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虚無を生きるとは何の謂いぞ


  ルールというものは理由をきいてはならないのである。
 サッカーはなぜ11人なのか、なぜ手を使ってはいけないのか、それを問うてはならないのである。
 ただひたすらプレーをすればいいのである。何のために四角いゴールがあって、なぜあそこを目がけてボールを蹴るのか、そういうことを問うてはならないのである。
 とにかく、相手の陣地にボールを入れればいいのである。そうすれば、みんなが拍手してくれて、英雄になれて、気持ちよくなって、生きている充実感が得られるのである。

 しかし、考えてみるとこれはとても奇妙なことではないだろうか。
 人間が勝手に作ったルールの中で、勝ったり負けたりして泣いたり笑ったりするのである。
 これは例えば本来だれのものでもない土地に勝手に線を引いて、ここからここまでが堀江さんちで、ここからこっちが小泉さんちとか、勝手に決めているのと似ている。それはぼくらが生まれたときからもうみんな決まっていたのである。この世を生きるとはそういうことなのである。

 国語とか算数とかいうのがあって、そいつでいい点を取ったりすると、みんなが拍手してくれて、英雄になれて、気持ちよくなって、生きている充実感が得られたりするというのも全く同じなのである。

 しかし、山中で熊に襲われて、「やめろ!俺は偏差値70だぞ」と叫んでも、熊には通じないのである。
 それはつまり、熊の棲む土地を奪っておきながら、腹を空かした熊たちが里の畑を荒らしに来たとき、「やめろ、そこは俺んちだぞ」と叫んでも通じないのと同じである。

 人間は人間にしか通じないルールをあまりに作りすぎたのである。

 私の感じる虚無感というのはそのへんに根元がありそうだ。

 たとえば熊にも通じるルールの中で生きられれば、こんなに空しい気持ちにはならずに生きられるのではないだろうか。つまり逆に言えば、ルールがあまりにローカルで、ほんの一部にしか通じないから空しいのである。

 それでは、「虚無を生きる」とはどういうことであろうか。

 それは、人生というものにルールがあって、そのルールには実は何の根拠もないということ、しかも、そのルールというものがあまりにローカルで狭い範囲にしか有効ではないということを知りながら生きなければならないということなのである。

 人生にもルールがある。
 しかし、このルールもルールである限りサッカーのルールと同じなのである。
 意味を問うてはならないのである。
 ただひたすら生きなければならないのである。

 しかし、人間の中には数%の確率で、この人生のルールの意味を問わずには生きられないものが出現するのである。あるいは、人生という舞台に一度も上がることなく死んでいく者がいるのである。
 それでも、人並みに結婚して子どもを産んで、人生の先輩のような顔をして説教を垂れたりもするのである。
 彼らは奈落の底を毎日すぐ脇に見ながら生きているのである。虚無の空洞を心に抱えて生きているのである(それをも生きていると呼べるならば)。
 奈落の底は影のようにいつでもその人間の横に付き添っているのである。
 どこへ行こうと、何をしていようと、すぐそこに、常にぴったりと寄り添っているのである。


 
ある時は教師として、「遅刻をするな」と説教を垂れているのである。
 その瞬間、「虚無」が囁くのである。
 「遅刻するなだと!!。そんなルールはここでしか通用しないではないか。しかもお前はそのルールを信じてさえいない。お前は何一つ確信をもって言えることはなく、ほんの一瞬でも確信をもって生きた経験もないくせに、遅刻するなと説教するのか。確信のないことをさも人生の重大事であるかのように吹聴するのは罪悪ではないか。恥ずかしいと思わないのか。今すぐ教師を辞めるべきだ。やめて畑を耕せ。そうでなければ、腹を空かせた熊に食われてしまえ。お前にできることはそれしかない」と。

 サッカーのワールドカップ日本戦。
 若者達がテレビの前で握り拳を振り上げて泣いたり笑ったりしている姿を見て、私もまた泣きたくなるのである。彼らは応援しようと思って応援しているのではない。応援することが彼らの生きていることとぴったり重なっているのである。そこに一部の隙もない。

 つまりこれが生きるということなのである。
 身体と心にズレがない。彼らはルールと一体化しているのである。

 本当に生きている人を見るとなぜだか泣きたくなる。
 一度も本当に生きたことのない私のような人間にとって、それは一つの感動なのである。

 ああ、私も生きたいのである。
 本当に生きたいのである。
 虚無を生きたくはない。
 それはそんなに難しいことではない。
 ただ、目の前にあるルールを受け入れてしまえばいいのである。
 たったそれだけなのに、どうしてそれができないのだろうか。

 すでにして、言葉をつむぐということがそもそも生きるということと正反対のベクトルではないだろうか。

 おわり