力と性を出せば盛り上がる。毎週何かが起こる。しかしいっぺんには起こらない。そういう意味で最高のドラマは何と言ってもあの堀ちえみの代表作、不滅の名作「スチュワーデス物語」だ。これにははっきり「物語」というタイトルがついていた。金八も「金八先生物語」とすべきなのだ。「金曜八時先生物語」。(今回は木曜の九時から放送しているから「木九先生」だが)毎週金曜八時の一時間だけ、しかも脚本ありなら誰でも「金八先生」になれる。

 ではなぜ人はドラマを欲するか。

人は誰でもこの人生において役割を求めているからだ。ドラマの登場人物には全てに役が割り振られている。不要な人物いない。不要な人物は予めカットされている。「金八先生」には三年B組以外は出てこない。その他大勢は出てこないのだ。現実では我々は全てその他大勢なのである。三年A組やC組なのである。カットされる方なのである。しかしドラマの中では全てに役割がある。これが重要だ。

 しかし、ここまでは全てドラマ作りの問題であり、教育の問題ではない。「金八先生」がうけるのはドラマ作りがうまいからなのであって、「金八」が教師の理想を体現しているからではない。しかし、ドラマづくりと教育とは通じるところがあるのも事実である。

 では「教育とは何か」

それは「出会い」を組織することである。「教科、科目」を教えることなど誰にでもできるし、また、誰に教わらなくても独学ということもできるのだ。それをあえて一人の人間から一人の人間に伝えるという形をとるのは、そこに「出会い」というものを出来(しゅったい)させるためである。

「出会い」とは「他者との出会い」である。「他者」と出会った時はじめて「自分」と出会うことができるからである。つまり、教育とは「自分との出会い」と言ってもいい。「ドラマ作り」は「登場人物すべてに役割を与える」といいましたが、「教育」も「他者との出会いを通して自分の役割を知る」ということです。そこが似ているのです。似ていますが同じではありません。あの「三年B組」には確かに出会いがあり、一人一人に役割がある。しかし、その出会いは他者との出会いではない。「他者との出会い」とは共通の基盤のない、了解不能な存在と出会い、その了解不能性をそのまま引き受けることである。そもそもクラスが一つにまとまったりするのは「他者」と出会っていないからです。「他者」と出会ったら一つにまとまることはまずありえない。まとまったとしてもああいうまとまり方はしない。「たこつぼ的なまとまり方」をするはずである。「たこつぼ的まとまり方」については「たこつぼ発刊の辞」を参照してほしい。とにかく、「金八」ドラマの生徒は「他者」と出会っていないから、本当の自分に出会ってはいない。本当の役割を自覚してはいない。与えられた役割を自分の役割と錯覚しているだけだ。ドラマの金八と生徒との間の絆は美しく、一生の宝物としてお互いに生きる支えになるだろう。毎年集まって同窓会を持つかもしれない。しかしそれはただそれだけのことだ。(ほとんどそれだけが生きがいの先生もいるし、それだけで十分だという人もいるでしょうが)それは世の中を健全育成するにはとてもよいことかもしれないが、なぜ自分がここに存在するのか、何のために生きているのか、そこには全くふれていない。逆にいうと、三年B組の生徒たちはあのすばらしい思い出のためにその後の人生を誤る可能性もある。与えられた役割を本当の役割と思いこみ、一生涯、「他者」と出会わないまま終わる可能性もある。(それも幸せといえば幸せな一生かもしれないが)

 少なくとも私は「金八」のような先生に教わらなくて幸せであった。金八の「はったり」は見事である。教育が「はったり」だとしたら金八は理想像である。だが、金八に教わっても自分に出会うことはまずないだろう。私が「自分に出会った」のは、高校時代、全校生徒を集めて校長先生が一生懸命話をしている時に、後ろの方から「話が長いぞー」と茶々を入れる先生に「出会った」時であった。この先生は特別優秀な先生だったわけではなく、むしろ落ちこぼれに近い存在だった。しかも私はその先生と親しく話したこともない。しかし確かに私はそこで「他者に出会った」のである。「出会い」とはそういうものだ。だから「出会い」は必ずしも相手が人間である必要はない。「教科書」であったり、「音楽」であったり様々である。

 さて、小渕首相はまた「教育改革国民会議」とかいう諮問機関を設けて、堕落したこの日本を再生したいと考えているようである。彼はまだ学校が変われば子どもが変わると考えているのだろうが、それはうそだ。

もしそうなら、逆に学校が変わらなければ子どもも変わらないはずだ。ところが、現実には学校は戦後から全く変わっていないのに、子どもはどんどん変わってきている。同じ教育をしてきて子ども達だけが変わった。つまり、教育には子どもを変える力はないということだ。人間は社会的関係の産物だ。物理的経済的関係の産物だ。これは子どもも大人も同じ。マルクスのいう「下部構造」は今でも有効だ。

学校だけどのようにいじくり回しても子どもは変わらない。

ではどうすればいいか。

もう一度おさらいをしておこう。

教育が人を変えるのではない。「他者との出会い」が人を変えるのである。「教育」とはその「出会い」を組織することである。

「出会い」は学校教育以外にいたるところにある。今の教育を変えようと思ったら、「学校」を解体するのが一番の近道かもしれない。インターネットがそれを可能にする日もそう遠くないだろう。その時どうやって「出会い」を組織するか。それは教育が学校という閉ざされた空間から解き放たれて、全ての人間が教育者となることを意味する。それこそが真の教育改革である。その具体策については次の機会に考えたい。